丸亀 坂出 宇多津など 西の讃岐 の 歴史 :飯野山(讃岐富士)周辺について

讃岐の那珂郡は、瀬戸の要衝に面し、長く貴族の荘園であり、守護代細川氏の支配する平穏な地域であった。応仁の乱のころから、国は乱れ、群雄割拠する戦国の世には、うって変わって、支配するものもされるものも共に入り乱れて、安らぐことのない戦乱の地となった。
朝廷に綾織や麻を献上し酒部が酒を造った歴史、讃岐三白(「綿」「塩」「砂糖」)を生産する地域であった。また、中国・韓国との貿易で栄えた塩飽諸島も、水軍の地となり、鉄砲を海外にまで輸出する交易の拠点であった。信仰の地であり、弘法大師が生まれ、また空海ゆかりの土地でもあった。琴平宮は、大麻山に位置し、朝廷と神に仕える讃岐忌部は、阿波の忌部とともに、海産物や織物を求めて、安房まで移動している。讃岐の各氏のルーツを探り、なぜこのような地域であったかを知るために、いろいろ調査中。
残念ながら丸亀市年表には、江戸以前がない。
丸亀・坂出 航空写真+マップ:GoogleMap
 歴史
天智6年(667)   屋島城築城 このころ城山城も築城か?
大化元年(645)   讃岐国府が府中に置かれ、条里制が敷かれる (大化の改新)
天武14年(685)   綾君に朝臣の姓を賜う 鴨廃寺の建立
和銅5年(712)   讃岐川津郷に綾錦を織らしむ(続日本記)
天平19年(747)   阿野郡2ヶ所鵜足郡2ヶ所法隆寺封戸となる
天平勝宝4年(752) 川津郷50戸 東大寺封戸となる
大同2年(807)    宇摩郡新宮村 鍋三統{田鍋(田邊)・真鍋・三鍋}が熊野神社を紀伊國新宮より勧請「新宮村誌」
延暦12年(821)   空海満濃池を修築
仁和2年(886)    菅原道真、讃岐国守となる
         菅原文庫によれば、讃岐の人口は89郷20万
仁和四年この年は、特に雨が少なく田植えもままならず作物は枯れ人民の苦しみはその極に達していた。時の讃岐国の国司菅原道真公これを憂い、我が命にかえこれを救うため神に雨をお祈りされる。この周辺に山は多いが一きわ城山の山は険しい、お社も数あるが城山の社はもっとも神霊である。よって城山の神に祈る「神よ我心願聞き入れ下されば讃岐国八十九郷二十万の人民はこぞって神威に応え末代までも神域を飾り玉幣を奉り敬神する。もしこれに応えられなければ人民は神をうとんじ神威は失われ尊厳は地に落ち礼祭も疎らとなろう。我が心願聞き入れ給え」と城山に登り明神ヶ原において六日、六夜死を賭して雨を祈る。
天慶2年(939)    藤原純友 釜島、松島(倉敷市)に砦を築く(天慶の乱)
保元 1(1156)   8月崇徳上皇讃岐へ配流(7/23)
1120年 藤中納言家成郷 讃岐守として下向
讃州国那珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地なり。郡中十郷なり。保安年中(1120~1131年)中御門 藤中納言家成郷 讃岐守として当地に下向。当国の綾大領 貞宣の娘を娶り資高生む。この資高が羽床氏の始めにて、その末葉として 平田 玉井 竹内 成宗豊田 柞田 紫野 宮川 森田 松本 茶水 武本 谷本 有岡 福家 大地 飯田 木村等の枝葉をうみ広繁し裔栄ゆ。
 1160年橘左近衛少輔祐主公山田郡木太郷 向城に下向
永暦元年(1160年)今から839年前、橘左近衛少輔祐主公は讃州の天領である山田郡木太郷 向城に下向、世々居住され畳溝堅固文武の道にはげまれ仁政を施し平和な王国に床しき日常なりしが、寿永元暦の源平の戦いに帝を護衛し奉り一ノ谷の合戦に参加。戦場に臨むに当たり、身は公家の身が武門の下につき見苦しき屍を戦野にさらしては家門の恥なり。とて、妻方の姓氏 真部を名乗りて戦場に出て、源平の各合戦 応仁の乱そして戦国の乱世に一貫して仁義の節に尽忠。功を立て、西国一の武将とうたはれにけり。その内各合戦には、必ず華々しき働きをして名をあげたり。 曰く 真部五郎助光 真部五郎祐孝 真部五郎祐満 真部五郎祐則 真部弥介祐重 真部助兵衛守政 真部弥介守資 真部太之介祐利 真部左兵衛祐忠 真部右兵衛祐義 等々何れも武勇の士知仁の士。戦記には載らず。
(東讃 真鍋一族の伝承)http://www.interq.or.jp/power/manabe/tousannmanabe.htm
1184, 元暦1, 一ノ谷, 源平合戦 備中まなべ四郎・五郎, 「平家物語」
橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。 その中にありて子孫真部弥介は往事の功績に対して250石を賜り、寒川郡奥山邑の讃岐 阿波国の国境にある大窪越関所の伺察使(代官)と被命。その後職は讃州の特産の白米塩三盆白紋等の持出監視取締物件流失防止と不審者取締りをなし、世々奥山に移住し近隣を併せての里正(庄屋)として名をとどむ
1278年 秋山氏
秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族で,弘安年中(1278~88) 幕府の命によって西讃10か所の郷邑を領することとなった。命をうけた秋山光季は, 子息孫四郎泰長・孫二郎泰忠をともなって来住し,高瀬郷に居を構え,鎌倉時代以か ら戦国時代にかけて存地武士として活躍した。その家伝文書が,現在,高瀬町下勝の 矢野章家に所有されており,総数120点ににおよぶ。 その中には,室町幕府奉行人奉書・管領代奉書や守護代香川氏関係の文書,あるい は細川澄元の数少ない史料などが含まれており,室町・戦国期政治史研究上貴重な史料となっている。
1338年 足利幕府成立 この頃に安富・香川・奈良氏らが讃岐に入部
讃岐の安富氏は紀姓を称し、讃岐守護で室町幕府管領をつとめる細川氏の直臣であった。 讃岐守護細川氏は足利氏の一門で、建武の中興のとき足利尊氏に属して活躍、足利幕府の成立に功があった。建武の新政がなったのち、尊氏は細川定禅を讃岐に、細川和氏を阿波に遣わした。建武二年(1335)、尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に謀叛を起こしたとき、定禅は香西・託間・三木・寒川氏らを率いて尊氏に呼応して京都制圧に活躍した。しかし、北畠顕家・楠木正成らの軍に敗れた尊氏は九州に落ち、多々良浜の合戦で菊池氏ら九州宮方に勝利して頽勢を挽回すると、京都をめざして西上した。定禅・和氏らはこれを迎え、楠木正成を摂津湊川で破った尊氏は京都を回復し、足利幕府を開いた。 幕府成立後、讃岐守護には定禅の兄細川顕氏が補任された。顕氏のあと繁氏が守護となり、そのあとを頼之が継承した。頼之のとき、一門の細川清氏が南朝に通じ、白峰合戦が起こった。頼之は香西・託間氏ら讃岐の武士を指揮して清氏を討伐、讃岐から南朝勢力を一掃した。以後、讃岐守護は頼之の子孫が世襲し、細川氏は直臣を登用して讃岐の支配を行った。かくして、安富・香川・奈良氏らが讃岐に入部したのである。そういう意味では、安富氏は讃岐生え抜きの武士ではなかった。
