夫余伝

秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。

霊帝の熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 – 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。
正始年間(240年 – 249年)、幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討伐し、玄菟太守の王頎を夫余に遣わした。大使の位居は大加(たいか:官名)を遣わして王頎らを郊外で出迎えさせるとともに、軍糧を供えた。時に、季父(おじ)の牛加に二心があったため、位居は季父父子を殺して財産を没収して帳簿に記録し、使者を派遣してその帳簿を官に送った。麻余が死ぬと、まだ6歳である子の依慮が立って王になった。

『三国志』及び『晋書』に夫余の中枢とみられる濊城の記載があるが、吉林省の東団山一帯から周囲2kmの濊城とみられる城が発掘されている。

285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建する。

『桓壇古記』 偽書1911年印刷
「正州の依羅国は都する所を鮮卑慕容廆の為に敗られる所となり、憂迫り自ら裁つことを欲す。(中略)密に子の扶羅に囑(たく)す。白狼山を踰え、夜海口を渡る。従う者数千人。遂に渡り、倭人を定めて王と為る。(中略)或は云う、依慮王は鮮卑の為に敗られる所となり逃げて海に入る。而して還えらず。子弟は走り北沃沮を保つ。明年、子の依羅は衆数千を率いて海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
『桓檀古記』大震国本紀
鮮卑慕容廆に伐たれてその子の「扶羅、または依羅」が「数千を率いて海を越え、遂に倭人を定めて王と為る」
桓檀古記は、朝鮮半島の偽書。超古代からの朝鮮半島の歴史を太白教の桂延壽が編集したものを李沂が1911年(檀君紀元5808年、光武15年)5月に印刷したとされる。

武帝(在位:265年 – 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命して「東夫余」を建国した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、今の遼寧省開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州,冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。

『晋書』馬韓伝
太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。
 太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。

 これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。
 そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。

『通典』百済条
晋の時代(265年-316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。

東晋時代
東晋の永和2年(346年)正月、夫余王の玄は前燕の慕容皝に襲撃されたが西晋はすでに滅んで夫余を後援する力なく、王と部落5万人余りが捕虜として連行され、夫余王の玄は燕王の娘を娶った。これ以後、弱体化した夫余は前燕の属国となることでかろうじて滅亡をまぬがれる有様だった。

滅亡
東夫余
『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐し、東夫余の5集団が来降したことが記されている。435年の段階では東夫余はすでに高句麗に併合され消滅していたが、410年から435年までのどの段階で滅ぼされたのかなど詳しい歴史は不明である

北夫余
夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅ぼされた。

夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量の鉄製農具が見つかるなど、農業技術や器具は同時代の東夷の中で最も発達していた。また、金銀を豊富に産出する土地であり、金属を糸状に加工して飾り付けた物など、金銀の加工に関しては非常に高い水準だったとされる。紡績に関しても養蚕が営まれ絹や繍・綵など様々な種類の絹織物が作られたほか、麻織物や毛織物が作られ東夷の中で最も発達していたとされる。
また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出し、珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。『魏略』には、国は賑わい富んでいるとあり、その頃が最盛期だったとみられる。

『渤海国・国書』
「渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。」
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。

『三国志魏書』
 夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。戸八萬、其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人麤大、性彊勇謹厚、不寇鈔。
 扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に挹婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。土着民の戸数八万、宮室、倉庫、牢獄などがある。丘陵や大河が多く、東夷の領域では最も平坦である。土地は五穀の栽培に適しているが、果実はできない。体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない。

 國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民、名下戸皆為奴僕。諸加別主四出、道大者主數千家、小者數百家。
 国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。邑落には豪民がおり、下戸という奴僕がいる。諸加(馬加など)は主要四道(一種の道州制)に別け、道における大邑落の首長は数千家、下位の小邑落の首長は数百家を支配する。

 食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天、國中大會、連日飲食歌舞、名曰迎鼓、於是時斷刑獄、解囚徒。在國衣尚白、白布大袂、袍、袴、履革鞜。出國則尚繒繍錦罽、大人加狐狸、狖白、黑貂之裘、以金銀飾帽。
 飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗爵(返杯)をし、その立居振舞(たちいふるまい)は礼に適う。殷暦の正月には天を祭り、国中が大いに会し、連日、飲食と歌舞に興じる。名を迎鼓といい、この時は法の執行を断ち、囚徒を解く。国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、狖白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。

 譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家人為奴婢。竊盜一責十二。男女淫、婦人妒、皆殺之。尤憎妒、已殺、尸之國南山上、至腐爛。女家欲得、輸牛馬乃與之。兄死妻嫂、與匈奴同俗。
 訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き、手を地に着け、小声で応答する。刑は厳しく即断され、殺人は死、その家人を没収して奴婢にする。盗んだ金品の十二倍を賠償する。男女の淫行、婦人の嫉妬は、皆これを殺す。最も憎むべき嫉妬の罰は、すでに殺した屍を、国の南の山上に放棄して腐乱に至らしめる。女の実家が遺体を回収したければ、牛馬を献納すれば、遺骸を引き取れる。兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。

 其國善養牲、出名馬、赤玉、貂狖、美珠。珠大者如酸棗。以弓矢刀矛為兵、家家自有鎧仗。國之耆老自説古之亡人。作城柵皆員、有似牢獄。行道晝夜無老幼皆歌、通日聲不絶。有軍事亦祭天、殺牛觀蹄以占吉凶、蹄解者為凶、合者為吉。有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數。厚葬、有槨無棺①。
 その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の毛皮、美しい淡水真珠を産出する。真珠の大きいのは棗(なつめ)ほどもある。弓矢刀矛を武器とし、家々に鎧と武具を備えている。国の古老は昔の亡命者だと自称する。城柵で周りを囲った牢獄のようなものがある。歩行するときは昼夜の別なく老人子供が皆、歌を歌うので一日中、声が絶えない。軍事や祭祀の際には、牛を殺して蹄(ひづめ)を観て、吉凶を占い、蹄が割れていれば凶、合わさっていれば吉とする。敵が現れれば、諸加は自ら戦い、下戸は兵糧や食事を提供する。諸加が死ねば、夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(かく=木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない。

