安国造(やすのくにのみやつこ・やすこくぞう)は近江国東部(琵琶湖東岸)を支配した国造。淡海安国造・近淡海安国造とも。
建部大社・・・滋賀県大津市。祭神は日本武尊。近江国一宮。
子孫
大陀牟夜別・・・淡海国造。安国造の祖。彦坐王3世孫。娘の両道入姫命は日本武尊に嫁いで稲依別王を産んだ。
犬上御田鍬・・・飛鳥時代の外交官。遣隋使。初代遣唐使。
安(野洲)の本家は、壬申の乱(672年)で負けた大友皇子の側についたらしく、乱後は力を弱め、その東西にいる犬上君氏や建部氏にとって代わられたと考えられます。ただし、犬上君と建部の祖はともに稲依別(イナヨリワケ)で、稲依別王は、安国造の祖であるオホタムワケの孫だと古事記に記載されています。大友皇子(弘文天皇)は、母が伊賀采女宅子で皇族ではないため支援が少なかったとおもわれ、血筋でまさるオジの大海人皇子(天武天皇)が勝ちます。それでも実際に大海人皇子側で戦ったのは主に中小の氏族で、近江からはワニ部、五百木部(伊福部)、イカゴ、坂田、息長君、羽田公などが記録されています。なお、大友皇子のひ孫のひとりが、天皇の漢風送り名を奏上した近江三船(オウミノミフネ)というヒトです。
御上神社 野洲市三上
野洲市立銅鐸博物館 野洲市辻町57
倭国時代の近江の豪族
それによると、湖北は息長(おきなが)氏、湖西は和邇(わに)氏(現在も和邇の地名が残る)が支配し、物部郷のある湖南地域は安(やす)氏(現在も野洲の地名が残る)が支配していたという。息長氏と和邇氏は倭国王に后妃を配した豪族で、ともに製鉄技術をもっていたとされる。
安氏は近江氏とも呼ばれ、大岩山の銅鐸で見られるように、倭国で制作された銅鐸を各クニや機関に配るという国策に深く関与していたのだろうと水野先生は推定されている。
つまりこの一帯の青銅器文化の担い手は安氏であったのかも知れない。
息長、和邇両氏は大和で倭王を補佐し、安氏は近江のクニを管掌していたとの考えである。
日牟禮八幡宮 (ひむれはちまんぐう)
住所:滋賀県近江八幡市宮内町257 旧県社、別表神社
祭神:譽田別尊(ほむだわけのみこと、応神天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、比賣神(ひめがみ、宗像三女神
創建は社伝によれば、成務天皇元年(131年)に、第13代・成務天皇が志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の大津市穴太・高穴穂神社周辺)で即位の際、武内宿禰に命じて、地主神の大嶋大神を祀ったのが始まりとされています
応神天皇6年(275年)2月に、天皇が母の神功皇后の生地である近江に行幸され、奥津島神社に参詣。その帰りに現在の社の近くで休憩され、御座所が設けられ、その後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るという現象があり、そこに祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。
「比牟禮社」という名前は、「日觸」から来ていると言われています。
境内にも「日觸八幡宮」と書いた石柱が建っていますが、「日觸」とは5・6世紀に現在の奈良県天理市和爾町・櫟本町周辺を勢力としていた豪族・和珥氏の祖先・日觸使主(ひふれのおみ)に由来しているそうです。
天正13年(1585年)、豊臣秀次が近江43万石を与えられ八幡山に近江八幡城を築城し、天正18年(1590年)に山上の八幡宮を麓の比牟禮社に合祀しました。秀次はその年に尾張・伊勢100万石を与えられ、清洲に転封になります。
上の八幡宮は日杉山に祀る予定でしたが、文禄4年(1595年)に秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ高野山に追放、そこで切腹することになります。(金剛峯寺 柳の間で切腹。現在も残っている。)
秀次の代わりに近江八幡城に入城していた京極高次(足利尊氏に仕えた佐々木道誉の子孫)が大津城に移ったため、築城からわずか10年で廃城となり、日杉山に神社建立は立ち消えになり、そのまま下の日牟禮社のみとなりました。
現在、八幡城と「上の社」があった八幡山には、秀次の母の日秀が菩提を弔うため創建した瑞龍寺が建っています。八幡城は廃城となりますが、築城の際に秀次が安土城下からそのまま商人などを城下町に住まわせたことで、近江商人の町として発展し、近江商人の守護神として崇敬を集めました。
昭和3年刊行の「滋賀県史」
それによると13代天皇である成務天皇が、大津京よりもっと前に湖西にあったとされる志賀高穴穂宮で国郡を分けた時に、近江は所管を2分され、淡海安国造と近淡海国造に支配させたことになっているとある。つまり安国造(やすのくにのみやつこ)という安の国の長官ができ、安氏はそのような役目に任命された豪族であったらしい。
建部大社
創祀年代は不詳。
社伝では、景行天皇46年稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳4年、勢田郷へ遷座したという。
祭神は、現在、日本武尊を主祭神とし、相殿に、天明玉命を祀り、天平勝宝7年、大和三輪より大己貴命を勧請し、権殿に祀る。
当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。
景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
