古代史の旅1:讃岐と三河の日本武尊、讃留霊王、建貝児王

讃岐(香川県)と三河(愛知県)に、大和武尊の子供である建貝児王を祀る神社がある。
讃岐の建貝児王は武殻王とも讃留霊王とも呼ばれ、讃留霊王神社(鵜足郡井上郷玉井村:現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)に讃留王大明神として祀られている。神社の裏手にある前方後円墳は武殻王を葬ったものと云われている。
三河の建貝児王は、宮道天神社(愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路)に祀られている。宮道天神社の伝承によれば、日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです。この建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社だというのです。
典型的な広域交流の神社伝承であり、いくつかもの謎がある。
1.大和武尊の東征にかかる謎:いかなる一族が東征に参加し、三河に足跡を残しているか。
2.讃岐にも三河にも「鵜足(うたり)」の地名と神社がある。何故か?
3.東征後の地域支配の拡大は、どの氏族が担ったか?
讃岐の武皷王
四国一円を荒らしまわる悪魚がいて、日本武尊に退治を命じられました。父に代わって武殻王が讃岐の綾川近くに陣を構えて、悪魚退治を行ったという伝承が残っている。
記紀の景行天皇51年の条には次の様に書かれている。古事記に建貝児王、書記に武卵王、武鼓王ともいう。
「日本武尊妃、吉備武彦之女、穴戸媛生武皷王、興十城別王其兄、武皷王、是讃岐綾君是始祖也」
日本武尊が吉備武彦の娘の吉備穴戸媛を娶って生んだ子供が、武皷王である。古事記には建貝兒王(タケカイゴノミコ)が「宮首(道?)之別等之祖」と記されている。
先代旧事本紀では、日本武尊は吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛を娶り、武卵王[讃岐の綾君等の先祖]と十城別王[伊豫別君等の先祖]を生んだとあります。また、穂積氏の忍山宿禰の娘の弟橘媛を娶り、武田王[尾張の国の丹羽建部君の先祖]、佐伯命[三川御使連等の先祖]など9人の子を産んだとあります。また、日本武尊は両道入姫皇女を娶られ、稲依別王[犬上君・武部君等の先祖]、稚武王[近江の建部君・宮道君の先祖]
など3男1女を生んだとある。
日本武尊の東征とその後
神社伝承を探ると、景行天皇の命令により、大和武尊は、大伴武日と吉備武彦を将軍として同行させています。また、忍山宿禰と弟橘媛も同行しているようです。
記紀によれば、蝦夷を偵察したのが武内宿禰、討伐したのが日本武尊、それに大足彦忍代別天皇(景行天皇)が従はせたのが、吉備武彦と大伴武日連であった。日本武尊亡き後、蝦夷の騒乱を鎮めたのが御諸別王、毛野氏が東国で根を張ることとなったという。
尾張の一族も東征に参加している。
近江の一宮の建部神社は、稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳4年、勢田郷へ遷座したという。
稲依別王に関しては、古事記では、日本武尊と安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売との間に生れた子。日本書紀では、両道入姫皇女との子である。
宮簀媛(みやすひめ 古事記では尾張国造乎止与命の子の稲種公の妹)は、
日本武尊は東征の帰路尾張において、宮簀媛を娶りました。五十葺(伊吹)山に荒ぶる神がいると聞き、草薙剣を媛の家に置いたまま退治に向かったが、神の怒りに触れて病となり、媛の家には向かわず、伊勢にて没した。媛は尊の死後、草薙剣を斎き祭ったという。(熱田神宮の起源説)
建稲種命(宮簀媛の兄)も景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮、羽豆神社、鳴海神社、尾張戸神社などに祭られている。
伊勢鈴鹿の忍山神社
鈴鹿市道伯町(伊勢国河曲郡)と亀山市野村町(伊勢国鈴鹿郡)に忍山神社が鎮座。後社の祭神に饒速日命、大水口宿禰、忍山宿禰が並んでいます。
宇治の宮道氏と日本武尊
山科の宮道神社(みやじじんじゃ):宇治郡を本拠とした氏族宮道氏の祖神日本武尊、その子稚武王を祭神としている。『先代旧事本紀』の「天皇本紀」では、宮道君の祖は、第二皇子・稚武王とし、第三皇子は武卵王で、讃岐綾君等の祖としています 。山科一宮山科神社も同じ祭神を祀る。
讃岐の伝承
大伴健比連
三代実録には「貞観三年、書博士正六位下 佐伯直豊雄欸云(シルメ)、先祖大伴健日連公、景行天皇御世、随倭武命平定東国功勲盍世、賜讃岐国、以為私宅、云々」と書かれている。大伴の武日の子孫の佐伯直(佐伯部の統率者?)は、大和武尊に随行し東国を平定した功によって、讃岐国を賜り私宅を置いたという。佐伯直は讃岐の善通寺市で生まれた弘法大師空海の祖先である。
佐伯直と播磨
「姓氏録」の右京皇別の佐伯直の項に、稲背入彦命の後、御諸別命が針間別の祖であり針間鴨国造の祖となり、阿良都命(あらつのみこと)の一名・伊許自別命が針間別佐伯直の祖として登場するが、彼ら2人で針間を中分したと考える説が一般的のようだ
讃岐の古代山城;城山(きやま)城を作ったと言われる「城山長者」は大和武尊の子武殻王(たけがいこおう)讃岐綾君の祖と言われる讃留霊王であり吉備政権と深いつながりがあるとしている。
木鳥こがらす神社(丸亀市本島):塩飽水軍と関係の深い讃岐国造の武殻王(たけがいおう)が悪魚を退治した際の水先案内の鳥を祀る。
富隈神社(仲多度郡満濃町):祭紳は吉備武彦命で、命は神櫛王の悪魚退治に従軍した部将という。
