高句麗の平壌は、現在の平壌ではない

高句麗の平壌は今の北朝鮮の平壌ではない:245年頃
高句麗は、平壌に遷都

wikiによれば、
高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。
好太王碑文もあるので、400年ごろも記述すると以下の通り。
391年に即位した19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。
4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402年、新羅もまた倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405年、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。
5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。

新東亜2013年2月号によれば

「契丹の歴史書”遼史”の驚くべき証言」という副題のこの記事の要点は次の通りです。

  1. “三国史記”の記述を根拠に、韓国の国史学界では長寿王の時、高句麗が北朝鮮平壌に遷都したとみている。
  2. しかし”遼史”地理志には、高句麗は広開土大王の時に平壌とよばれた本来の首都遼陽に再遷都したと記されている。
  3. また、高句麗を倒した唐が高句麗の首都平壌に安東都護府を置いたことは”三国史記”等にも書かれているが、”遼史”地理志によるとその安東都護府は遼陽にあったと記されている。つまり、唐に滅ぼされた時の高句麗の首都平壌は、現在の北朝鮮の平壌ではなく、中国遼寧省の遼陽である。
  4. 高句麗の平壌を北朝鮮の平壌とするのは韓民族が韓半島だけで住んでいたという「典型的な半島史観」である。それは小中華を自任した朝鮮時代に起こったもので、”三国史記”にもそれが反映されている。
  5. その延長線上で、朝鮮後期の実学者たちが高句麗と渤海史をさらに縮小し、その後日帝はこれを積極的に広めて植民史観を作った。大韓民国はそんな過去の圧迫から逃れられず、大陸史観を回復できずにいる。いまだに”遼史”のような隣接国の史料の記述よりも小さい領域を描いているのは、謙遜ではなく、愚かさに近い。これでは中国は”やった!”とばかりに東北工程を推進するだけだ。中国は万里の長城から東に、どんどんと拡張してきている。

上記の「新東亜」の記事はこの高句麗の首都は遼陽だったという主張である。

『遼史』(りょうし)は、中国の正史・二十四史(清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書)の一つで、遼の歴史書である。116巻。元の宰相であった脱脱が総裁となって、史料を集めて1344年に完成した。清代の歴史学者趙翼の『二十二史剳記』では「遼・金二史又缺略多し」と書かれているが、遼の歴史を知る上では根本史料である。

楽浪郡は遼東にあった をご参考まで。

以下に引用します。

「楽浪郡遼東説」は暁美焔さんが提唱した説ですか?

「楽浪郡遼東説」とは平壌説が定説化される前は一般的に主張されていた説で、佃收氏も「倭人のルーツと渤海沿岸」において主張しました。 山形明郷氏、ましてや私などが始めた説ではありません。 現在でもボク・キデ教授や安達弘志氏などが主張しています。 「虚構の楽浪郡平壌説」ではまず、中国古代史書での楽浪郡と帯方郡の記述を紹介する事により、遼東説が充分に根拠が有る仮説である事を説明しています。 次に楽浪郡が一時的に朝鮮半島を支配した可能性を示すと共に、最近の考古学調査結果を紹介し、考古学的確証が楽浪郡平壌説を立証するための絶対的な確証とは成り得ない事を説明しています。 そして、山形氏の死後発見された知見や、彼に欠落した観点を加えながら、一般には難しい山形氏の遼東説をできるだけ分かり易く紹介しています。 

とあります。

歴史学者達は「313年に高句麗によって朝鮮半島の楽浪郡が滅亡した」と教えていますが、最初から遼西にあった「楽浪郡」は滅亡などしていない可能性があります。 永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の各地の刺史達は独立の道を選ぶか、或いはそれぞれの地方の有力者に支援を要請しました。 即ち、西晋崩壊の際に遼東郡と楽浪郡は高句麗からの圧力を前にして自ら独立国家を建国する道を良しとせず、 その地方の有力者である鮮卑慕容部への帰順を表明しただけなのかもしれません。 世界史で教えられている「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史は、一体何が根拠なのでしょうか。 遼東郡、玄菟郡なども支配者が変わっただけで高句麗の故国壌王の時代まで存続しています。

ちなみに北魏の太武帝が遼西地域の肥如において「朝鮮県」を再び置いたのは、高句麗が平壌城に遷都した五年後の432年の事です。
さらに北魏は正光年間(520-525)に営州において「楽良郡」を置き、そこには「帯方県」まで含まれていた。

魏書に
魏書:樂良郡前漢武帝置,二漢、晉曰樂浪,後改,罷。正光末復…(中略)…永洛正光末置。有鳥山。帶方

魏書の説明では、北魏が置いた「楽良郡」は前漢の武帝が置いた楽浪郡とあまり変わらない場所に置いたように考えるのが正しいのではないか。

年表

司馬炎(武帝)は265年に晋の初代皇帝に即位した後、280年に呉を滅ぼして天下を統一。290年(太熙元年)4月に晋の初代皇帝である武帝の死後、武帝の意思の通り、皇太子であった恵帝が即位する。恵帝は暗愚であったため、政治は楊駿ら武帝の皇后楊氏の一族が牛耳ることになる。恵帝の皇后である賈氏(賈南風)は不満を抱き、楊氏を朝廷から追放し、自らが実権を握るべく画策をはじめる。

八王の乱が311年まで続く。

前燕(337年 – 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。高句麗は「前燕」に服属。

313年10月に楽浪郡が高句麗によって滅ぼされる。314年には帯方郡、315年には玄菟郡も次々に高句麗の手に落ちていきした。

 遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落され、臣従した。355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている

「前燕」は370年になると更に強大な「前秦」に滅ぼされます「前秦」は東晋を滅ぼして中国の統一を目指します。

 「前秦」が370年に淝水の戦いにおいて東晋に敗れると、華北は再び騒乱状態となり、遼東には「後燕」が建国されます。 

その後、後燕に勝利して遼東を支配したのが高句麗の広開土王です。 

中国が北方民族の活躍によって南北朝に分裂している間、北朝は遼河を越えて高句麗に侵攻する余裕がありませんでした。 そのため遼東は隋唐の統一王朝の時代が来るまで高句麗によって支配されました。 

4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402年、新羅もまた倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。

404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405年、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。

長寿王、414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))に首都の国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)に父の事績を記した碑文を建造した。これが好太王碑であり、明治時代に日本軍によって拓本が持ち帰られて解読されるに至ったものである。427年に首都を国内城から平壌に移し、新羅や百済、さらに百済を援軍として助ける日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大した。