東京のなかの讃岐 高松藩 丸亀藩

虎ノ門、愛宕、麻布、白金の辺りに、讃岐ゆかりの神社や公園などが多い。

高松藩松平讃岐守の下屋敷。
松平讃岐守 港区白金台5-21

現在は国立科学博物館付属自然教育園および東京都庭園美術館の敷地となっている。明治維新後、長く軍の施設及び皇室御料地であったことにより、園内には国指定の天然記念物が数多い。自然教育園から高輪台へかけては江戸期から残る古寺が多い寺町となっている。

上屋敷は
高松藩は徳川御三家水戸藩の御連枝である名門。水戸光圀さんの実子が高松藩主となっている。

広大な水戸藩邸は今の小石川後楽園、東京ドーム一帯です
高松藩邸も水戸藩邸のすぐそばだった。

京極 丸亀藩

丸亀藩は、明暦3年(1657)まで、山崎氏がおさめていましたが、三代藩主・山崎治頼 (はるより)がわずか8才で亡くなり、世継ぎがいなかったため、領地を没収されてしまいました。
その後、万治元年(1658)に、京極高和 (きょうごくたかず)が播磨国 (はりまのくに)(兵庫県)竜野から丸亀城に入り、丸亀藩主となりました。
丸亀藩の所領は、5万1500石余で、京極高和以降、明治維新まで京極家がおさめていました。

四国の讃岐丸亀五萬二千石の城主、京極家は、上屋敷は虎ノ門、下屋敷は二箇所に所有し、白金三光町と品川区小山にありました。品川区小山の屋敷は敷地面積八千四百坪に及ぶ広大なものでした。
下屋敷は「白金屋敷」(港区)と「戸越屋敷」と呼ばれていました。

戸越屋敷

現在の品川区小山二丁目十四番から十七番付近にあり、寛文六年(一六六六)二代藩主の京極高豊の時に取得し、敷地面積約八、四〇〇坪(約二万七千平方メートル余)と広大なものでした。

芝 三田の京極氏
新一の橋から古川に沿って東に向かい、最初の交差点から中ノ橋交差点までが東西の町域となる。南北の奥行きは狸穴公園までなので、約3ブロック程度の小さな町である。全域が古川流域の低地となるが、南が一番低く、北がやや高い。全域が現在の東麻布二丁目に含まれる。北で狸穴町、東で森元町、飯倉町、北赤羽河岸と、南で新門前河岸、薪河岸、古川を挟んで芝新門前町、芝新門前河岸と、西で新網町に接する。

いわれ
「北新門前町」という名前から、寺社地の門前かと思われるが、町域及び近隣に大きな寺社はなく、もともと門前町であった訳ではなく、さらに、「北」に対して「南」がある訳でもなく、「新」に対して「元」や「本」がある訳でもない。

延宝年間(1673~1681)には武家地になっていた。武家地の西2/3は幕末に至るまで京極氏であり、東1/3は京極氏から青木氏に変わった

虎ノ門金刀比羅宮
ここは、丸亀藩江戸上屋敷跡です

1660年に讃岐の金毘羅様を勧進。
金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座。

1679年にこの地に藩邸が移ってからも
ずっと邸内社として金毘羅様をお祭りしていた。文化年間に京極家は毎月10日に屋敷の門を開放し一般の人もお参りできたようです。

虎ノ門金刀比羅宮
1660年、その御分霊を讃岐国丸亀藩主・京極高和が芝・三田の江戸屋敷内に勧進したのがはじまり。
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。

京極稲荷神社
住所 品川区小山2-15
豊受姫を祀る
丸亀藩(京極氏)の邸内社として寛永12年(1635)創建したといい、明治維新後に当地にあった下屋敷が引き払われて以降、地元有志で管理されているといいます。