大麻神社(善通寺市大麻町):弟橘姫の兄の名前は、穂積忍山彦根と言う名前で、その一族が代々祭主をしている。父親の穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった(神奈川の国府津町から中郡大磯町の地域)という。
吉備国一宮の吉備津宮(現在の備中一宮である吉備津神社):祭神は孝霊天皇の皇子吉備津彦命には非ざるなり、孝霊三世吉備武彦命なり。備前・備中・備後三国の一宮なりとある。やはり、大和武尊の母方の吉備武彦は吉備下道臣(きびのしもつみちのおみ)の祖となる。日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国征討にしたがう。越(こし)の国につかわされて地勢や民情を視察し、美濃(みの)で日本武尊と合流。日本武尊が病むと、使者としてその遺言を景行(けいこう)天皇につたえたという。吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。
白鳥神社(香川県東かがわ市):祭神は日本武尊、両道入姫命、橘姫命であり、三社神社に吉備武彦、大伴武日、武内宿禰を祀る。 「成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり」という。
三河の伝承
三河は元来西三河を指し、東三河は穂の国と呼ばれていました。穂国造の本拠は宝飯(ほい)郡にあった。郡名は穂国に由来する宝飫(ほお)の転化したものである。
三河国一宮砥鹿神社:世襲神主は砥鹿氏を名乗り、朝廷別王を穂別の祖とする。穂国にも配置された日下部を朝廷別王の子孫が管理し、日下部は日下戸、草鹿砥と表記が変わり砥鹿氏になったのではないかとされる。古事記開化天皇条に「朝廷別王者三川之穂別の祖」、国造本紀「穂国造、泊瀬朝倉朝、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世孫・兎上足尼をもって国造に定め賜う」とある。 持統上皇が三河にやってきたときに大宝律令が出て、穂国は三河国に吸収されてなくなる。そして持統上皇が砥鹿神社を建てさせて、初代宮司を任命。これにより、砥鹿神社は皇室との関係を深めて三河一宮に昇格している。成務朝の物部胆咋宿禰(もののべのいくいのすくね)が三川穂国造の美己止直(みことのあたい)妹伊佐姫(いさひめ)を娶ったという。この美己止直がもし、『古事記』の系譜において三川穂別(みかわのほのわけ)の祖とされる朝廷別王かもしれない。
『日本書紀』は 崇神天皇が豊城入日子命に東国統治を命じたが、孫の彦狭島命が東の国に就こうとして、旅の途中で客死してしまい、逆に東の国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。曾孫の御諸別命の代になって本格的に東の国の統治が始まったのでしょうか。やはり、大和武尊の時代に東征が進んだのでしょう。景行天皇の御代に、御諸別王が、東山道の十五か国を拝領している。
廬原公:吉備建彦命、景行天皇の御世、東方に遣被(つかはされ)て、毛人及凶鬼神(あらぶるかみ)を伐(う)ちて、阿倍廬原国に到り、復命せし日、廬原国を給ひき。大化の改新により中央集権体制が強まり、廬原国は隣の珠流河国と統合、「駿河国」が誕生。
久佐奈岐神社(駿河国 庵原郡):祭神は日本武尊であり、弟橘姫命 吉備武彦命 大伴武日連命 膳夫七掬脛命 を配祀する。東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされている。九万八千霊社という東征軍の御供の諸神も祀られており、東征が大規模であったことが伺える。
猿投神社(愛知県豊田市):祭神は大碓命で景行天皇 垂仁天皇を配祀する。三河國三宮にあたる神社で猿投山麓に鎮座する。大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説あったという。社記によれば「景行天皇は猿を愛し、王座にはべらしていたが、天皇が伊勢国へ行幸の際、猿が不吉なことを行ったので、天皇は怒り、海へ投げ捨てたとある。その猿が、後の日本武尊の東征の折、壮士となって従ったといい、そのために、その猿の籠もった山(もとの鷲取山)を猿投山の名称はこれよりおこる」とある。大和武尊の兄は若くして亡くなったはずなのに、奇妙ですね。景行天皇が愛した猿とは??。愛する孫の讃留霊王=建貝児王かもしれない。そして、この神社は、宮道天神社と同様に、従軍した建貝児王の一族との関係が深い神社であろうか。豊田市に鷲取神社があるが、こちらは景行天皇の子の気入彦命を祀っている。
日本武尊以後の変化
1.景行天皇の時代に、大和武尊、大伴武日や吉備武彦、穂積忍山宿禰、朝廷別王など関係者の氏族が、近江、尾張、三河、穂国、駿河などの東国を支配するようになり、近江一宮、熱田神宮、三河一宮などにその縁起が伝承されている。
2.播磨、吉備、讃岐、伊予など瀬戸内地方、四国にもその関係者が国造として領有支配がおよび、吉備一宮にも縁起が伝承されている。
3.讃岐国造の神櫛王(成務天皇の兄)と、甥の建貝児王は讃岐や四国を領有した。穂積忍山宿禰は、相模国の西側の磯長の国の領主となり、その子の穂積忍山彦根は、讃岐の金毘羅山のそばの大麻神社付近に私宅を構えた。
4.日本武尊の後裔は、宇治の領主となって、宮道別を名乗る。建貝児王が宮道別の祖であり、その子か孫の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となり、その子孫は引き続き当地に在住し、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社、宮道別神社を造り祖先を祀った。