讃岐安富氏の祖は、下総国から出たという民部太夫照之が祖と伝える。照之は武勇にすぐれていたことから足利氏に抜擢され、暦応二年(1339)足利尊氏から播磨国三日月郷を賜った。そして、『西讃府志』によれば、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内三郡の十八ケ村を領して、平木城主になったのだという。平木城は三木高長の城であったが、後継者のなかった三木氏に代わって安富氏が城主になったと伝えられる。
安富氏: 浄土真宗
1338年  細川氏のもとで安富氏雨瀧城主となる     
1429年  足利義政より安富隼人測量讃州守護職任命
1467年  安富氏、細川勝元側にて応仁の乱に参戦   
1523年  安富盛方、寒川元政を長尾に攻め大敗
1531年  安富玄宥諸旦那の助を以って養専寺建立  
1540年  安富・寒川両氏による塩木合戦の開戦
1583年  雨瀧城主安富氏長曾我部元親に攻められ落城
1598年  安富氏京都本願寺より再び讃岐に帰る    
1643年  安富玄誓富田平蔵に養専寺寺構整える  
1362年細川 頼之土佐国・讃岐国の守護
南北朝時代から室町時代の武将、政治家、幕府管領である。幼名は弥九郎。右馬助、右馬頭、武蔵守。官位は従四位下。足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領に就任して幕政を指導し、足利義満を補佐し、半済令の施行や南朝との和睦などを行う。1379年の康暦の政変で失脚、その後は赦免されて幕政に復帰する。 1362年(正平17年/貞治元年)には土佐国・讃岐国の守護となり、佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に与した一族の幕府執事細川清氏を讃岐国宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)で滅ぼす。この頃中国地方で大内弘世や山名時氏らが南朝から幕府方に帰服しており、時氏を説得工作に頼之も関わっているとされる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、代わりに四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一する。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年(正平22年/貞治6年)2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任する。 1379年(天授5年/康暦元年)、細川氏が紀伊における南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えると諸将は頼之罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らが参加して将軍邸を包囲し、頼之の罷免を求めるクーデターである康暦の政変を起こす。義満から退去令を受けた頼之は一族を連れて領国の四国へ落ち、途中で出家を行う。後任の管領には義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆される。
斯波派が望む頼之に対する討伐は義満が抑えるが、政変を知った河野氏が南朝から幕府に帰服し、頼之討伐の御書を受けて頼之と対抗する。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、これを利用して河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、1381年には河野氏と和睦して分国統治を勧める。弟の頼元が幕府に対して赦免運動を行い、1389年(元中6年/康応元年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐国の宇多津で赦免される。1391年には斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。後任の管領には頼之の弟の細川頼基が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。1390年(元中7年/明徳元年)には備後国の守護となる。この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦う。1392年に風邪が重態となり、3月に死去、享年64。頼之は1379年(天授5年/康暦元年)の康暦の政変で一旦没落するが復帰、弟の細川頼元が管領職になる。戦国時代に入ると、勝元の子の細川政元が明応の政変で将軍足利義材を廃立し、幕政の実権を掌握した。この時期、畠山・斯波両氏の没落もあって細川管領家は全盛時代を迎える。だが政元自身は妻帯せず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人を養子に迎えたため、この3人が家督をめぐって争い、遂には政元が澄之を推す配下に暗殺されるなど混乱を極める。この混乱は1531年(享禄4年)に澄元の子・細川晴元が高国を打倒することで収まり、晴元はそれによって畿内に一大政権を築き上げ、細川氏を立て直した。しかし、1549年(天文18年)、家臣の三好長慶の裏切りにあって、晴元は近江に追放され、その政権は崩壊してしまう。なおこの細川宗家は、当主が代々右京大夫に任ぜられたことから京兆(右京大夫の唐名)家と称される。
南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。
参考: http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kagawa.htm