東京の金比羅さま

白金高松家・金比羅
麻布六本木京極家下屋敷・金比羅

生駒家と京極家の金毘羅勧請の由来

一、東武下谷御徒士町生駒斧太郎八千石は、交代寄合表御礼衆と号し拾七家の同列にして、今在処出羽国由利郡矢島を領すといへども、むかしおのおの高禄の大家のよし、就中生駒の家は、人皇百八代後陽成帝の御宇天正年間までは、讃岐国香川郡高松の城主にて、生駒雅楽頭一政、おなじく讃岐守俊政、おなじく壱岐守高俊と相続し居城せしが、高俊の代天正十八庚寅の年高松を転じて同国那珂郡丸亀の城主に移され、これより五十弐ヶ年の間丸亀の城主たりしが、生駒雅楽頭政持の代、寛永十八辛の巳年故ありて、讃州丸亀を転じて今の羽州由利郡矢島を拝領し移れり、さればむかし讃岐に有し時すら、象頭山の月参もこゝろに任せず、況や日参をや、是によりて国屋敷の内に勧請し崇敬せしより、今も猶代々下谷上やしきに金毘羅神を勧請し、例月十日十日に裏門をひらきもろ人の参詣を許す事殆百八十五年に及ぶ、これむかし高松丸亀の二ヶ所に居城せし遺風にして、生駒の金比羅といえる是也、彼多宮坊太郎親子は、此生駒家の臣にて、代々当家に仕え家相続す、むかし坊太郎金比羅の利生を蒙り、実父源八が敵を打しが、年経て後病死し、東叡山内勧成院へ葬り、美名と共に坊太郎が墳墓朽ざるが故に、戯作者の徒浄瑠璃につゞり標題を花の上野誉れの碑と号けしは宣なる哉、これ金毘羅権現の加護による処也、されば生駒家むかし叡処の守護神といひ、代々彼是の霊験著明きがゆへに、猶も件の神社を勧請し崇敬するなるべし、居やしきに金毘羅神を崇め縁日ことに、諸人の参詣を許す権輿にして甚古し。
一、芝新し橋外京極能登守(五万千五百余石)上屋敷に、金毘羅神を勧請さる所以は、刑部太輔高和の代、万治元戊戌の年播州楫西都龍野を転じ、讃州那珂郡丸亀へ国替しては、国に名たゝる霊神なれば信仰せしに、若狭守高或〔たかもち〕の代かとよ、舎弟壹岐守高道を本家の家替にせんと隠謀する者ありて、既に内乱に及ばんとする前夜、件の神馬高或の枕上に影現し遽〔あへたま〕しき霊夢ありしかば、佞姦の悪徒を一々糺明し滞りなく家収りて後、いよいよ神験の著明きを感仰し、頓で一社を造立して金毘羅神を勧請せしより、人もその威徳を聞つゝ常々門外より遙拝するもの若干なれば、例月の十日十日は西往来の裏門をひら参詣のもろ人を許し入、下向をば北往還の裏門より繰出し、朝は未明より日没にいたるまで群集する一件は、三編の初巻四拾弐の條下にいふがごとし、凡享保の末より文政八乙の酉年にいたりて最早百有余年に向とす、されど生駒家の金毘羅に後るゝ事四昔に過たり、此因によりて一族麻布六本木京極壹岐守(壱萬石)麺町弐丁目京極甲斐守(壱万五千石)木びき町三丁目京極備後守(壱万千余石)以上四家とも、象頭山金毘羅権現を屋敷内へ勧請し、おのおの十日十日は参詣のもろ人を許す、しかるに此四五ヶ年以来小石川見付内松平讃岐守(拾弐万石)の上やしきにも、件の神社を経営して毎月十日十日は、西横町突当りの小門をひらき、参詣の人々を許し入ぬ、両側には幟幢の類ひを建つらね、社頭の荘厳花美を尽せり、(釈敬順『遊歴雑記』五編巻之中 文政九年(1826))

海蔵寺 東京都港区北青山2丁目
京極越前守高朗の墓
承応年間、禅僧卓峰が本所牛島に結んだ庵を始まりとする黄檗宗のお寺。幕臣京極越前守(能登守)高朗の墓がある。京極高朗は文久3年の遣欧使節に目付として同行した人物で、後に神奈川奉行、長崎奉行を歴任した。

京極 高朗(きょうごく たかあきら)は、讃岐丸亀藩の第6代藩主。丸亀藩京極家8代。

寛政10年(1798年)4月24日、第5代藩主・京極高中の四男として江戸本邸で生まれる。寛政12年(1800年)3月21日、父高中の嫡子となる。文化8年(1811年)3月9日、父の死去により跡を継いだ。文化10年10月1日、将軍徳川家斉にお目見えする。同年12月16日、従五位下長門守に叙任している。

藩政においては高朗自身が文学的才能に秀でていたため、江戸藩邸に藩校・集義館を開いた。弘化2年(1845年)には鳥居耀蔵を預かっている。しかし治世後期から、士民共に奢侈に走る傾向が見えたため、高朗は藩政再建のために加藤俊治らを登用して藩政改革を行ない、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定や文教政策に力を注いだ。嘉永3年(1850年)3月7日、婿養子の朗徹(従弟高周の五男)に家督を譲って隠居し、明治7年(1874年)2月14日に丸亀にて死去した。享年77

麻布十番近くの讃岐会館
東京さぬきクラブ

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One thought on “東京のなかの讃岐 高松藩 丸亀藩