菟足の謎:人名か地名か?
菟足神社は、謎が多い。
愛知県豊川市にある。雄略天皇の頃、穂国造であった菟上足尼命(うながみ すくね)と品陀別命を祀る。祭神菟上足尼命は、『先代旧事本紀』によれば「生江臣の祖・葛城襲津彦命4世孫」、犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」となっています。『古事記』に記載されている「兎上王」とする説もあります。誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、兎上王兄弟であった。
菟足神社については、天武最晩年の朱鳥元年に平井の地から、現在地に遷座したと社伝は伝えています。
遷座に関わったのは、秦石勝。菟上足尼は穂国に養蚕を広めた功績を高く評価されて、死後に神として祀られたという。書紀巻二九朱鳥元年八月一三日条は「秦忌寸石勝を土左大神に遣わし、幣を奉る」と載せます。また 書紀は天武は草薙剣の祟りにより病になったとしています 。「草薙剣が熱田神宮に収まる前には菟足神社に保管されていた」との伝承もあるそうです。古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。
猪といえば、伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪(神の化身)が現れ、大氷雨を降らされ、命は失神し、病気になり、その後果ててしまう。
このことから、菟足神社は、倭建命と草薙剣の祟りを鎮めるために遷座されたかとも思ったが、祭神が異なる。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」に書かれているそうです。
祭神の菟上足尼命を略して菟足というのは、不敬でしょうから、やはり菟足は地名ではないでしょうか。豊川市白鳥町兎足の地名がある。日本武尊を祀る白鳥神社があり成務天皇の時代と古いので、こちらとの関係を知りたくなる。
讃岐に鵜足郡(うたり)があり、讃岐国中部の郡で、鵜垂郡、宇足郡、宇多郡ともいう。「うたり」の地名は日本では極めて珍しい。讃岐の建貝児王を祀る宮道天神社戸の関係もあるかもしれない。穂国の県主の宮道氏が、菟足の創建と関係があるのかもしれない。そういえば、讃岐の鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祀っている。三河国宝飯郡の雀部郷は、一ノ宮(砥鹿神社のことで、愛知県宝飯郡一宮町大字一宮)近辺を篠目郷といいその遺称地とされる。篠目郷は、宝飯郡音羽町に近いので、宮道天神社の祭神の末裔の篠目命にちなむとも思うがいかがでしょうか?。
武殻王は、讃岐の鵜足郡に祀られ、武殻王を葬った古墳がある。菟足の謎は、残されたままである。
穂国造
国造本紀によれば、参河国造 ・遠淡海国造 ・尾張国造など多くの国造が成務天皇朝に任命されたにもかかわらず、穂国造だけは遥かに遅れて雄略天皇朝に任命されたこととなっている。ところが、『先代旧事本紀』の巻五天孫本紀によれば、成務朝の物部胆咋宿禰(もののべのいくいのすくね)が三川穂国造の美己止直(みことのあたい)妹伊佐姫(いさひめ)を娶ったという。この美己止直がもし、『古事記』の系譜において三川穂別(みかわのほのわけ)の祖とされる朝廷別王(みかどわけのみこ。彦坐王の孫)と同一人物であるとすると、穂国造には、成務朝前後に興ったと伝える王族系と、雄略朝に新たに任命された葛城氏系の2系統が存在していたかのように思える。
しかしながら、穂国の県主の宮道速麿の伝承は、景行から成務朝であり、宮道速麿の時代に、この地域の古社、宮道天神社や砥鹿神社が創建されたように考えられる。そのことは、砥鹿神社を含む篠目郷が建貝児王の五世の孫の篠目と一致することからも伺える。皇族としては、朝廷別王か建貝児王であろう。
ただし、朝廷別王は、垂仁朝であるが、その子供の三河穂別は、古事記での記述は「穂のワケ」であり「穂の国のミヤツコ」ではないので、日本武尊にゆかりのある武卵王、宮道別王の系統が、この時代には穂国あるいは穂県を統治していたように思われる。
日本武尊─ー武卵王──建久呂彦命──宮道別王──【宮地】速麿──【宮道】津麿
丹波道主王ーー朝廷別王(日葉酢媛命の兄弟)ーー三河穂別
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28 thoughts on “古代史の旅1:讃岐と三河の日本武尊、讃留霊王、建貝児王

  1. 讃岐と三河の細川氏

    鎌倉期に足利家三代目の足利義氏が下野国(栃木県)より三河守護として移封のおり、細川家始め一族を引き連れて戦国期まで、ほとんど足利家が三河守護として支配、一族は当時の地名をとって改名。細川氏は岡崎の細川町の地名より、仁木氏は額田郡仁木、吉良氏は吉良町、一色氏は一色町、今川氏は吉良庄今川(現・西尾市)から後年駿河を支配というように、主に一色・細川家などが守護を勤めたようです。鎌倉末期には足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし室町幕府を開府する際、三河の足利一族の軍事支援の確約を得られたことが蜂起決断(岡崎矢作の地で決断したと云われる)の大きな要素とされています。功労のあった細川家は三河を地盤に大阪南西部・四国阿波周辺に大勢力を擁していきました

