翰苑 倭國

『翰苑』 は唐の時代の 張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。 

「類書」とは、多くの書物の中からその内容を分類収録した、いわば百科事典のようなもの。 『翰苑』 は中国にも現存せず、9世紀ころ平安初期の書写とみられる 蕃夷部 のみが、わが国の大宰府天満宮に伝存しています。
世界中のどこにも他に写本が存在せず、「天下の孤書」 と称されています。 大宰府天満宮といえば菅原道真がすぐに連想されますが、この 『翰苑』 も元はその菅原家に伝わり、のちに大宰府天満宮に移されたものと考えられています。

 この史書は「唐」の「顕慶五年」(六六〇年)頃に書かれたとされますが、その中に「邪届伊都、傍連斯馬 /中元之際、紫綬之榮 /景初之辰、恭文錦之獻」という文章があります。
 つまり「倭国」の主たる国であり、「都」がある「馬臺」は、「伊都国」とは「真北」や「真西」ではないななめの位置関係にあり、同時に「直接」隣り合っているというわけです。さらに、「直接」は接していない位置関係で、「伊都国」を隔てた向こう側には「斯馬国」があるという。

「隋書倭国伝」の中に行路記事
「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」

 注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」に対する対語であり、「従属国」であることを示します。また「隋書」内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることがわかります。
 すでに見たようにこの「裴世清」が派遣された年次は「隋書」や「書紀」に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったと考えられ、その段階では、「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。
「倭京」と改元した時点で「九州」という自称を「九州島」内部について適用し始めますが、それはそもそも「附庸国」とされていた「筑紫」「豊」(秦王国)がこの時点で「倭国」の本国として昇格した事を記念しているのではないでしょうか。

翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國

倭國

憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

倭國

山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。

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倭国

 憑山負海、鎮馬[冠去脚冖至](臺)以建都。
【後漢書曰:「倭在朝〔闕字「鮮」〕東南大海中、依山島居、凡百餘國、自武帝滅朝鮮、使譯通漢於(於漢)者州(三十)餘國、稱王、其大倭王治邦(邪)[冠去脚冖至](臺)、樂浪郡徼去其國万二千里、甚(其)地大較在會稽東、与珠雀(崖)、・tan[偏人旁右澹]耳相近。」
 魏志曰:「倭人在帯方東南、炙(参)問[イ妾](倭)地、絶在海中、洲島之山(上)、或絶或連、周旋可五千餘里、四面倶[??]海、自營州東南、経新羅、至其國也。」】

分[扁身旁右職]命官、統女王而列部。

【魏略曰:「從帯方至倭、循海岸水行、暦(歴)韓國到拘耶韓國七十(千)餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布(市)糴。南渡海至一支國、置官至(同)對〔闕「馬」〕。地方三百里。又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東(百)里、到伊都國。戸万餘。置〔闕「官」〕曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。皆統屬王女(女王)也。」】

卑彌娥惑翻叶群情、[冠去脚冖至](臺)與幼齒、方諧衆望、

【後漢書曰:「安帝永初元年、有倭面上國王師升至。桓、遷(靈)之間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女[冠去脚冖至](臺)與、年十三爲王、國中遂定。其國官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲、次曰奴佳[革是]之也。」】

文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。

【魏略曰:「女王之南、又有狗奴國、女(以)男子爲王、其官曰拘右(古)智卑狗、不屬女王也。自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘里。其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後、昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」】

阿輩[奚隹]弥、自表天兒之稱。

【宋(?)死弟〔闕「立」? 〕。宋書曰:「永初中、倭國有王、曰讚、至元嘉中、讚死弟珎立、自稱使時(持)節都督安東大將軍倭国王。順帝時、遣使上表云、自昔禰、東征毛人五十五國、西服衆夷六〔闕「十六」〕。渡平海北九十五國。」今案、其王姓阿毎、國号爲阿輩[奚隹]〔闕「彌」〕。華言天兒也。父子相傳王、有宮女六七百人。王長子号《加朱書「和」》哥彌多弗利。華言太子。】

因禮義而標[ネ失]、即智信以命官。

【括地志曰:「倭國、其官有十二等。一曰麻卑兜吉寐、華言大徳。二曰小徳。三曰大仁。四曰小仁。五曰六義。六曰小義。七曰大礼。八曰小礼。九曰大智。十曰小智。十一曰大信。十二曰小信。」】

邪届伊都、傍連斯馬。

【廣志曰:「[イ妾](倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉(臺)國、百(自)女〔闕「王」〕国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安(案)[イ妾](倭)西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖(蓋)伊耶國也。】

中元之際、紫綬之榮。

【漢書地〔闕「理」〕志曰:「夫餘樂浪海中、有[イ妾](倭)人、分爲百餘國、以歳時獻見。」、後漢書:「光武中元年二(二年)、倭國奉貢朝賀、使人自稱大夫、光武賜以印綬、安帝〔闕「永」〕初元年、[イ妾](倭)王師升等獻主(生)口百六十。」】

景初之辰、恭文錦之獻。

【槐(魏)志曰:「景初三年、[イ妾](倭)女王遣大夫難升未利等、獻男生口四人・女生〔闕「口」〕六人・[王王](斑)布二疋二尺、詔以爲新(親)魏倭王、假金印紫綬、正始四年、倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人、上獻生口也。】