祭神に関する考証は古来多く行われ、
日本武尊説、大己貴命説、稲依別王説の3通り。
建部大社が、建部君がその祖神を祀ったと考えられ、大己貴命は、後から勧請されたと考える説が有力。
建部君は、日本武尊の子・稲依別王から発した犬上建部君と、おなじく日本武尊の子・稚武王を祖とする近江建部君があり、どちらが、当社の創祀にたずさわったかによって、稲依別王とする説も、考えられないことではないが、
どちらにしろ、日本武尊で良いのではないかと思う。
稲依別王に関しては、
古事記では、日本武尊と安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売との間に生れた子。日本書紀では、両道入姫皇女との子。
守山市や栗東市を含めたこのあたり一帯は、古の近江国栗太郡物部(もののべ)郷であったと思われる。平安中期に編纂された和名類聚抄に、栗太郡の郷名として勢多、木川、梨原、物部、治田の5郷が載っていることからそのように推定されている。
御上神社
滋賀県蒲生郡竜王町綾戸 … 当社の祭祀氏族、御上祝は、野洲郡一帯 を治めていた安国造の一族であり、当社の祭祀は安国造が執り行っていた
天之御影神は、我が国の鍛冶の祖神とされる神である。 「古事記」では、この神は近江国の三上山を御神体とする御上神社(滋賀県野州町)に祀られる神であるとしている。 三上山は”近江富士”とも呼ばれ、俵藤太こと藤原秀衡(平安中期の関東の武将で、平将門を討った勇者として多くの伝説が語られている)のムカデ退治の伝説が残る山である。 この神も、古くは三上山に宿る山の神であり、近在の人々の生活を守護する地主神であった。
古来、近江のあたりというのは帰化人の定着が多く見られ、外来文化とも密接な関係があった。 帰化人のもたらした文化のなかには当然、先進的な鍛冶の技術もあったはずである。 実際に野洲周辺の古墳の出土品に、大量の銅鐸や刀剣などが含まれていることから、この地に鍛冶の技術が根付いていたことは確かである。 その技術が中世以降は刀鍛冶として発展し、ひいては、のちに戦国の世に革命をもたらした鉄砲の生産地、近江国友村(滋賀県長浜市近郊)の鉄砲鍛冶の技術としてつながった。 とにかく、そうした鍛冶を専業とする古代の人々の信仰が三上山の地主神と結びつくことによって、天之御影神は鍛冶の神としての霊力を備えるようになったのである。
三上氏
天津彦根命—-天御影命—-天麻比止都禰命—-意富伊我都命—-彦伊賀都命—-天夷沙比止命—-川枯彦命—-坂戸毘古命—-国忍富命—-天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)—-鳥鳴海命—-八倉田命—-室毘古命
三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持ち、その一端を紹介すると、およそ次のような勢力圏を形成しています(註・物部氏などが伝えている系譜と異なる部分もあります)。
① 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
② 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
③ 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。
④ 国忍富命の姉妹・新河小楯姫命が采女臣の祖である内色許男命に嫁いで大水口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・富炊屋姫命は中臣連の祖である梨迹臣命に嫁いで三名の男子を儲けている。
⑤ 天加賀美命の兄弟・筑箪命の子・忍凝見命(オシコロミ)が筑波を始め各地の国造九家の祖となっている。また姉妹である息長水依比咩命が日子坐王の妻となり丹波道主王を生んでいる(孫娘の日葉酢媛命は垂仁帝の皇后)
勝部神社
守山市勝部町339 JR東海道線守山駅北西300m
祭神 物部布津神、火明神、宇麻志間知命
大化五年649年物部宿禰広国別人連が祖神として、上記三神を祀った。宇麻志間知命は饒速日命の子である。 大蛇に見立てた松明の祭りは近江の奇祭「勝部の火まつり」として有名である。
人皇第三十六代孝徳天皇の大化五年(649年)八月十三日、物部宿弥広国(ものべすくねひろくに)は、当時勝部村一帯の土地を領有し、その祖神を奉祀して物部郷(勝部・千代・蜂屋・野尻・出庭、・各村)の惣社として、これを物部大明神と称しました。
人皇第五十五代文徳天皇の仁寿元年(851年)正月には、物部布津神に対し正六位上を、続いて陽成天皇元慶六年(882年)十月には同神に対し従五位以下を、いずれも神位階として授けられました。
大鳥羽衣浜神社:大阪府高石市羽衣5-2-6
祭神:両道入姫皇女
堺市にある大鳥大社の摂社
日本書紀によれば、日本武尊は、両道入姫皇女を妃し、稲依別王・足仲彦(仲哀天皇)・布忍入姫命・稚武王を生まれた。
大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる。
社伝では、元々日本武尊一柱であったが、明治初めの官社祭神考証によって、大鳥連祖神とされてしまったとある。その後、念願の増祀が叶い、2柱となった。日本武尊を当社の祭神とし、天照大神と日本武尊の三妃を大鳥五社明神のそれぞれの祭神とする説だ。
大鳥大社は、白鳥伝説が世に広まった天武天皇から元明天皇の頃に創建されたのではないかと云われ
ています。