  2. 讃岐と三河の牧野氏

    田口氏流牧野氏の伝には、田口成清の代まで讃岐国に住し田内成富が応永年中(1394年-1428年)将軍足利義持の命により三河国宝飯郡中條郷牧野村に来住したとする説。なお同じ寛政重修諸家譜の巻367(丹後田辺藩牧野氏の譜)では、成富は細川氏に従って三河国に移り宝飯郡牧野村に住したとする。
    長岡藩主牧野家の『牧野家系図(本国三河・田口朝臣姓)』の記述によれば、応永年間に讃岐国より田口成方・成富(成留)父子が舟にて渥美郡牟呂津に着船、同地の牟呂八幡宮に寄宿したという
    <三河煙火史>によると応仁の乱に関して使用された火薬兵器について、「碧山日録」に、<応仁の乱の時、細川成之勢が“飛火槍・火槍”を用いた、・・・讃州守成之の営、城下のかためとす。串櫓・飛砲火槍・戦攻の道具いたるところ、ことごとく備わる>と記載されている由、又は「西国事物起源」という書には<支那の火戯、欧羅巴(ヨーロッパ)に兎いるに及び、西国の火戯急にその歩を進めたり・・・>ともある。
    細川成之は宝徳元年(1449年)三河・阿波(徳島県)の守護を兼ね、応仁の乱においては東軍の中心勢力として活躍、文明5年(1473年)讃岐(香川県)守護を兼ねる。

  3. 讃岐と三河の牧野氏

    三河牧野氏は三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族のことである。この族の中から越後長岡藩主をはじめとする5つの近世大名・牧野氏の流れが輩出した。
    牧野村牧野氏屋敷跡を讃岐屋敷と呼ぶ。
    牧野成富 :応永4年(1397年)は、勝定院(足利義持)の命により讃岐国より三河国にまねかれ同国宝飯郡牧野村に牧野城を構えたとされる人物。渡来当初は田内左衛門尉と称したが、支配地牧野村から牧野を名字としたと云う。宝飯郡を中心に渥美郡・八名郡の一部を含む地域に分布した土豪として栄え、中でも牛久保城と吉田城に居城した牧野氏は国人領主に成長した。

  4. 讃岐と三河の牧野氏

    手筒花火で有名な豊橋は、明治以前には吉田と呼ばれた。」、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ永禄三申庚(1560年)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ム」とあり、戦国時代より例祭に小規模ながら流星手筒、建物(仕掛花火)、綱火などが揚げられたと記録されている。永正2年(1505年)今川氏親(うじちか)の命により牧野古白(まきのこはく)が築城し、その当時は今橋城と称した。牧野氏は一色城(豊川市)を本拠とした今川氏幕下の豪族である。もとは一色氏の被官であった牧野氏の勢力が拡大するのは古白の時。
    永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで義元が敗死したのちは、松平元康(のちの徳川家康)の勢力が東に伸び、永禄8年(1565年)今川氏の東三河の拠点であった吉田城を攻略して、重臣の酒井忠次(さかいただつぐ)を城主とした。

  5. 吉田神社

    吉田神社に伝わる古文書その他によると、壬申の乱(672)の後の持統上皇(701)東国への長途の旅の年三河の国行幸の行宮跡の一つでありその後聖地として聖域化し真見塚の盤座此の地方の伊勢皇太神宮遙拝所との説(吉田城築城の時伊良湖の浜に移す)。
    古老の説、吉田駅は往古今橋と号し此地より伊勢大神宮遙拝所ありて大いに賜へり吾妻より参詣の人々今橋遙拝所にて拝し奉り伊勢への参りし心にて還りし人も数多くありしとか見ゆ。牧野古白今橋城築城以後は「吉田城御城内守護天王社」として、歴代城主による造営修理が行われた。

  6. 吉田神社

    手筒煙火のこと
    1558年、牛久保城主で吉田城主でもあった牧野保成は、出陣に際して、吉田天王社と羽田八幡宮(いずれも豊橋市内)、そして、陣途に当たった伊知田神社(豊川市内)に戦捷祈願を行った。その奉礼として、それぞれの祭礼に「煙火」を試射奉納した。
    後の吉田天王社の煙火奉納は、三河鉄砲青年隊の工夫した煙火に町人氏子達が加わって盛大であったと古老伝は記している。
    当時、今川義元の傘下に置かれていた松平家の家臣が、甲賀衆から受け継いだ火薬の知識を、東三河の山麓(現在の豊川市周辺地域)でいろいろ工夫を凝らし成製に当たっていたと伝えられている

  7. 田口臣

    大口喜六「国史上より見たる豊橋地方」(昭和十二年
    「寛政重修諸家譜の記す処によると、其先は阿波民部大夫田口成能(重能、重義)である。成能は、武内宿禰の後胤蘇我蝙蝠臣の後であるが、蝙蝠臣は、推古天皇の御時、大和国高市郡田口村に居住し、因て田口臣と称した。成能の男教能は讃岐に居住したが、平家没落の後、子孫諸国に散乱し、以後数代の間は詳でない。然るに其後胤に田口左衛門尉成保並にその子田口左衛門尉成清があつて、やはり讃岐に居住したが、其子田三左衛門尉成富(頼成)に至り、応永中、足利義持の命によりて、三河国に来り、宝飯郡中条郷牧野村に城き、因て牧野を以て氏としたと言うふのである。」と説明しています。