讃岐の香川氏については、多度郡多度津の天霧山(現多度津町南部で、善通寺市との境界に位置)に居しましたが、その系譜に諸説あるところです。  『姓氏家系大辞典』にあげるところでは、 ①『全讃史』では香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとし、以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(実は長曽我部元親の子)」と記されます。この系は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の後とされます。 次に、②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれといい、細川氏に仕えた刑部大輔景則が多度津の地を賜り、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。 更に、③『武家系図』では、越後の長尾顕景の七郎朝忠、香川を称すとあり、同流の細川勝元臣五郎次郎和景之を称すともありますが、これは越後の長尾氏の一族が讃岐に来たわけではないと考えられます。このほか、『南海治乱記』『応仁武鑑』『万福寺天文棟札』なども、皆平姓で景政の後とされています。  これらに対し、讃岐綾君の祖・武貝児王の子孫に綾景直がおり、初めて香川を氏とし、その数代後に景則が出たとするものや、綾君の別族香川景玄の裔とするものがあったことも『姓氏家系大辞典』に記載されています。  上掲の『各家系譜』所収「香川氏系図」では、安芸の香川氏の支族として讃岐の香川氏を記載します。すなわち、足利直義に従った香川景春の弟に大膳之亮久景をあげ、尊氏に従い延文二年(1357)所領を賜り讃岐国雨霧城に居すと記し、その子景継が細川頼之に仕え、以降は「義景-孝景-家景-定景-信景=元景(実は長曽我部元親の子)、その弟景家-政常、弟重信」と記載(若干の傍系記載もあるが、ここでは嫡系のみをあげた)があります。  また、『善通寺市史』は、相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などから推して、景則は嫡流とは認め難いとして、その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。ほぼ妥当な見解ではないかとみられますが、活動年代的に見て、「頼景─和景」の関係は間にもう一世代あったほうがよいとも考えられます。  いずれにせよ、以上にあげてきた様々な所伝・史料を十分に検討する必要があることになります。
1362年奈良氏 讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った
武蔵国大里郡奈良を本拠地とする御家人の出自を持ち、官僚細川家の馬廻りをしていた奈良氏は貞治元年(1362)高屋合戦における武勲により讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った。その後奈良太郎左衛門元安は応仁の頃に聖通寺山に築城し、子、備前守元信。孫、太郎兵衛元政と3代に渡りこの聖通寺城によって領治した。天正十年七月土佐の長宗我部元親は先年下した羽床、香川氏を先鋒に奈良氏に攻撃目標を定めた。しかし、嘗て細川の四天王と言われた奈良氏も鵜足郡内津之郷、川津、二村などの数か村を保つに過ぎず勢力は衰えていた。太郎兵衛元政は聖通寺を棄て香西伊賀守に合流しようとしたがならず、阿波の三好存保の拠る勝端城を頼った。同年八月、元政は中富川合戦で二五〇余名とともに討たれ名門奈良氏も滅亡した。
≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』聖通寺山の城主は奈良氏、奈良太郎左衛門元安~備前守元信(元吉)~太郎兵衛元政(勝政)~仙石秀久~尾藤知宣~生駒親正(近規)と書かれている
1392年の分国状況細川氏は、京兆家(摂津・丹波・讃岐・土佐)、細川氏庶流に阿波守護家・和泉守護家・備中守護家、京兆家庶流に典厩家・野州家に分けられる。その被官は、1392年の『相国寺供養記』によれば安富・香川(讃岐)、小笠原・物部[上原]・内藤(丹波)、妻鳥(伊予)、庄(備中)など分国の国人によって構成されている。応仁の乱後、各守護がそれぞれの分国へ下向しているなか、細川氏は下国せず在京した。
1400年頃から 香川氏が京兆家分国讃岐の半国(西方)守護代を歴任
京兆家細川氏被官の香川氏として最初に確認されるのは、明徳三年(1392)八月二八日の相国寺慶讃供養の際、頼元に随った「郎党二十三騎」の一人、香河五郎頼景であり、応永七(1400)年以降は京兆家分国讃岐の半国(西方)守護代を歴任しているのが確認されるとのことです。香川氏で讃岐半国守護代を務めたと考えられる人物については、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などが守護(細川京兆家当主)もしくは京兆家奉行人と考えられる人物から遵行を命じられています(『香川県史』第二巻通史編中世、313,4頁)。『建内記』が文安四年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏や長塩氏とともに「管領内随分之輩」であると記しており、香川氏が室町期を通じて京兆家の有力内衆であったことは間違いないと考えられる、とのことです。
(参考)
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kagawa.htm
讃岐の香川氏については、多度郡多度津の天霧山(現多度津町南部で、善通寺市との境界に位置)に居しましたが、その系譜に諸説あるところです。  『姓氏家系大辞典』にあげるところでは、 ①『全讃史』では香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとし、以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(実は長曽我部元親の子)」と記されます。この系は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の後とされます。 次に、②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれといい、細川氏に仕えた刑部大輔景則が多度津の地を賜り、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。 更に、③『武家系図』では、越後の長尾顕景の七郎朝忠、香川を称すとあり、同流の細川勝元臣五郎次郎和景之を称すともありますが、これは越後の長尾氏の一族が讃岐に来たわけではないと考えられます。このほか、『南海治乱記』『応仁武鑑』『万福寺天文棟札』なども、皆平姓で景政の後とされています。  これらに対し、讃岐綾君の祖・武貝児王の子孫に綾景直がおり、初めて香川を氏とし、その数代後に景則が出たとするものや、綾君の別族香川景玄の裔とするものがあったことも『姓氏家系大辞典』に記載されています。  上掲の『各家系譜』所収「香川氏系図」では、安芸の香川氏の支族として讃岐の香川氏を記載します。すなわち、足利直義に従った香川景春の弟に大膳之亮久景をあげ、尊氏に従い延文二年(1357)所領を賜り讃岐国雨霧城に居すと記し、その子景継が細川頼之に仕え、以降は「義景-孝景-家景-定景-信景=元景(実は長曽我部元親の子)、その弟景家-政常、弟重信」と記載(若干の傍系記載もあるが、ここでは嫡系のみをあげた)があります。  また、『善通寺市史』は、相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などから推して、景則は嫡流とは認め難いとして、その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。ほぼ妥当な見解ではないかとみられますが、活動年代的に見て、「頼景─和景」の関係は間にもう一世代あったほうがよいとも考えられます。  いずれにせよ、以上にあげてきた様々な所伝・史料を十分に検討する必要があることになります。