  1. tokyoblog Post author

     イギリスはそういういいがかりをつげて中国に戦争を仕掛けました。アヘン戦争です。
     アヘン戦争はわずか二年で中国の敗北に終りました。
     中国はイギリスに賠償金をとられ、香港をとられ、さらに貿易港を開かされました。
     イギリスの半植民地になったといっても言いすぎではありません。
     その知らせは長崎という小さな窓をとおして日本にもはいってきました。
     もはや対岸の火事と思って安心していられぬことは 誰の目にも明らかなことです。
     斉昭の藩政改革はこういう状態のなかで、着々と進められました。
     それは幕府や諸大名に危難をつげる警鐘となってもいいはずでした。
     ところが意外にも幕府はそういう斉昭(なりあき)に対して警戒の目をむけました。
     攘夷の心がたかまるにつれて、それが朝廷を貴ぼうという尊皇の精神と合流して新しく「水戸学」とよばれる学問が水戸藩に興ったからです。
     尊皇の精神は古くから水戸藩の心として生きていました。
     その源(みなもと)をさぐるには二代藩主光圀(みつくに)の時代まで遡(さかのぼ)らねばかりません。
     水戸藩は江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長十四年(一六〇九)第十一子の頼房(よりふさ)を水戸にうつして、二十五万石の領地をあたえたことから、その歴史がはじまります。
     その後石高は二十八万石、さらに三十五万石とぶやされました。
     水戸藩は尾張藩、紀伊藩とならんで徳川のご三家です。いずれも家康の実子が藩主となったからです。
     しかし水戸藩は尾張藩五十二万石(のちに六十一万石となる)、紀伊藩五十五万五千石にくらべると、石高もすくなく格式も低いほうでした。
     そのためか幕府は水戸藩主だけは参勤交代をせず、定府制といって常に江戸に住むことを許しました。
     水戸藩主が「天下の副将軍」と世間でいわれたのは、こうして常に将軍のひざもとに住んでいたからです。
     光圀は寛文元年(一六六一)頼房のあとをついで藩主の座につき、民の心に情けをかけた善政を行いました。
     光圀は藩主の座につくまえから中国の古い歴史書を読みあさりました。
     なかに伯夾(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟の話があります。
     伯夷・叔斉はともに昔の中国にさかえた殷(いん)の侯国(こうこく)の国王の息子です。
     ところが二人は互いに次に国王の位につくことを譲りあって、二人とも国から立ち去ってしまったというのです。
     光圀は深く感動するとともに、激しい心の痛みを感じました。
     なぜなら光圀には兄がいて、高松藩十二万石のあとをついでいたからです。
     本来ならこの兄こそ、水戸藩三十五万石をつぐべき人物だったからです。
     「その兄をさしおいて自分が水戸藩主になることは、伯夾・叔斉の教えてくれた人間の道からはずれることになる。」
     苦しみはそこからわいてきました。
     やがてそれをある方法で解決することにした光圀は、人間の道を教え示す歴史書を自分でも編纂することを思いたちました。
     徳川家は幕府を開いて大きな権力を握りました。
     しかし道を忘れていたずらに驕(おご)りたかぶれば、いずれその勢いは衰えるでしょう。
     平氏、源氏、足利氏など驕れる者はみなあわれな末路をたどりました。
     中国でもたくさんの国が起っては亡びています。
     光圀はその原因が権力をとった者が道をはずれたからだと思いました。

     武士が政権をとるまえの日本では朝廷が政治を行ってきました。
     源平、足利がほろびたのちも、朝廷は絶えることなく続いています。
     しかもその存在は頼朝、尊氏、家康が朝廷から征夷(せいい)大将軍に任命されて、初めて幕府を開いたのでもわかるとおり、朝廷がいぜん政治の中心にあるものと見られています。
     光圀(みつくに)は朝廷を日本の権力の頂点と見て、幕府も朝廷に対する義を重んじて貴ばねばならないと考えました。
     幕府が朝廷を貴とべば諸大名も幕府を重んじ、家臣もそれぞれの大名に忠をつくします。
     そこには、互いに上下の立場をわきまえた正しい秩序が生まれます。
     それこそ幕府を永遠に安泰なものにする道徳的な土台です。
     光圀はそう考えると、歴代天皇の事蹟をしらべてその業蹟を明らかにする決意をしました。
     江戸駒込の水戸藩邸に彰考館(しょうこうかん)という学問所をつくり、全国からすぐれた学者を集めました。
     元禄三年(一六九〇)、光圀は六十三歳で隠居しました。
     そのとき光圀は高松藩に生まれた兄の子を水戸藩にむかえて藩主にしました。
     三代目の藩主綱条(つなえだ)です。

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