  8. 鷲取神社 白鳥神社

    愛知県岡崎市西本郷、田園風景が広がる此のあたりだが国道一号線矢作川から南西にわずか入ったところに、この前方後円墳がある。五十狭城入彦皇子は景行皇と美濃の八坂入媛との間に生まれた皇子であり、第十三代成務天皇とは同腹の兄弟である。日本武尊の異母弟。
    父景行天皇の勅命によりこの地方の逆臣大王主らを捕らえ、これにより国内は治まったたという。
    その後五十狭城入彦命は当地開拓に生涯を費やし、三河長谷部直(はせべのあたい)の祖となった。
    白鳥神社も近くにある。日本武尊東征の折、当地に註軍したとされ、日本武尊三世孫の大荒田命(おおあらたのみこと)の末裔が父祖を祀ったことによる創始という。

  9. 鷲取神社 白鳥神社

    崇神天皇(男弟)─豊城入彦命(妹豊鍬入姫命[豊与。斎宮初代]、弟大入杵命[能登氏])─八綱田命─彦狭島命─御諸別命─大荒田別命(弟市入別命[播磨鴨国造]、弟鹿我別命[浮田国造])─韓矢田部現古(弟上毛野竹葉瀬、弟下毛野氏田道)─武額─布禰古─射狭(車持氏)。
    倭建尊三世孫大荒田別命?

  10. 神功の大和帰還

    神功の大和帰還:内乱
    忍熊王側は「難波吉師部の祖伊佐比宿禰」、神功の側は「丸邇臣の祖難波根子建振熊」。
    神功すなわち気長足姫。神功軍を迎え撃ったのは、南山城の地であった。南山城が丹波道主やその女日葉酢媛以来の気長氏の本拠
    香坂・忍熊王が、景行と姻族の嫡系大仲津姫の子であるとすれば、この二王が気長氏を背景にもつ。
    香坂・忍熊王を追い詰める将軍が、和珥氏の祖建振熊?。

  11. 大荒田別の謎

    『新撰姓氏録』には、止美(とみ)の連、広木津(ひろきつ)の君、田辺(たへ)の史(ふびと)、左自努(さじぬ)の公、大野(おおぬ)の朝臣、伊気(いけ)などの条に、豊城入彦の命の四世の孫の(大)荒田別の命とある。

  12. 鈴鹿郡の縣主神社

    延喜式内 縣主神社(椿大神社摂社)
    御祭神 倭建命 建貝児王
     縣主神社は、「延喜式」に見える鈴鹿郡十九坐の一つで、川崎村<現亀山市川崎町>に鎮座し、俗に縣大明神と称され鎮守社として親しまれていた。ところが、内務省が一町村一社を目標に行った小祠整理により、明治四十一年、能褒野神社【のぼのじんじゃ】に配祀され、下って平成十年十月十日、「椿護国神社」南隣を鎮座の大地と選び定め、椿大神社の摂社「縣主神社」として遷座された。

  13. 鈴鹿郡:亀山市川崎の陵墓

    現正式な日本武尊陵は丁子塚です。「田村王塚(俗称)」「能褒野王塚古墳(考古学的名称)」「日本武尊能褒野陵(宮内庁指定名称)」等の名称があります。この丁子塚は明治にはいってもしばらく、本当に日本武尊陵墓候補地に挙げられる事がなかったのです。そして、明治5年には教部省も一時は白鳥塚を能褒野陵にしようとしていたのですが、明治12年に内務省は、これまで候補地に挙げられてこなかった丁子塚を、日本武尊能褒野陵として決定した。
     丁子塚は北勢地方では最大の前方後円墳(全長90m)

  14. 蝦夷と佐伯部

    野褒野(亀山市)に着いた時、病状が悪化した。そこで連れていた蝦夷たちを働き手として伊勢神宮〔いせじんぐう〕に献上し、また、吉備武彦を天皇の元に遣わして東国平定を報告させた。そうしているうちに野褒野の地で亡くなられた。年三十。 この訃報を聞いた天皇は大いに泣き悲しみ、「小碓王よ。昔、熊襲が反逆した時、まだ幼かったのに遠征に出かけ、力を尽くしてくれた。東の夷(辺境の地)で騒動が起きた時は、誰も名乗りを挙げず、仕方なく見送った。ずっと帰りを待ち望んでいた。それなのにどうしてだ。最愛の子を失ってしまうとは」と歎いた。そして豪族や家来たちに命じて伊勢国の野褒野に墳墓を造らせて埋葬させた。伊勢神宮に預けられた蝦夷たちは、力仕事に従事したものの、生活習慣も異なり、昼夜やかましかった。倭姫命が、「祭祀のさまたげになる」と苦情を伝えたため、御諸山(三輪山〔みわやま〕)の働き手にすることにしたが、そこでも神山の樹木を伐採したり狩猟を行ったりする等、勝手な行動ばかりをした。天皇は豪族たちと相談し、「蝦夷たちは我らとは生活習慣が異なる。仕事に従事させるのは無理だろう」と語り、邦畿之外に移住させることにした。これが今の播磨、讃岐、伊豫、安藝、阿波の併せて五国の佐伯部となった