香川和景:巴九曜 の 家紋
讃岐守護細川氏は幕府管領として在京が常態であり、細川氏の被官である香川氏、安富氏、香西氏らも在京することが多かった。
たとえば、香西氏は在京の上香西氏と下香西氏に分かれていた。香川氏の場合、嫡流は讃岐に居住することが多く、一族が京都にあって細川氏の政務などを手伝っていた。このことから、讃岐と在京の香川氏が混在されて、香川氏の系譜を分かりにくいものにしたのであろう。 ところで、さきの『見聞諸家紋』に見える香川和景の家紋は「巴九曜」と記されている。「巴九曜」は越後の戦国大名長尾氏の家紋と同じもので、香川氏と長尾氏とはともに権五郎景政の後裔で近い一族であった。そのことを、家紋は明確に伝えているといえよう。
1467年 応仁の乱 奈良太郎左衛門 円亀山に築城
丸亀城の始まり。応仁の頃細川勝元の重臣奈良太郎左衛門元安(宇多津、聖通寺山城主)によって波越山(円亀山)の小山に築城された聖通寺山城の支城。丸亀城は別名(亀山城、蓬莱城)と呼ばれている。宇多津の聖通寺城主であった奈良元安が、高さ66㍍の亀山にとりでを築きました。これが丸亀城の起こりです。
応仁年間(1467年)細川管領勝元の旗本四臣。四臣とは、香川肥前守元明 奈良太郎左衛門元安 安富民部少輔元綱 香西備後守元資の四武将を言うなり。四国 近畿 備前 備後 九州征伐時にも細川を援けた名だたる武将であったが、国守より飯料として田を賜り一族奥中山に入り居住。その一門 植松彦太夫 香西佳清兵衛も世定まる時は、天領でありし小田郡前田村に帰り裔を保てりと。讃州の国 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となり武勇勝れたる家系なり。
応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると、香川五郎次郎(和景か)は安富左京亮らとともに兵を率いて上洛、勝元に従って西軍と戦った。『南海通記』には、香川肥前守元明は香西元資、安富盛長らと兵卒五万を指揮して八方に戦ったとあり、安富民部は相国寺の戦いで奮戦、討死している。讃岐勢が東軍の領袖である細川勝元を支え、その中核戦力として活躍したことがうかがわれる。
応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、足利幕府の威信は地におち、全国的に下剋上が蔓延する戦国時代となった。各地に新興勢力が割拠し、かれらによって荘園は押領され、領地の一円支配を行う戦国領主が登場してきた。それは海南地方も例外ではなく、鷲住王の子孫を称する各氏が城を築き、それぞれの地域の支配者となり、互いに勢力を競い合った。
元安は城を宇多津に築いて居住し、細川氏に従って応仁の乱に身を処した。元安の子備前守元信は在京して、管領家の執事をつとめた。元信は京都の近くにも所領をえて、子太郎兵衛元政を宇多津に置いて後藤左衛門佐、物集大蔵大夫、進士隼人佐等を後見とした。しかし、その後の乱世のなかで大半の所領を無くし、津郷の二村、川津等の数村を残すのみの身上となった。
天文元年(1532) 奈良も 一向一揆 三好氏台頭
八月の山科本願寺焼き討後も、畿内一向一揆と細川晴元の戦いは続いていた。その後、「天下、一揆のままなり」と表現された一向衆を中心とする21万騎が、大和と京畿の交通の要衝を抑え、細川京兆家を打倒した事件がありました。 香西家、薬師寺家、木沢、茨木といった国人の上で守護代を任じられた、内衆(細川家うちわ衆)が没落し、事態の収集にのりだした細川家は、法華衆徒と結び、山科本願寺の退去を実施したが、将軍家要人三好長慶の天下となる。これで、京畿の幕府機構は、崩壊してしてしまった。主な一向一揆 1474年、越前一向一揆 1480年、越中一向一揆 1488年、加賀一向一揆 1532年、畿内(奈良)一向一揆 1563年、三河一向一揆 1567年、長島一向一揆 1570年、石山合戦
■讃岐諸将の所領と居城
讃岐─┬─香川氏─┬─直  領──┬─豊田郡
   │     │(天霧山城) ├─三野郡
   │     │       └─多度郡
   │     └─奈良氏領──┬─那珂郡
   │      (聖通寺山城)└─鵜足郡
   │
   └─安富氏─┬─香西氏領──┬─綾南条郡
         │(勝賀山城) ├─綾北条郡
         │       ├─香川西郡
         │       └─香川東郡
         ├─植田氏領────山田郡
         │(戸田城)
         ├─直  領────三木郡
         │(雨滝山城)
         └─寒川氏領──┬─寒川郡
          (昼寝城)  ├─大内郡
                 └─小豆郡
1551年 村上水軍 小早川隆景
古くから瀬戸内にあって勢力を保ってきた村上水軍は、天文20年(1551)の厳島の合戦以降、毛利氏と行動を共にし、山陽の水軍を統括していた小早川隆景の指揮下にあって織田氏の海戦などに活躍した。笠岡城は村上氏にとって本州側の重要な拠点であったが、毛利氏にとっても山陽道を押さえる備中の入り口として重要視。
1555年頃高木城築城 高木隼人:鷲住王の後裔 楠見城(高木城) 綾歌郡飯山町川原字山崎、楠見、東坂元河内 高木隼人 高木隼人の遺構。楠見池は弘治年間(1555~58)築造されたと言われ、のち矢延伝六が三谷池と楠見池を一つにして現在の楠見池とした。その池の西方に標高80m程の城山に高木隼人が築城し、城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。
1558年 三好 天霧城を攻める
永禄元年(一五五八)に三好豊前守が天霧城を取り囲んだ時、民部少輔も三好方で出陣している。
香川氏
善通寺 鎌倉寺:香川氏の先祖鎌倉権五郎景政を氏神として、鎌倉町に祀った。八幡太郎義家の臣 鎌倉権五郎景政の子孫。南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。雨霧城三代物語には次の様に書かれている。弥谷山にあり、絶頂は常に雲霧に覆われ、峻険で、香川氏が冦への守りとしてここに築城した。この山は二郡にまたがっており、居城は多度津とした。追記多度津の城に香川氏が居住した事は書物には書かれていないが、雨霧山の峻険であることは三代物語に書かれているとおりで、いま、その頂上には石垣などが残っており、井戸も一カ所あるがその深さは判らない。常に居住した所とは思えないので、多度津に本多山と言うところがあり、ここを香川氏の城跡としている。私もこの書に書かれているとおり、香川氏の居城は本多山であろうと考えている。