斉衡2年(855)8月18日に記された「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」という資料に慶雲三丙午(706)「始めて三妃を祭り神宮造営、大鳥五社大明神と名付け奉る」とあり、記録として残るこの頃以前から存在していた事になります。
大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
大鳥羽衣浜神社 :両道入媛命 (日本武尊の妃)
大鳥井瀬神社 :弟橘姫命 (日本武尊の妃)
応神天皇の母、息長帯比売(神功皇后)の先祖で、和邇氏系の日子坐王(ひこいますのみこ)の妃に、息長水依比売(おきながみずよりひめ)という方が出ていらっしゃる。この方は、琵琶湖の水神の姫だというのだから息長氏に違いない。しかし、この方の御子ではなく、日子坐王と和邇氏の袁祁都比売命(おけつひめ)の子、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子孫から、息長宿禰王→息長帯比売(神功皇后)が出ているのはどういうことだろうか? つまりは、息長氏と和邇氏は同族といってもいい間柄だったのではないか。
淡海国造
近江国西部(琵琶湖西岸)を支配した国造。近淡海(ちかつおうみ)国造とも。
『古事記』によると祖は天押帯日子命で、春日氏・小野氏と同系。
『国造本紀』によると、成務朝に彦坐王3世孫の大陀牟夜別が淡海国造に任じられたという。
氏族は淡海氏。小野氏と同族か。淡海三船らは大友皇子の子孫なので別系。
本拠は近江国滋賀郡か。後には琵琶湖東岸の淡海安国造を併合し、近江全体を支配したともいう。
建部大社 …… 滋賀県大津市。祭神は日本武尊。近江国一宮。
子孫は大陀牟夜別 …… 淡海国造。安国造の祖。彦坐王3世孫。娘の両道入姫命は日本武尊に嫁いで稲依別王を産んだ。
『新撰姓氏録』右京皇別下の項では、その子孫に滋賀県北部の和邇川左岸にいたとされる和邇部臣氏(本拠地、志賀町和邇中{今の大津市})の同族と見られる真野郷の和珥部臣氏がいる。
和珥部臣はおそらく和邇臣氏の配下である。
『姓氏録』には和珥部臣の鳥と押勝が真野臣姓を名乗ったとある。
また『古事記』孝昭天皇段に「和邇氏同祖系譜」では近江の和邇氏同族諸氏の祖として「天押帯日子命」(あめおしたらしひこの・みこと)という表記があり、同一人物の別表現だと思われる。なにゆえに『日本書紀』が「押」のひと文字を入れ替えたかはわからないが、一応、『古事記』の表記訓読は先着であるから、こちらが正しかったかも知れない。和邇氏本家をはばかって配下の和珥臣がわざわざ名前を入れ替えた可能性も高い。
天押帯日子命を祖とする和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる重要氏族である。その重要性は同じ近江国の息長、伊香連、野洲の安直氏を上回る可能性があるようだ。
近淡海国造(ちかつおうみ・の・くにのみやつこ)の実態はつまびらかではないが、武内宿禰子孫のひとつである淡海臣と同族であるとか、近江臣氏の出身であるとか諸説ある。国造家はともかく淡海臣氏や近江臣氏は志賀の漢人(しかのあやひと)と言われ渡来系で、中央の蘇我氏と密接な関係を持っていた。
参考文献 大橋信弥『継体天皇と即位の謎』吉川弘文館
和爾氏
氏族は大和国添上郡和爾(現、天理市和爾)より起こるが、同地には和爾坐赤坂比古神社(神名式、大社、月次、相嘗)があり、これが本来の祖神と考えられる。その本来の出自としては、海神族(海祇族)の祖神綿津見豊玉彦命の嫡統で阿曇連と同族であり(奴国王の後裔でその嫡流ではないかと推される)、「ワニ」は鰐(トーテム集団の象徴)を意味するものと考えている。これが、和邇氏が長期間にわたって多くの后妃を輩出し、天武十三年十一月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている主因の一つであろう。
ヒボコが近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長(おきなが)村と呼ばれ、息長一族の本拠であった。ヒボコの従者たちが住んだという鏡谷の近くの御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛冶の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は、息長水依比売(おきながみずよりひめ)であるから、息長氏とも関係があることは疑えない、
ヒボコは菟道河(うぢがは)=宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。
伊都国
近江国 近江蒲生 鏡山神社「天日槍命」滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町
越前国 敦賀 氣比神宮「伊奢沙別命」敦賀市曙町11-68
若狭国 若狭大飯 静志神社「天日槍命 今は少彦名命」福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
但馬国 但馬城崎 気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286
但馬国 但馬出石 出石神社伊豆志坐神社「出石八前大神、天日槍命」兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池