国府台の里見公園から江戸を見る

国府台、江戸を俯瞰できる

下総台地の西端、江戸川に面した台地を国府台という。
ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。

室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。
続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。

江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。

天文の内訌において後北条氏と結び第5代当主となった里見義堯。
その後は後北条氏と手を切り、再び小弓公方方につく。その後は後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を混じえた。里見氏は、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦における大敗、後北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜け、上総に勢力を伸張した。

里見義堯・義弘の親子は、第二次国府台合戦で後北条氏に敗北を喫するが、永禄10年(1567年)の三船山合戦で北条氏を破り、上総での勢力圏を確固たるものにした。後北条氏が上杉氏と連携すると、これに対抗して義弘は甲斐の武田氏と同盟を組み(甲房同盟)、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになり、最盛期を迎えた。

天正2年(1574年)に義堯が没した頃より北条氏の巻き返しが発生し、天正5年(1577年)、里見義弘はたびたび干戈を混じえた北条氏政と和睦(房相一和)して下総から撤退し、以後領国経営に専念する。

義弘が天正6年(1578年)に没すると、嫡子梅王丸と弟義頼(義弘の庶子とも)との間で家督争いが発生、上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いを制して当主となった里見義頼は豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得る事に成功する。

義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原征伐に参陣するも、惣無事令違反を犯したために秀吉の怒りを買った。これにより上総・下総は没収され、安房一国のみが安堵された。このとき徳川家康がとりなした事により、以降里見氏は徳川氏と誼を通じるようになる[17]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、論功行賞によって常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となった。また、義康の弟の里見義高も上野板鼻1万石の藩主に任じられた。

だが、慶長18年(1613年)に里見義高が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義も舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となった。

しかし実際は、彼には100人扶持ほどの糧米しか与えられておらず、配流と同じ扱いだった。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。


里見公園は戦国時代の城「国府台城」跡につくられた市立公園
この地国府台で、安房の大名里見氏と相模の大名北条氏が激突しました。北条氏の勝利、里見氏の敗北で終わったこの戦にまつわる伝承はいまだに江戸川両岸の江戸川区と市川市に残っています。じゅん菜池緑地の姫宮や中山法華経寺手前の安房神社。そして里見公園に建てられた「夜泣き石」と「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」も第二次国府台合戦の激しさを今に伝える大切な歴史遺産です。

11 thoughts on “国府台の里見公園から江戸を見る

  1. TokyoBlog Post author

    安国山総寧寺は、歴史と格式ある社寺の多い市川市でも、際立って高い格式を誇った曹洞宗の寺院です。江戸時代には徳川幕府より10万石の大名と同等の格式を与えられていたそうです。また、明治以前には、里見公園全体が総寧寺の寺領であったようです。江戸名所図会によると、里見公園南西外れの羅漢の井も総寧寺内にあり、太田道灌が植えたと伝えられる榎や梅の木があったそうです。

  2. TokyoBlog Post author

    総寧寺は、古くから一宗の僧録に任じられており、家康が天下を掌握すると、宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも、歴代住職は十万石大名の格式を持って遇せられ、江戸小石川には、屋敷が与えられた。僧寧寺の格式の高さは、今日も残る、門前の「下馬石」によってもわかる。

  3. TokyoBlog Post author

    総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として、近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
    ところが、天正3年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿に移した。
    その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663)遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台に移った。その折幕府は寺領として128石5斗余、山林67000余坪を与えている。
    総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも歴代住職は十万石大名の格式を以って遇せられ、江戸小石川には邸が与えられた。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
    明治5年(1872)学制の施行によって、第一大学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍用地となり、昭和33年現在の里見公園となった。
    本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である二基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。(市川市教育委員会掲示より)

  4. TokyoBlog Post author

    総寧寺(そうねいじ)は滋賀県米原市にある
    曹洞宗の寺院である。

    北陸自動車道米原ICから車で2分ほどの所にある。
    1383年(永徳3年)佐々木氏頼(六角氏頼)が創建したと云われる。

    氏頼は近江守護職で通幻寂霊(つうげんじゃくれい)を開山に迎えたとされる。

    1530年(享禄3年)戦乱により焼失。8世住持・越翁宗超は掛川に退避、常安寺を創建。
    その後、焼失、移転などを経て最終的には千葉県市川市に総寧寺として存在する。
    一方、1530年(享禄3年)焼失後、新庄直忠がこの地に総寧寺を再興。直忠は近江新庄城主であり、新庄直忠の菩提寺となり、現在に至っている。

    このように、米原市と現在の市川市の総寧寺は起源を同じくする。

  5. TokyoBlog Post author

    近江八幡の観音寺城

    近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

    標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

  6. tokyoblog

    近江 京極家の寺 清龍寺
    清滝寺(せいりゅうじ)は、京極家の始祖氏信(うじのぶ)の草創(1283)で、寺号は氏信の法号の清瀧寺殿から称されました。永仁2年(1292)氏信の死後、寺内に墓を建て、以後、京極家は清滝寺を菩提寺に定め、歴代当主の墓所としました。

     浅井氏の台頭とともに寺運は衰えますが、江戸時代の寛文12年(1672)に、丸亀藩主京極高豊(22代)が、所領の播磨国(兵庫県)二ヶ村と清滝寺周辺の土地を清滝寺周辺の土地を知行替えすることにより、子院12坊の再興と三重塔を建立して、高和(21代、初代丸亀藩主)の院号から徳源院と称しました。