出典:http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2055-48.html
戦国の西の荘 :香川民部少輔
民部少輔は香川肥前守景明の従弟で京師に出て細川政元に仕えた政元が殺害された後、香西備中守元継が養子澄之を立てようとして嵐山の城に立て籠もり三好元長と戦った。元継軍が敗れて戦死した時に元継の領地、丹波国篠山、綾郡西ノ荘の城が共に闕所となったので管領細川澄元は民部少輔が澄之へと味方をしなかったのを賞して西荘城を与えた。よって、始めてこの城へと移り北條郡を領した。その三代孫が父祖の名を継いで民部少輔と称した。天正八年に長曽我部元親が六千余の兵を率いて攻め寄せた。民部少輔は降った。元親は城を巡検し、土佐兵五百余人を付けて西長尾城と共に守りにつかせた。そこへ三好存保が信長の命だとして香西、安富、寒川、植田、池田、三谷等の諸士及び阿淡の兵士一万人を率いて北條郡へと入り西荘城を取り囲んだ。民部少輔の家臣で宮武源三兵衛が良馬に乗って近従十騎を従え、轡を並べて群れ集まる敵軍の中へとさぁっと駆けだした。当たる敵を打ち据え、一散に駆け敗り一騎も損せずに引き取ったので敵も味方も褒め称えた。ところで当の西長尾城からの援兵は敵が多兵であると聞いて寄せては来なかった土佐兵将が「これでは勝利を得られまい、今は降参して再挙を計るべきだ」と言ったので民部少輔もこれに従った。城を明け渡した後、土佐兵は西長尾城へと引き退き、民部少輔は家人従類を従えて青梅浦へと引き取った。従兵二十人と慈愛の鷹を手にして城を立ち去る後ろ姿を見て皆、涙を流した。松ヶ浦から舟に乗って塩飽島へと渡ったが、以後どうなったかは不明である。中国にて死んだとも、また、義昭将軍が吉川元春に民部少輔降参の事を書き頼み、再び毛利の力により国元へと帰り仙石氏に従って利光川で戦死したとも言う。生駒氏の時代になって、宮武源三兵衛が城地を受け取り田畑を開いて現在に至るまで、その裔族はここに住んでいる。
永禄五年(1562)三好義賢が和泉久米田の戦いで討死し、ついで永禄七年に長慶も病死すると、三好氏の勢力にも陰りが見えてきた。その一方で、尾張の織田信長が著しい台頭をみせ、永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛、ここに時代は大きな変革のときを迎えた。 
香川之景は香西氏と結んで、三好長治と対立した。長治はただちに兵を出したが、大西氏、長尾氏らが香川氏に味方したため、ついになすところなく兵を撤退した。翌天正三年。香川氏に属していた金倉顕忠が、三好氏を後ろ楯として香川氏領を蚕食するようになった。香川之景は香西佳清に援助を頼み、顕忠を挟撃した。顕忠が恃んだ三好長治は動かず、ついに顕忠は之景らによって討ち取られてしまった。すでに三好氏は香川・香西連合軍に対抗する力を失っていたのである
天正四年、香川之景は信長に属することを願って許され、一字を賜り信景と改めた。翌天正五年(1577)、細川真之が長治討伐の兵を挙げ、長治は別宮浦で自刃して滅亡した。やがて、土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻、さらに伊予・讃岐へも兵を進めた。
三好氏のあとを継いでいた十河存保は、勝端城に拠って、讃岐の諸将に長宗我部氏への抗戦を呼びかけた。 元親は藤目城、財田城を攻め、存保は奈良氏、長尾氏らに防戦させたが、敗れてしまった。この間、信景は存保の呼びかけに応じず、翌七年、元親の降伏勧告に応じて長宗我部氏に降った。そして、男子のなかった信景は元親の二男親政(親和)を養子に迎え、香川氏の安泰をはかった。一族の民部少輔は長宗我部氏に対立し、毛利氏を頼って讃岐から退去している。以後、信景は元親の四国統一戦に協力し、羽床氏を戦わずして降し、長宗我部軍に激しく抵抗した香西氏を和議をもって降伏させる功を立てている。
 天正七年 香川一族 家臣 長宗我部氏への臣従
 参考:http://www2.inforyoma.or.jp/~ota/Ksan.html
香川信景(????)~(1586)【官位】:刑部大輔、中務少輔 【別称】:元景雨霧城主で西讃岐屈指の豪族。先祖は相模国香川庄を領した鎌倉権五郎景政で細川氏と共に讃岐に入部した。細川氏に属すが臨機応変に安芸毛利氏や中央の織田氏とも手を結び信長から偏倚をうけ信景と改名。1579年頃から、長宗我部氏の讃岐侵攻が本格化。家老の香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門の四人を二人ずつ土佐に送るというを条件を受け入れ降伏、元親次男の親和を養子に迎えた。香川氏の降伏後讃岐の豪族達は次々に長宗我部氏に降伏する。秀吉の四国征伐後土佐に逃れ、豊後戸次川合戦で討ち死にした
香川景全 (?~?)香川信景の弟。讃岐高丸城主。天正七年、香川氏が長宗我部氏への臣従する際、その交渉を行う。以降、長宗我部家に仕える。四国征伐後、没落。
  香川山城守 (?~?) 香川一族。天正七年、三野菊右衛門らと共に、長宗我部家への人質となる。
  三間菊右衛門 (?~?) 香川重臣。勝間城主。天正七年、長宗我部家への人質となる。子の四良左衛門は生駒氏に仕えた。
  太平国祐 (1538~1603年 66歳没) 香川家臣。獅子ノ鼻城主。母は川之江轟城主大西長清の娘。天正六年、長宗我部家に敗れ、城を落ち延びる。後に仙石秀久に仕え、侍大将となる。戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せる。慶長八年七月四日没。六十六歳。一説に没落を悲しんでの入水自殺と云う。
  太平国常 (?~1586年) 太平国祐の長男。天正十四年、戸次川合戦で討死。二人の弟は出家した。
  近藤国久 (?~?) 香川家臣。麻城主。出羽守。獅子ノ鼻城主太平国祐の弟。天正年間、長宗我部勢に攻められ落城。
  吉田兼近 (?~?) 天神山城主。佐兵衛。武勇に優れると伝わる。  
  吉田宗久 (?~?) 吉田兼近の子。弾正。天正七年、長宗我部勢に攻められ落城。
  財田常久 (?~1578年) 本篠城主。和泉守。天正六年、長宗我部勢に攻められ、横山源兵衛に討たれる。
  河田弥太郎 (?~?) 香川家臣。天正七年、長宗我部家への人質となる。  
  秋山主水 (?~1578年) 財田常久に仕える。天正六年、長宗我部家臣横山源兵衛に常久が討たれると、源兵衛を討ち取り、主君の首を取り戻した。しかし、直後に源兵衛の子、源三郎に討たれた。 