  15. 多賀大社の大神主家

    多賀大社の鎮座年代は『古事記』上巻に「伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀」と見え。『古事記』が撰進された年代からおして、その鎮座は八世紀以前といえる。
     『延喜式』巻十に「多何神社二座」とあり、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神共に国幣に預った。
    大神主家は、景行天皇の皇子日本武尊を祖とする犬上君を御田鍬を祖とするという。御田鍬は遣随使・遣唐使として波涛を超えて異国に使いした人物として知られる。
    日向神主家は、犬上朝臣と推定される大岡氏であった

  16. 犬上御田鍬

    630年 8月
    ・第1回遣唐使(犬上御田鍬:いぬがみのみたすき 他)
    犬上御田鍬:最後の遣隋使および最初の遣唐大使を務めた
    御田鍬は614年7月24日(推古天皇22年6月13日)最終となる第5次遣隋使として矢田部造(名不明)らとともに隋に渡り、翌615年(推古天皇23年)に百済使を伴って帰国した。この功を認められてか、大仁の冠位に昇叙された
    632年10月
    ・犬上御田鍬が僧旻(みん)を伴って帰国
    640年10月
    ・南淵請安・高向玄理等が帰国
    642年 1月
    ・蘇我入鹿が国政の中心人物となる

  17. 倭建の御子

    古事記
    「この倭建の命、伊玖米(いくめ)の天皇の女、布多遲能伊理毘賣(ふたぢのいりびめ)の命を娶して生みませる、帶中津日子(たらしなかつひこ)の命【一柱】。またその海に入りたまひし弟橘比賣の命を娶して、生みませる御子、若建(わかたける)の王【一柱】。また近(ちか)つ淡海(あふみ)の安(やす)の國の造の祖、意富多牟和氣(おほたむわけ)の女、布多遲比賣を娶して生みませる御子、稻依別(いなよりわけ)の王【一柱】。また吉備の臣、建日子(たけひこ)の妹(いも)、大吉備建比賣を娶して生みませる御子、建貝兒(たけかひこ)の王【一柱】。また山代の玖玖麻毛理比賣(くくまもりひめ)を娶して生みませる御子、足鏡別(あしかがみわけ)の王【一柱】。また一(ある)妻(みめ)の子、息長田別(おきながたわけ)の王。
    凡そこの倭建の命の御子等、并せて六柱なり。
    故、帶中津日子の命は天の下治らしめしき。次に稻依別の王は【犬上の君・建部の君等の祖】。次に建貝兒の王は【讚岐の綾君・伊勢の別・登袁の別・麻佐の首、宮首の別等の祖】。足鏡別の王は【鎌倉の別、小津、石代の別、漁田の別の祖なり】。次に息長田別の王の子、杙俣長(くひまたなが)日子の王。この王の子は飯野眞黑比賣(いひのまぐろひめ)の命。次に息長眞若中比賣(おきながまわかなかつひめ)。次に弟比賣【三柱】。故、上(かみ)に云へる若建の王、飯野の眞黑比賣を娶して生める子、須賣伊呂大中日子(すめいろおほなかつひこ)の王。この王、淡海(あふみ)の柴野入杵(しばのいりき)の女、柴野比賣を娶して生める子、迦具漏(かぐろ)比賣の命。故、大帶日子の天皇、この迦具漏比賣の命を娶して生みませる子、大江の王【一柱】。この王、庶妹銀(ままいもしろかね)の王を娶して生める子、大名方(おほながた)の王。次に大中(おほなかつ)比賣の命【二柱】。故、この大中つ比賣の命は香坂(かごさか)の王・忍熊(おしくま)の王の御祖(みおや)なり。
    この大帶日子の天皇の御年、壹佰參拾漆歳(ももあまりみそぢまりななとせ)。御陵は山邊の道の上にあり。」

  18. 倭建の御子

    倭建の三系統とは、
    ①倭建ー仲哀*神功ー品陀和気ー宇遲能郎子、②倭建ー若建ー須賣伊呂大中日子ー若野毛二俣王ー大江王、③倭建ー高木中比賣ー仁徳(品陀の日の御子)ー履中ー忍海女王である。

  19. 倭王統

    倭建ー成務ー仲哀ー須賣伊呂大中日子王ー若野毛二俣王と継がれてきた倭王の称号
    須賣伊呂大中日子王が飯野真黒比賣(実母)の弟比賣の息長真若中日賣との間に生まれたのが若沼毛二俣王(若野毛二俣王)
    迦具漏比賣を娶った大帯日子(倭建系譜と応神文頭系譜)の子と、若野毛二俣王が百師木伊呂弁を娶って生まれた子が、大江王(大郎子)
    大帯日子とは、倭建ー成務ー仲哀ー須賣伊呂大中日子王ー若野毛二俣王と継がれてきた倭王の称号????

