七枝刀 銘文

『日本書紀』の「神功皇后」摂政52年(372年)条に、「秋9月10日、百済王の使い「久?」は「千熊長彦」と共にやって来て、七枝刀1口、七子鏡一面などを奉った。」という記事がある。これが「石上神宮」(いそのかみじんぐう)に現存する「七枝刀」である。

日本書紀』卷九 神功皇后 攝政五十二年(壬申 二五二)九月丙子《十》
五 十二年秋九月丁卯朔丙子。久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。及 種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水源。出自谷那鐵山。其邈七日行 …

七支刀は、中国で製造され神功皇后の時代に日本に渡った祭具であり、奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されていた。千年以上もその存在が忘れられていたが、明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した

日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀献上に関しては、日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる。「泰」は「太」と音通するため。

また、「泰始四年」として判読する説(管政友、宮崎市定)がある。この場合は、中国の年号として、西晋の「泰始4(268)年」または南宋の「泰始4(468)年」とされる。

ほか、変わった説としては、「泰和」を百済独自の年号とする判読法もある。1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした[5]。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない。

七枝刀は奈良県天理市石上神宮に保存されていた。明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。その銘文は、

泰和四年による解釈

浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された。

〔表面〕泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
〔裏面〕先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世

浜田耕策氏による解釈では
〔表面〕
泰和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。
〔裏面〕
先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

 ここでいう、泰和四年とは369年であり、年代的にも合致している

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那加比跪(ちくまなながひこ)と沙至比跪(さちひこ)
百済記に登場する倭国人である。

日本書紀は職麻那那加比跪を千熊長彦ではないかとする。武蔵国出身で額田部槻本首の祖先らしい。
千熊長彦は華々しい活躍をしている。倭国から朝鮮半島にわたり新羅を攻撃し七国四邑を平定し、百済肖古王と辟支山の上で同盟を結んでいる。

職麻那那加比跪=千熊長彦は
倭国と百済の親密な関係を作った英雄である。
将軍として登場するが、肖古王と同盟を結んでいる姿は倭国王のようでもある。

至比跪は葛城襲津彦と同一人物として扱われているが、、、
沙至比跪は百済記では朝貢を怠った戒めで新羅国を攻撃に向うが、港で新羅の美女に出迎えを受けて惑わされて、攻撃先を加羅に変えてしまう。
そのことに関して天皇の怒りが消えないのを知って自害してしまう。
ところが葛城襲津彦としては応神十四年にも登場し、ここでも新羅に妨害されて来朝できない弓月君の一団を迎えに派遣されるが、3年経っても戻ってこない無能な使者の役回りで描かれている。

沙至比跪は職麻那那加比跪が英雄として描かれているのとは異なり、
役に立たない裏切り者として登場している。

九州王朝説から
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga25.html

 古田武彦氏は『失われた九州王朝』において、邪馬壹国の卑弥呼壱與と倭の五王(讃・珍・済・興・武)との間に在位した九州王朝の王の一人として、石上神社(奈良県天理市)に伝わる七支刀銘文中に見える「倭王旨」を指摘された(旨は中国風一字名称)。七支刀の銘文によれば、この刀は泰和四年(東晋の年号、西暦三六九年)に造られ、百済王から倭王旨に贈られたものだ。そうすると、先に報告した玉垂命(初代)が水沼に都を置いた年(仁徳五七年・西暦三六九年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は初代玉垂命と同一人物ということになるのだ。従って百済は九州王朝の遷都(恐らく博多湾岸から水沼へ)を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか。高良玉垂命と七支刀の関係については古田氏が既に示唆されていたところでもある(『古代史六〇の証言』)。
 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている(この伝承については別に論じる予定)。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。そういう戦時下において、九州王朝は都を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百練鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。
 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六~四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。

 「こうやの宮」(福岡県瀬高町長島)にある人物像五体は、古田先生の著書「古代史60の証言−金印から吉野ヶ里まで−」(駸々堂、1991.2刊)にきれいなカラー写真で載せられています。百済よりの使者は、手に七つの刃のある刀を持っています。

日本書紀(神功紀五十二年条)に

秋九月の…に、久氐クテイら、千熊長彦に従ひて詣り。すなわち七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡一面、および種々の重宝を献る。すなわち(百済肖古王の)孫枕流トムル王(在位384−385年)に謂ひて曰く、「いま我が通う所の海の東の貴国は、これ天の啓きたまふ所なり。ここを以って天恩を垂れて、海の西を割きて我に賜へり。これに由(よ)りて、国の基(もとひ)、永(とこしへ)に固し。(後略)>

「七枝刀」は、今天理市の石上神社にある「七支刀」であることは誰も異存はないようです。なぜ大和にあるのか…については、662年の倭(筑紫)国が唐・新羅連合軍と激突した「白村江の戦い」に敗れ衰退してゆく中で、筑紫から大和へ奪われたもの…と考えられています。

七支刀の表裏には金象嵌の文字
古田氏は次のように読まれました。

表:泰和(たいわ)四年(東晋の年号で、369年)五月…、百錬鋼の七支刀を作る。生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く。候王(東晋の冊封(さくほう)下で百済王と対等の倭王)の供供するによろしい。□□作る。
裏:先世以来未だ有らざらしこの刀は、百済(肖古)王と世子(太子貴須)が、生を聖晋(東晋)に寄せたるが故に、倭王旨(し)のために造れり。後世に伝示せよ。

高良に都した玉垂命とは、この刀を贈られた人、中国風名乗りで倭王「(倭)旨」といったようです。大和にはこのように名乗った例も習慣もなかったようですから、やはり「(倭)旨}は筑紫王朝の王。