桜井茶臼山古墳 四世紀の大王墓

桜井茶臼山古墳は、奈良県桜井市にある前方後円墳。
所在地の地名を冠して「外山茶臼山古墳(とび)」とも。

奈良県桜井市外山
形状 前方後円墳
規模 墳丘長207m 高さ23m
築造年代 4世紀初頭
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺)
出土品 石製腕飾類・銅鏡片
史跡指定 国の史跡「桜井茶臼山古墳」
特記事項 全国第31位の規模

本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。
墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形を呈する柄鏡式古墳である。
箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。
この古墳の存在が知られるようになったのは、戦後しばらくたってからであり、雑木林に覆われて、単なる丘陵の観を呈していた。後円部の頂に高さ2メートル弱、一辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器(二重口縁壺形土器)が壇の裾周りに巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がない。段築面には葺石が施されている
また、陪墳群がみられない。

この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿が建てられた年代はいつなのか、詳細は不明である。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。

古事記中巻二安寧天皇
 師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。

後円部の頂上には、高さ2メートル弱と推定される一辺9.75×12.5メートルの貼り石のある矩形壇が知られており、その壇の裾周りに二重口縁の壺形土器が巡らされている。さらに、その下に長さ6.7メートルの長大な木棺を納めた竪穴式石室があり、既に盗掘を受けている。

石室は幅約1.2メートル、高さ約1.7メートルで、壁は幅30~40センチの板状の石を煉瓦のように積み重ねており、天井は12枚の巨石で塞がれている。石室全体には水銀朱(辰砂)が塗られており、埋葬者の権力の大きさを物語っていると考えられる

また、石室の周りには方状の柱の跡が検出されており、玉垣跡だと考えられている

副葬品

前期古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしていることである。

破片から復元すると斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡各1面、内行花文鏡3面、三角縁神獣鏡4種6面、計9種類で少なくとも13面の鏡が副葬されていた。
銅鏡の破片の中に「是」とみられる文字が書かれていたものがあり、三次元計測によって群馬県蟹沢古墳で出土した正始元年(240年。正始は魏の年号)の銘文を持つ三角縁神獣鏡と一致したと発表された。これを魏志倭人伝に記載されている、魏皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚のうちの一つであるとする説も出現した。
ヒスイの勾玉、ガラス製の管玉、小玉などの首飾り
鉄刀・鉄剣・銅鏃などの武器類
碧玉製の腕飾類、
玉杖(ぎょくじょう)

箸墓の二重口縁壺は形がそろっていて、いわゆる定形化された壺である。
定形化された壺は、桜井茶臼山古墳、古市場胎谷遺跡、葛本弁天塚古墳、東殿塚古墳などからも出土しており、「茶臼山型の壺」とも呼ばれている。

大和岩雄氏は酒列も甕をたくさん並べて酒を醸すことで、「甕輪(みかわ)」の意味だろうという。そして、祭具の土器が内容物に名を変える例の一つが、「甕輪」が「神酒(みわ)」になったことであるという。崇神記に「丸邇(わに)坂に忌瓮を据え」とあるように、甕は坂(境界)に据えられ、酒の入った甕を境界に並べ(酒列)、外から来る邪霊をふせぐ例がスサノヲノ八岐大蛇退治の物語ではないかとする

IMG_3083.JPG

 大和政権初期の大王(おおきみ)の墓の可能性がある奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長200メートル)で、後円部から複数の柱穴跡が見つかった。被葬者を安置した石室の真上部分で、約150本の丸太で囲まれていたとみられる。
 橿考研によると、古墳から木造構造物跡が出土したのは初めて。石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。
 同古墳は1949~50年に発掘調査されたが、竪穴式石室の構築法などの解明を目指し約60年ぶりに今年1~3月に再調査した。後円部中央にあった「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2メートル、南北11.7メートル、高さ約1メートル)の周囲98平方メートルを調べた。
 方形壇の周囲4カ所から幅約1メートルの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30センチ)が計10個あった。柱が埋め込まれた深さは1.3メートルで通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は、地上高2.6メートルの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。
 格式が高いとされる前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。

方形壇上は板石と白礫で化粧されていたらしいが、白礫は櫛山古墳や玉手山○号墳、巣山古墳などからも検出されていた

IMG_3086.JPG

大量の銅鏡 81面

種類 面数
三角縁神獣鏡 26面
内行花文鏡(国産) 10面
内行花文鏡(舶載) 9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡 5面
環状乳神獣鏡 4面
だ龍鏡 4面
細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面
単き鏡 1面
盤龍鏡

IMG_3088.JPG

多数の鏡を埋葬した古墳としては、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川町)の37面、黒塚古墳(奈良県天理市)の34面、さらには平原(ひらばる)1号(福岡県前原市)の40面などが知られている。だが、桜井茶臼山古墳に埋葬されていたとされる鏡の数量は圧倒的で、これまでの発見例を倍以上も上回る

古墳時代前期の銅鏡の出土例としては、椿井大塚山古墳の36面、奈良県広陵町の新山古墳の34面、黒塚古墳の34面、佐味田宝塚古墳の約30面、大和天神山古墳の23面、大阪羽曳野市の御旅山古墳の22面、紫金山古墳の12面、岡山県備前市の鶴山古墳の30面、備前車塚の13面、愛知県犬山市の東之宮古墳の11面などがある。
三角縁神獣鏡の破片の一つに、「是」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である

正始元年(240)の年号が記された鏡は、上記の蟹沢古墳の他に森尾古墳(兵庫県富岡市)と竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)からも出土しているが、邪馬台国の有力な候補地である奈良県では今まで見つかっていなかった。ちなみに、卑弥呼が使節を派遣した景初3年(239)の銘がある三角縁神獣鏡は、和泉黄金塚古墳(大阪市和泉市)や神原古墳(島根県雲南市)で見つかっている。

不思議なことに、実在するはずがない景初4年の銘が入った鏡も広峰15号墳(京都府福知山市)や持田古墳群(宮崎県高鍋町)で出土している。魏の二代目皇帝・明帝(曹叡)は景初3年(239)1月1日に崩御し、曹芳(そうほう)が皇位を嗣いだが、その年は景初3年の年号がそのまま用いられ、翌年(240)の1月に正始元年と改元された。したがって、景初4年という年号は存在しないのだが、なぜかこの年号の銘がある三角縁神獣鏡が我が国では見つかっている。

被葬者

少し離れた近鉄桜井駅の南側付近は阿部と呼ばれる地域であったり、安倍寺や安倍文殊院などアベに繋がる遺跡などが存在することから、アベ氏 ( 阿倍か安倍かわからん ) に関係する氏族の祖先が葬られていたのかも知れない。

IMG_3090.JPG

土師氏は、河内国志紀郡土師郷に本拠をおいた一族である。 この土師氏は氏寺として土師寺(=道明寺、後の道明寺天満宮)を建立している。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。南群の古墳群に関わった土師氏は丹比郡土師郷を本拠とした一族のようだ。

『新撰姓氏録』によると、
・宗形朝臣は大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也とあります
・宗形君は大国主命六世孫吾田片隅命之後也とあります
・賀茂朝臣大神朝臣同祖、大国主神之後也、大田田祢古命孫大賀茂都美命[一名大賀茂足尼。]奉斎賀茂神社也
賀茂氏も宗像氏も出雲族でし