天正十二年(1584)元親は四国統一を果たす
しかし、翌年には豊臣秀吉の四国征伐を受けて敗れ、降伏、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。香川信景・親和父子も天霧山を退去して土佐に退去した。ここに、讃岐の戦国大名として勇名を馳せた香川氏は讃岐から退去した。

1581年 向井城(向城、真鍋城)

真鍋祐重 城主真鍋氏は源平一の谷合戦で豪の者とうたわれた真鍋五郎助光の子孫である。代々武技にたけ、戦国時代には祐主、祐重父子は香西氏に属し、兵3百人を率いる武将として活躍した。祐主は仏心も厚く城の片隅に首塚を築いて自らが討ち取った敵の将兵の冥福を祈ったと言う。この父以上に祐重は、天正九年~十年(1581~82)の長宗我部元親の香西侵攻に際して。次々と敵将を討ち取って勇名をはせた。その後、讃岐の領主生駒親正に従い、朝鮮に出兵(1592年文禄の役、1597年の慶長の役)して数々の戦功を上げている。小学校北東中筋マンションの東側に祐主の五輪塔が安座している。城跡は木太南小学校南門より200m北東、詰田川の末流のすぐ近く、田の中ほどに小高い丘に荒神社(掘り出し荒神)がありこの辺り一帯だと言われている。木太町向井(琴電長尾線はやしみち駅の東)南部が本村である。向井城は本村の神内城と白山権現社(木太南小学校の東)を挟んで向いにあったところからそう呼ばれている。
1575, 天正3, 土居町, 北野庄屋の先祖真鍋右衛門喜寿が土佐より来た, 「土居町誌」 1577, 天正5, 伊予三島, 松尾城主真鍋大炊介通周と轟城主大西備中守元武が戦闘, 「伊予三島市史」  1581, 天正9, 高松, 向城主真鍋弥助祐重が長宗我部軍と戦う, 「日本城郭大系 第15巻 香川・徳島・高知」         
 1584年 奈良太郎兵衛門元安 戦死
土佐を統一した長曽我部元親が阿波・讃岐への進攻を開始し、元親は西長尾に城を築き、国吉甚右衛門を守将とした。太郎兵衛元政は長曽我部勢に進出に対して、栗熊村に砦を築いて後藤左衛門佐に守らせた。 天正十年(1582)、信長が本能寺の変で殺害されると、元親は一気に阿波・讃岐に兵を進めた。長曽我部軍は諸城を落とし、宇多津にも攻め寄せてきた。元政は十河存保に支援を求めたが、存保にその余力はなく、ついに元政は城を捨てて香西伊賀守に合力しようとした。家臣を率いて東に進んだ元政は小山に陣を布こうとしたが、にわかに大雨となり、野陣をあきらめ山下の観音堂に入って夜を明かした。その後、阿波に入り十河存保の麾下に属した。
天正十一年(1584年)長曽我部元親、阿波の勝端城を攻む。勝端城は三好存保(十河)は、織田信長に破られた上方の将兵。四国で長曽我部勢に破られたる将兵は合わせて三千五百名にて、勝端城を守り中富川に押し出して迎え打ったが之を打ち破る。この陣に讃州 奈良太郎兵衛門元安 二百五十人を三手に分けて物集 進士を左右にし闘ったが戦死。子 太郎左衛門 他従は讃岐に引具して鵜足郡津之郷辺に居住し、生涯を送り裔を残す。
天正十三年 (1585)
天正十三年、秀吉の四国征伐が開始されると来島通総は小早川軍の先陣となり、のちに伊予国野間・風早郡内で一万数千石の知行を与えられた。 
一方、村上水軍三家の惣領ともよべる能島村上武吉・元吉父子は秀吉から目の仇にされ、通総の出世とは対照的に、瀬戸内海での居住を許されず筑前や長門に移住することになった。
一方、因島村上氏は小早川隆景に仕えて勢力は維持したものの、村上水軍三家の歴史は豊臣政権の成立とともに幕を閉じたといえよう。
高松左馬助 (?~?) 讃岐喜岡城主。天正十一年、仙石勢に攻められるも撃退。天正十三年、四国征伐により落城。
雨瀧城主安富氏長曾我部元親に攻められ落城
天正十四年 讃岐香川氏の最期 島津軍と戦って壊滅的敗北
 天正十四年、豊臣秀吉は九州征伐の陣ぶれを行い、四国勢に豊後出兵を命じた。長宗我部元親、十河存保、香西・寒川・安富・三野・羽床、そして香川民部少輔らが出陣し、島津軍と戦って壊滅的敗北を喫した。長宗我部元親の嫡男信親をはじめ、十河存保、香川民部少輔、安富氏、羽床氏らはことごとく戦死をとげた。 もっとも将来を嘱望した信親を失った元親は往年の覇気を失い、二男の香川親和、三男の津野親忠をさしおいて末子の盛親を跡継ぎに決定した。これには、一族の吉良親実らが諌言を行ったが、元親はそれをいれなかったばかりか親実に自刃を命じた。
天正14年(1588) 塩飽水軍 †
豊臣秀吉の朱印状は天正14年(1588)九州の島津氏を征討するために、讃岐の領主仙石権兵衛とその将兵を派遣するから、50人宛乗れる船を10艘出すように塩飽の年寄に命じたものです。秀吉は天正18年(1590)に塩飽領1250石を650人の船方に与える旨の朱印状を発行しました。この人達を人名(にんみょう)と呼び、以来明治にいたるまでその子孫が塩飽を共有することになります。この朱印状は記録ばかりで現存しません。後に徳川家康から同じ趣旨の朱印状うけたので、そのさい引き替えたものだろうと言われています
5.9:320:116:0:0:kiyama-sancyou:center:1:0::城山から讃岐富士をみる
1597年 生駒 丸亀城築城
戦国も収まり、天正十五年(1588年)八月豊臣の武将 生駒雅楽頭 讃岐国の領主として入封。
慶長2年(1597年)讃岐の領主になった生駒親生が、高松城の西の守りとして、亀山に大きな城を築きました。これが今の丸亀城の始まりです。そのころのお城は、大手(正面)が南に向いていました。ところが、元和元年(1615年)江戸幕府は全国に「一国一城令」を出したので、丸亀城をつぶすことになりました。
慶長2年(1597)讃岐17万石「生駒親正」親子は、四国の官領職「細川氏」の家臣の「奈良氏」の出城を大きく作り変え、後の城の基礎をつくった。「生駒一正」の代に、一国一城令によりいったん破却された。 生駒家4代54年で、生駒の時代が終わる。
幕藩大名となった生駒氏は、もと土田氏といい、土田甚助親重(元亀元年〔1570〕没)が、祖母の実家でその兄弟にあたる尾張国丹羽郡小折(愛知県江南市)の生駒加賀守豊政の養子となったことから、生駒へと苗字を変えたもの。
(徳川 実記より)