  20. 宮道氏

    『日本の苗字7000傑』の姓氏類別大観では、
    饒速日命を祖とする物部守屋の後裔武麿を宮道氏(物部氏より分かれる)とする。ただし、諸説あるが、武麿が諏訪に逃れた記載はない。
    武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。
    『諏方大明神画詞』などの伝承によれば、古来諏訪地方を統べる神として洩矢神がいた。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
    中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。
    守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのこと

  21. 宮道氏

     勧修寺のすぐ南側に宮道(みやじ)神社がある。名前のとおり、宮道氏ゆかりの神社で、寛平10年(898)に創祀され、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけるのおおきみ)と山科神社と同じ。平成12年5月、社殿等の再整備に併せて建立された「由緒碑」によると、宮道神社は寛平10年(898)創祀されたとある。その後、宮道弥益、宮道列子、藤原高藤、藤原定方、藤原胤子等が合祀され宮道大明神・二所大明神とも称されている。 宮道氏は山城国宇治郡、宇治郡(現在の京都府宇治市・京都市山科区周辺)を本拠としていた氏族で、この地は宮道の邸宅跡。
    神功皇后そば近くに仕えていたのが、志志岐の三神です。
    志志岐三神…神功皇后の関係者 
    十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の弟
    稚武(ワカタケ)王   (兄)仲哀天皇の弟
    葉山姫神  山城の国出身
    神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を抱かせ、迂回して南海に出て、紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。その時、皇后の船が海中でぐるぐる廻って、進めなくなりました。そこで務古水門に戻って占いをしました。
    すると、天照大神が教えました。
    「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と。そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせました。

  22. 神呪寺 廣田明神

    「如意輪融通観音」のいわれ
     
    「当山の開基如意尼は、丹後一の宮神社の出生である。幼名はいつ子と言い、十才にして京都六角堂で、如意輪の法を修業された。美しい方で、やがて当時皇太子であった淳和天皇が妃として迎えられ真井御前と称された。
     
     二十六才のとき、官女二人と共に宮中を抜け出て摩尼の峰(甲山)に至り廣田明神の女神のお告げにより、ここに堂宇を建てられた。 そして、弘法大師を請じて、如意輪の秘法を修し、阿闍梨潅頂を受けられた。弘法大師は、山中の桜の樹をもって如意尼の姿を映した如意輪観音像を彫刻された。その間如意尼は、一心に如意輪の真言を念誦されていた。
     この観音は神呪寺の本尊として、多くの衆生にやすらぎを与え、また信心により、融通無碍に意の如く開運・福富をもたらすものとして、今日に至るのである」
     

  23. 海部 山背根子

    九世孫玉勝山背根子ーー勘注系図
     九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)は山背(山城)の祖とされる人物である。
    『勘注系図』は六世孫建田勢命が宰(みこともち)となって丹波に赴いたとする。その後山背の久世水主村(くぜみずしむら)に遷り、更にその後大和に遷ったとする。
    久世水主村とは現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という延喜式に記載される古い神社がある。祭神は彦火明命を始めとして天香語山命、天村雲命、天忍男(あめのおしお)命、 建額赤(たけぬあか)命、建筒草(たけつつくさ)命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂(やましろのおおくにたま)命を祀る。まさに尾張氏の一族を祀る。

  24. 海部

    稚武彦命が吉備臣の始祖(書紀巻4)
    四道将軍の一人、腹違いの兄彦五十狹芹彦命(吉備津彦命)と吉備平定を行ったことから始祖となった。真金吹く吉備國、その製鉄鋳造、製塩技術をおさえることが狙いとされた。日本武尊の東征に従軍し越に向かったのが吉備武彦、その子が鴨別であり、皇后のもとで吉備の勢力が動員された。吉備勢力が乗り出したことで、熊襲は降伏してきた。

  25. 建田勢命と建諸隅

     建田勢命は最初丹波の宰(みこともち)となる。その後山城久世水主村(やましろくぜみずしむら)に移り、さらにその後大和に戻ったとする。建田勢命が大和王権の命を受けて丹波支配を行ったのである。
    建田勢命が丹波支配の府を置いたとされる場所は、京丹後市久美浜町海士である。そこには建田勢命の館跡とされる伝承地がある。またその近くの矢田神社は建田勢命とその子供建諸隅を祀る。
    その後山城久世に移り住む。久世とは、現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という古い神社がある。祭神を彦火明命として、以下尾張氏の人物が祀られる。
    この建諸隅命の妹に、注目される人物の名が記される。
    小さな字の書き込みであるが、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)である。一云大海姫命(おおあまひめみこと)ともする。
    倭途途日百襲媛(やまとととひひもしひめ)の母親と思われる人物である。『古事記』の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)と同一人物と考える。
    『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね・はえ某姉)とする。七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。