  7. tokyoblog

    佐々木氏信
    父:佐々木信綱 母:北条義時娘
    兄弟 大原重綱、高島高信、六角泰綱、氏信、行綱、藤原和泉守行方室
    妻 野尻時光娘
    子 頼氏、範頼、満信、
    宗綱、信雅、加地経綱正室、
    吉良満氏側室)、上田佐時正室、武石宗胤正室、久明親王側室
    承久2年(1220年)、後に近江国守護に任ぜられる佐々木信綱と、その正室である2代執権・北条義時の娘との間に四男として生まれたとされる[7]。

    仁治3年(1242年)に父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、江南と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄・泰綱は佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となる。長兄・重綱と次兄・高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏・高島氏の祖となる。

    佐々木(六角)氏頼
     建武五年(1338)、室町幕府は氏頼から近江守護職を取り上げ、幕府重臣として活躍する佐々木京極高氏(道誉)を任じたのである。幕府にすれば 京に隣接する近江を若い氏頼に任せることに不安を抱き、年齢、経験とも申し分のない導誉を抜擢したのであろう。たとえ勢力があるとはいえ京極氏は 佐々木氏庶流であり、六角氏頼が大きな挫折感を味わったことは想像に難くない。ともあれ道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび 近江守護職に任じられた。やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。 さきの時信といい、この氏頼といい、淡白というか、厭世的というか、乱世向きの人物ではなかったというしかない。
     六角氏はまたもや当主に幼い千寿丸を戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。

    1. tokyoblog

      氏信が佐々木氏本家を凌ぐ勢力で政治の中心で活躍できたのは、氏信自身が北条得宗家(鎌倉幕府の執権・北条氏の嫡流・家督当主)や皇族6代将軍・宗尊親王など皇族将軍家の側近であったばかりでなく、母が執権・北条義時の娘、正妻が将軍家女房右衛門督局(公卿・阿野実遠の娘であり、祖母は阿野全成・源頼朝弟の娘)すなわち源頼朝・弟のひ孫、娘が皇族8代将軍家・久明親王家女房など、女性の血縁が環境を優位にしていたのかも知れない。

      氏信は鎌倉を主な活動拠点にしており、相模国最大の御厨である大庭御厨(おおばみくりや)を関東での本拠地とした。大庭御厨は鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した相模国最大の寄進地系荘園である。平安時代末には、鎌倉権五郎景政の子孫にあたるという大庭氏が御厨を経営していたが、佐々木氏と縁戚関係にあった大庭氏の祖景忠の子景親は、1180年(治承4年)平治の乱において平清盛の家人となり、源頼朝の挙兵に対抗して滅亡した。その後、大庭域は源氏配下の在庁官人である三浦氏の所領となったが、宝治合戦により三浦氏が滅亡したため、以後は北条得宗家の所領となり、氏信の関東での本拠地となった。

  8. tokyoblog

    佐々木近江権守景綱が北朝方の越後国大将であったことは、建武三~五年(1336-8)に発給された色部高長軍忠状案(色部文書)で知ることができ、建武三年十一月十八日付羽黒義成軍忠状写(中条家文書)では「大将軍佐々木加地近江権守景綱」と記されている。

    上杉氏が守護として越後に入部すると、国大将の地位を失った。それでも足利尊氏の奉公衆(直臣)として中央で活躍し、師守記康永三年(1344)五月十七日条に記載の熊野参詣供奉人によると、景綱の嫡子氏綱(近江四郎左衛門尉)が帯太刀として列し、次男清氏(近江次郎左衛門尉)が調度役を勤めている。さらに翌四年(1345)天龍寺供養で氏綱は先陣十二人衆の一人に列し、弟清氏は帯剣(右十三番)として列した。ただし、この時期中央で活躍する佐々木近江入道(熊野参詣奉行)は景綱ではなく、佐々木導誉の兄佐々木善観(鏡氏)のことである。景綱が越後に在国していたことは、貞和三年(1347)十月二十日付佐々木景綱請文(三浦和田氏文書)で知ることができ、依然として越後で実力者であったことが分かる。その後も氏綱は貞和五年高師直邸に参じるなど中央で活躍している。氏綱の実名は初代氏綱と同じであるが、尊氏から一字書出を給付され、氏綱と名乗ったのだろう。そのことでも景綱・氏綱父子が尊氏からの信任が厚かったことが分かる。

  9. tokyoblog

    近江観音寺城
    建武2年(1335年)六角氏頼が築いたといわれるが定かではない。 永禄11年(1559年)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に対して籠城の構えを見せるが 支城の箕作城が落城すると城を捨てて甲賀に走り廃城となる。

    近江 音羽城
    築城年代は定かではないが応仁年間から文明年間に蒲生貞秀によって築かれたと云われる。
    音羽城を舞台とした戦は三度あったと伝えられ、明応5年美濃の斎藤利国が京極氏とともに佐々木六角高頼を攻めたとき。文亀2年(1502年)佐々木六角氏の家臣伊庭貞隆が主家に背くと、六角高頼は音羽へ逃げ、貞隆がこれを追って音羽城を攻めたとき。 そして、大永2年(1522年)宗家争いで貞秀の孫秀紀と叔父の高郷が争い、高郷は佐々木六角氏の援軍を得て秀紀を音羽城に攻め、3年の籠城を経て降伏したときである。
    この最後の戦いによって蒲生高郷が中野城を拠点としたため、以後音羽城は廃城となったといわれる。

  10. tokyoblog

    長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦い

    幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのである
    その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。このように、佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていた。

    ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。
    実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。

    信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている。
    もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。
    「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。
    しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

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