此日生駒雅楽頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。寿七十八。此親正が先は参議房前に出で。数世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家号とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豊臣家に属ししば/\〃軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戸の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穂にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に転封せられその國鶴羽浦に住し。また丸亀の城にうつり。このとし堀尾帯刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豊臣家三中老の一人に定めらる。是より先従五位下して雅楽頭と称す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。文禄四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にひしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島。加藤等とおなじく海道を発向し。関原の戦にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に従ひ。家卒を出して丹後國田辺の城責に与力せしかば。関原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石余を賜ひ。丸亀を改めて高松の城にうつりすむ。親正はなまじゐに田辺の城責に人数を出しければ。其罪を恐れ高野山に逃のぼり薙髪して謝し奉りける。されど一正既に軍忠を著はし勧賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御ゆるしを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取りしとぞ。(家譜。藩翰譜備考。寛政重脩譜)○
生駒親正は讃岐高松六万石の大名で秀吉三中老の一人といわれる大名家の始祖であり、その子讃岐守一正は関ヶ原の戦功で高松十七万石の領有を許された。生駒氏は家臣争論で寛永十七年にいったん除封され、その後に出羽矢島に再興されている。
丸亀城は最初の城主生駒親正から一正・正俊・高俊と4代54年間,山崎甲斐守から
俊家・治頼と3代17年間,京極高和から高豊・高或・高矩・高中・高朗・朗徹と7代212年間計282年間の大名の城となった。
生駒氏 人材の登用
仁尾町史より
生駒親正は讃岐に入封後、讃岐国内の土着の名門や家族で人徳のある秀れた者を徴用して家臣に用い国人の人心を掌握したようである。この時およそ二〇人余りが召し出されたがその内、佐藤志摩・掃部が東部を治め、三野菊右衛門と川田七郎兵衛が西讃を治めたことが知られている。
 川田七郎兵衛の名は『南海通記』にも見えているが、いわゆる長曽我部元親と香川信景が和議を結んだ際、香川氏の家臣であった三野菊右衛門、香川山城守、河田弥太郎らと共に人質となって土佐岡豊城に送られた人である。 同記には河田七郎兵衛・河田弥太郎とも仁尾の人であったことが記されている。『南海通記』にいう河田七郎兵衛と『生駒記』にいう川田七郎兵衛は同一人物の可能性がある。
生駒親正の時代 青野山城 尾池玄蕃義長
丸亀市土器町東三丁目上分 尾池玄蕃義長
 主君:細川頼之
城主の尾池氏は細川定弾(1340年ごろのひと)に従い信州より来て香南町に領地を得て横井城にいたが、生駒親正の時代に分家がこの地に移ったとされる。讃州細川記では細川頼之が青野山に陣を置くと記している。土器村史に「上分にある。尾池玄蕃の居城で、小屋舗であったと讃岐古城跡に記されている。現在荒神社を祀り郷倉跡と称せらる所である」とある。土器川東側の上分、本村との境のすぐ南にある。三宝荒神社が青ノ山城跡。生駒時代に尾池玄蕃の居城があった場所は高松藩時代の郷倉が設けられ、明治維新の後に松籟小学校の建てられた所である。横井城 香川郡香南町横井 尾池玄蕃頭 横井村の古河のほとりにある今は中屋敷という
(参考)http://www8.plala.or.jp/muxia/sr/shidan_11.html
足利義輝が殺されたとき、烏丸氏は将軍近臣の小早川外記と吉川斎宮によって讃岐横井城の尾池玄蕃光永のもとに落ち延びる。すでに身重であった烏丸氏は数日して男子(義輝の子)を生んだ。これが玄蕃である。玄蕃は光永の嗣子となり尾池を称した。天正十(1582)年十一月、仙石秀久の家臣、上杉伊賀太郎が数百騎を率いて横井城を攻撃するが玄蕃によって撃退され、伊賀太郎は討死した。のち生駒氏が讃岐の領主となると、千石をもって玄蕃を招いた。
生駒騒動
幕府は七月二十六日に生駒藩の処分を決定した。処分内容は藩主生駒高俊が讃岐一七万一八○○石を没収・出羽国由利郡矢島に転封され、「賄米」として一万石を与えられた。「家政みだりにして、藩士争論するによりてなり」とされた。そして石崎若狭・前野次太夫は「家司の身とし、藩士を煽動し党を結び。国を立ち去りたる罪」によ・て切腹を命じ、森出雲・上坂勘解由は「府に証人をささげ置たる身にて、主にも訴へず上裁をも仰がず、私に藩士等あまた党して、妻子を引きつれ国を立ち去りしは尤も曲事」として死刑、石崎八郎右衛門・安藤蔵人・岡村又兵衛・小野木十左衛門・市原惣左衛門・飯尾宗兵衛らは「徒党をくはだて国をはしり、上命をまたず府にまいりし罪かろからず」として死刑に処せられた。生駒帯刀・生駒左門・三野四郎左衛門らは大名預けとな・た・若狭・次太夫らの処分はいずれも徒党を組んで藩を立ち去・たということが理由とされている[徳川実記]。高松城を幕府の上使へ明け渡すに際しては「高松の域下殊の外騒動仕」る状態となり「籠域」などの動きもあ・たが高俊から通知もあ・て無事城の明渡しも行われた。上使の尼崎藩主青山幸成らは八月十八日付の峰須賀忠英の書状に、「讃州へ仰せ付かせられ候上使衆、海上無事昨日志渡に至り着船仕られ候、追付高松の域下へ御越しの由」とあ・て、十七日には志度に着いている。そして九月に入ると讃岐は三分して統治されることになり、大内・寒川・三木・山田・香東各郡は伊予西条藩主一柳直重・香西・南条・北条・鵜足各郡は同じく今治藩主松平定房、仲・多度・三野・豊田各郡は同じく大洲藩主加藤泰興がそれぞれ預かることにな・た。
元和元年(1615年) 塩屋村
播磨国赤穂の田中孫六ら30人、塩屋村に移住し同地に塩田を開く
1641年 山崎氏入封 築城の名手
寛永18年(1641)「山崎家治」が西讃岐5万3千石で入封し、城郭の再建をした「山崎氏」は3代17年で無嗣絶家となり、山崎の時代が終わる。
参考:山崎家 
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/yamazaki.htm#iemori
山崎家治が、寛永18年に西讃に封ぜられて城を再建。現存の丸亀城建造物はこの時代に作られたものが大部分だそうです。今の天守閣や三日月形の石垣は、この時代のもの。
山崎甲斐守家治は成羽から肥後国天草へ転封。これは幕府から命ぜられて「島原の乱」の後始末に行かされたのです。