  26. 椎根津彦

    大倭氏の祖である椎根津彦(宇豆毘古)は、神武天皇東征の際、吉備国高島宮を出発した後、速吸門(はやすいのと)で出会った海人。
    古事記は「亀の甲に乗り、釣りしつつ羽挙き来る人、速吸門に偶いき」と語っている。 椎根津彦は国神と自らを呼ぶ。
    国神または地祇というのは大王氏に友好な豪族をいうが、 珍彦が「うづひこ」と訓み、「うづ」が「内」または「宇治」の可能性がある。神武の命で弟猾と敵軍中を潜入し香久山の土をとって奉じた。神武はこの土で平瓮をつくり、これを祀って軍を進めた。神武は論功行賞の際に椎根津彦を倭国造とした。
    その拝領地は書紀にも古事記にも記述ない。磐余の地であったと思う。
     神武が支配した大和は、もともと磐余から畝傍にかけての一帯であった。そして特に畝傍の周辺に宮を置き、奥津城もまたそこにおいた。磐余には言及がない。磐余はこれをほおっておいたかのようにみえる。大和坐大国玉神神社の祭司が市磯長尾市(崇神紀)・長尾市宿禰(垂仁紀)という名であることである。その名は地名からとった。履中紀には磐余の市磯池の名称がある。
    旧事本紀・皇孫本紀には、椎根津彦は武位起命の子といい、その武位起命は彦火火出見の子としている。
    姓氏録は全然異なり、これを地祇に分類した上で椎根津彦の父武位起を海神の子振魂命の子としているが、ここに注目すべきつぎのような記述がある。
     大和宿禰。神知津彦命より出る也。神日本磐余彦天皇日向国より大和国に向い、速吸門に到るとき時・・・・・即ちひきて皇船に入れて海導と為し給う。仍って神知津彦(一名椎根津彦)と号く。能く軍機の策を宣しければ、天皇之を嘉し給い、大倭国造に任じ給う。是れ大倭(宿禰)の始祖也。
    神知津彦というのである。
    書紀・古事記をみると「安寧第三子磯城津彦に二柱ありて、一柱は伊賀・三野の稲置の祖、一柱は和知都美といい淡路宮に坐す。その子二柱ありて蝿某姉・蝿某弟という」とある。この「和知都美」の名こそ倭知津美すなわち知津彦か???
    大倭氏はその本拠地を山辺の大和郷にある大和坐大国魂神社に置いた。
    椎根津彦は吉備海部直の祖でもあり、応神天皇の吉備行幸の際に膳夫を勤めたのは、吉備津彦の子孫、吉備御友別である。
    紀氏の祖は、武内宿禰と宇豆比古の娘で宇乃媛の子、紀(木)角宿禰ということになっている。しかし、紀伊国の神は素戔嗚尊の子、阿曇磯良と名前が酷似した五十猛命(いそたけるのみこと)であり、紀伊海人の奉祀するのは、素戔嗚尊とこの神。紀氏には、尾張国津島天王(現津島神社)祠宮家があるが、祭神は素戔嗚尊と大己貴命で、古くは津島牛頭天王社と称した。
    10代崇神天皇と尾張大海媛の間の皇女である渟名城入姫命は、疫病が流行した原因が天照大神と倭大国魂神を宮中に合祀していることにあるとして二神が別けられた時、倭大国魂神を託されたが、髪が抜け身体が痩せて祀ることが出来なかった。そこで、神託により新たに祭祀を任されたのが、この長尾市宿禰。
    垂仁紀二六年条、市磯長尾市を大国魂神の祭司とした由緒は、すなわち「倭大神」が「穂積臣の遠祖大水口宿禰に著って」こういったという。
    「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」
    山辺の長柄に名神社「大和坐大国魂神社」がある。その祭司は大倭氏であり、そのために大倭氏の本拠地は纒向・長柄から柳本にいたる山の辺一帯といわれる。
     この見解は簡単に了解できない。いわゆる狭い「倭」がそこをいったことは間違いないが、大倭氏がそこに入って倭大国魂神を奉祭したのは、大倭氏の後裔とみられる市磯長尾市からである。
    大倭氏は、その祖を椎根津彦といい亦名を珍彦という。古事記では槁根津日子というがその所以は「椎槁」によるという。この氏族はその本拠地をいわゆる倭に置いた
    現存する大倭氏の系譜は、その祖椎根津彦から傍流の系統を市磯長尾市まで辿り、その後は市磯長尾市を祖とする系譜である。そこに椎根津彦氏の正系の、崇神に滅ぼされるまでの系譜は当然のことながら存在しない

  27. 椿井大塚山古墳

    古墳時代が本格的な前方後円墳である箸墓に発するとするなら、その早い頃にすでに並行して古墳時代に入ったのが、ほかならない山城であった。椿井大塚山古墳である。
    蝿某姉・蝿某弟の姉妹の亦名を、書紀が「倭国香とその弟」といい、古事記も「意富夜痲登玖邇阿禮比売」とある
    大倭氏すなわち椎根津彦氏
    蝿某姉・蝿某弟の名は葉江に由来する。そもそも子の諱はその産土に由来する。すなわちこの姉妹は椎根津彦が磯城の宗家葉江の妹を娶ってこれを生んだのである。
     珍彦・椎根津彦・槁根津日子・神知津彦・和知都美が同一人物であり、倭国造である
    椿井大塚山古墳 :山城・摂津・播磨への道
    宇佐の赤塚古墳から出土した鏡は、福岡県石塚山古墳、同原口古墳、京都府椿井大塚山古墳から出土した鏡の同笵鏡と見られている。博物館発行の「総合案内」には中国鏡となっているが、これは誤りである。三角縁神獣鏡が中国製か国産かをめぐっては学会でも議論伯仲しており、中国鏡と断定されたわけではない。3世紀と最古式の古墳である。
    前期前方後円墳である、桜井茶臼山古墳からは81面の銅鏡片が出土、石室は約200kgの朱で塗られていた。大和天神山古墳からは20面の銅鏡と41kgの朱が出土、椿井大塚山古墳からは37面の鏡と10kgを超える朱が出土、黒塚古墳からは34面の鏡が出土し、木棺内や粘土床には朱が使われていた。
    穂積祖 欝色許男——–伊迦賀色許男

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