その後、甲斐守は富岡城を再建するなど戦乱後統治で多大な功績を挙げ、讃岐国丸亀(香川県丸亀市)五万石の領主に栄転となりました。
富岡城は慶長7年(1602)天草を統治するため唐津城主寺沢志摩守広高が築城。寛永14年(1637)に天草島原の乱でキリシタン一揆勢、1万2千人の攻撃を受けたが落城せず。その後、山崎甲斐守家治が城郭を再建。一時天領を経て再び私領となり、寛文10年(1670)に戸田伊賀守忠昌によって破却されるまで富岡城はその偉様を誇っていました。
富岡城跡からの眺望もすばらしく、巴崎を望む風景は、「新くまもと百景」にも選ばれています。百間塘は、寛永15年(1638)山崎甲斐守が、城修築に際し城濠と巴汀を隔てて城門に直通する大道を構えたもので、長さ96間、高さ4間半、幅4間。当時の富岡城の威容が偲ばれます。
 山崎氏 讃岐富士の麓に山崎城を築城か
山崎に2つの城跡がある。
参考:http://www.marinenet.co.jp/koala/oyakoala/oldc/oldc3.htm
飯ノ山城
丸亀市飯野町東二山崎 高木右馬守 藤井太郎右衛門尉
飯野村史に「飯野山西麓にあり、高木右馬守城跡と云う。その後後藤井太郎右衛門の居城と云う。段々田圃と修理、屋敷、井量やしき杯と地名残れり。何れ此の辺両姓の末流今に多し。山の尾崎を城跡と云。
則曰天大明神と今此所に奉尊敬也」とある。
丸亀市飯野町東二の小山は飯野山から西に派生した舌状の丘である。
標高はせいぜい20m位であろうか、
現在丸亀市青少年野外センター駐車場に飯野神社が祀られている。この飯野神社が旧飯野村史で言う天大明神を祀る社であろうか。
今は開発されて飯ノ山城の遺構を知る事もできない。
毛利の家臣(藤井太郎右衛門) の城が飯野山城か織田信長と本願寺顕如が対立し摂州石山本願寺で合戦が始まった天正年間、毛利水軍の大将として活躍していた藤井太郎右衛門という武将がいた。 
(毛利での出来事)
1569 永禄12 6月藤井暗玄は神辺城を奇襲し、一時.占拠するが、8月には逆襲され、敗走の途中で大門の明知山に来る。その後追われて、浅口郡大島村で討死。 1563 小早川隆景と坪生の神森神社を再興した旨を記した棟札がある。
1566 月山富田城落城、尼子氏降伏。
1569 三原城築城(小早川隆景)
大友宗鱗と毛利氏の北九州門司合戦の間、神辺城を急襲する。
(藤井は 雑賀水軍か)
讃岐の雑賀 『南海通記』に「野原の雑賀、岡本、藤井云々」と載せてある。この雑賀氏もまた紀州雑賀氏の血脈をひくもので、石山合戦において毛利水軍とともに、雑賀水軍として活躍した。
 ちなみに雑賀水軍とは、中世においては熊野海賊といわれていた。そして、その戦艇はお関船といい、六百石積みほどのものであった。
 この讃岐の雑賀氏の名は詳かではないが、ただ『太平記』三十八に、讃岐の鈴木氏に「孫七郎行長」の名がみえる。さきにも述べてあるように雑賀氏、すなわち本姓鈴木氏である。
合戦後、忍城主成田氏長の家臣で弟の藤井玄藩を縁に行田に移り、修羅の争い人の世の無常を憂い親子で出家。真言宗の当寺に入るが他力易行に帰依深く浄土真宗に転派。太郎右衛門は旧跡巡拝を志し、末子の釈教恵玄広に寺務を譲り、これをもって文禄四年(1595年)開祖となる。 以来四百年以上にわたり藤井家は代々世襲し法灯を守り続けて現在に至っています。(埼玉県行田市城西3-7-12)の高速道路北側の二ヶ所ある』ととも書かれている。
山崎甲斐守の居宅?山崎城
その東側に山崎甲斐守が居城した城跡がある。
山崎城(山崎邑城) 丸亀市飯野町東二山崎(飯野町東分山崎・東二)
飯野村史に戦国時代の豪族で山崎甲斐守が山崎に築城したが、
土佐の長宗我部元親に滅ぼされたと書かれている。
≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は山崎邑城(飯野山城)と表記し城主は高木右馬守~藤井太郎右衛門尉と書いている又『伝承地には、伊勢神社のある台地上と飯野山麓の高速道路北側の二ヶ所ある』ととも書かれている.
言い伝えによれば、山崎池の上の伊勢神社の裏山が山崎城跡。(一方の飯野山城は信貴山の下の舌状の丘であろう。)
山崎甲斐守は、長宗我部元親の讃岐攻め後に、丸亀城主となっているので、飯野村史の記述は、疑問。
山崎の天照皇大神を祀る伊勢神社も山崎山崎甲斐守が信仰したか?
(参考:山崎甲斐守 伊勢神社を信仰)
豊姫神社(豊中の上高野)この神社は、上高野小学校より南東へ歩いて約10分、延命院の向かって左側にある。 神社誌によると、ここより北西にある、五十鈴神社と同時に奉斎されたとある。[境内内石碑写す] 当社は、豊受姫命 八幡大神 厳嶋姫命を祀る。人皇第105代正親町天皇の永禄の頃まで当時の国主深く尊崇し興隆に勉む。その後、山崎甲斐守京極家厚く信仰ありて国朱印の奉献あり。府志に曰く、二社あり一社は、天照皇大神を祀りて伊勢宮と奉称し、一社は豊姫大明神を祀りて豊姫宮と奉称す。伊勢宮は、旧くは高野一郷崇敬し大社にして、豊姫宮は村社なり。又、二川あり、一を宮川と呼び、1を祓川と云う。
1659年 京極高和 丸亀に入る 万治元年(1658)、播磨・龍野6万石より京極高和が丸亀5万石へ入封。不足の1万石は  播磨・網干に与えられた。3代・高或は3歳で家督を継ぐが、夭折のための断絶を恐れ高或の  庶兄・高通に1万石を分知し支藩・多度津藩を作る。 3代・高文までは藩庁を丸亀に置いたが  4代・高賢の時多度津へ移る。 以後7代212年を経て、維新に至った。
2代高豊は、南にあった大手門を北に移して今のような立派な城を完成させました
万治3年(1660)虎ノ門 琴平宮
万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐から三田の藩邸に勧請し、延宝7年(1679)藩邸移転とともに現在地に移る。
元禄 7年(1694年)
丸亀藩より1万石を分けて多度津藩ができる
万延 元年(1860年)
塩飽水夫35人が乗った咸臨丸が太平洋を横断し米国へ

One thought on “丸亀 坂出 宇多津など 西の讃岐 の 歴史 :飯野山(讃岐富士)周辺について

  1. 香川氏と寒川

    讃岐香川氏は鎌倉権五郎景政の子孫。
    相模国高座郡香川庄(現:神奈川県茅ヶ崎市香川)発祥。
    南北朝時代、細川頼之に従い讃岐に移り、香川景則は天霧城を本拠として西讃岐一円を領有して細川四天王の一つ。
    景則の後は景明、元景、之景(信景)、親政(長宗我部元親二男)の約二百年が天霧城主。
    天正13年(1585)、秀吉の四国征伐で天霧城は廃城、親政は土佐に帰り病没。
    また地名的考察からは、相模寒川郷、香川庄と讃岐寒川郡、香川郡が地名遷移による何かを暗示している。
    その他、各地に寒川(寒河)の地名は多く、何らかの地縁が有るように思われる。

コメントを残す