 注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有熟。喪主不欲速而他人彊之、常諍引以此為節。其居喪、男女皆純白、婦人著布面衣、去環珮、大體與中國相彷彿也。
 魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期間が永いほど栄誉とする。そこの葬祭は老若を問わない。喪主は速い葬儀を望まず、他人にこれを強い、常に諌められて終えることを節度とする。その喪に居合わせる男女は皆、純白、婦人は顔を覆う布のベールを着て、ベルト状の宝石飾りを外す。大体中国に相通じるものがある。

 夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻余。位居死、諸加共立麻余。牛加兄子名位居、為大使、輕財善施、國人附之、歳歳遣使詣京都貢獻。
 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。
 尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻余がいた。位居が死に、諸加(重臣たち)は麻余を共立した。牛加の兄子で位居という者が大使となし、財政を改善し善政をしたので、国人はこれを副官とし、毎年、遣使として京都(洛陽)に貢献させた。

 正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘、位居遣大加郊迎、供軍糧。季父牛加有二心、位居殺季父父子、籍沒財物、遣使簿斂送官。舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺。
 正始年間(240-249年)、幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に派遣。位居は大加を郊外に派遣して、軍糧を提供して王頎を歓迎した。牛加の季父に二心あり、位居は季父父子を誅殺して財物を没収し、徴収簿を官に送った。
 古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任に帰すとされ、易が当たるか、あるいは殺(死罪)に当たるかと言われる。

 麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。公孫淵伏誅、玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、瓚數代之物、傳世以為寶、耆老言先代之所賜也①。其印文言「濊王之印」、國有故城名濊城、蓋本濊貊之地、而夫餘王其中、自謂「亡人」、抑有(似)〔以〕也②。
 麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(箱)を常に玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である

 ① 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。
 ② 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙嘘之、徙至馬閑、馬以氣嘘之、不死。王疑以為天子也、乃令其母收畜之、名曰東明、常令牧馬。東明善射、王恐奪其國也、欲殺之。東明走、南至施掩水、以弓撃水、魚鱉浮為橋、東明得度、魚鱉乃解散、追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。(訳文は、三国神話の扶余を参照されたい)

『後漢書』
 建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光武厚荅報之、於是使命歳通。至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。永寧元年、乃遣嗣子尉仇台(印)〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬金綵。
 建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。
 建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきたので、光武帝は、これに手厚く応えて報い、ここに毎年の通貢を命じた。
 安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。後に再び漢に帰服した
 永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣して王宮に詣でて貢献する。天子は尉仇台に金印を賜る。

 順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟、玄菟太守公孫域撃破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。
 順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に鼓吹で出迎えさせ、角抵戲(相撲)を催してこれを歓待した。
 桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て貢献に来朝する、
 永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。玄菟太守の公孫域は、これを撃破、斬首千余級を挙げた。
 霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔、玄菟郡に属していたが、献帝の時代、その王が遼東に属することを求めた、云々。

『晋書』
 夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、戸八萬、有城邑宮室、地宜五穀。其人強勇、會同揖讓之儀有似中國。其出使、乃衣錦罽、以金銀飾腰。其法、殺人者死、沒入其家;盜者一責十二;男女淫、婦人妒、皆殺之。若有軍事、殺牛祭天、以其蹄占吉凶、蹄解者為凶、合者為吉。死者以生人殉葬、有槨無棺。其居喪、男女皆衣純白、婦人著布面衣、去玉佩。出善馬及貂豽、美珠、珠大如酸棗。其國殷富、自先世以來、未嘗被破。其王印文稱「穢王之印」。國中有古穢城、本穢貊之城也。
 扶余国は玄菟の北に千余里、南に鮮卑に接し、北に弱水があり、地積二千里、戸数八万、城邑、宮室があり、土地は五穀の栽培に適している。
 その国人は強勇、一同に会するときの振舞いの礼儀は中国に似ている。外出するときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を用いて、金銀の飾りを腰に巻く。その法では、殺人は死罪、その家族を没収する。盜みは十二倍の弁償;男女の淫行、婦人の嫉妬は、皆、これを殺す。
 若し軍事があれば、牛を殺して天を祭り、その蹄(ひづめ)を観て、吉凶を占い、蹄が割れていれば凶、合わさっていれば吉とする。死者は生きた人を以て殉葬する。槨はあるが棺はない。その葬儀では、男女は皆、純白の衣をつけ、婦人は布で顔を覆う衣を着て、ベルト状の宝石飾りを外す。
 出善い馬を産出、貂豹(テン、ヒョウ)の毛皮、美しい真珠、真珠の大きいのは酸棗(なつめ)ほどもある。その国は豊かで、先祖以来、未まだかつて破られたことがない。その王印の文称は「穢王之印」。国の中に昔の穢城があり、元の穢貊の城である。

 武帝時、頻來朝貢、至太康六年、為慕容廆所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝為下詔曰:「夫餘王世守忠孝、為惡虜所滅、甚愍念之。若其遺類足以復國者、當為之方計、使得存立。」有司奏護東夷校尉鮮于嬰不救夫餘、失於機略。詔免嬰、以何龕代之。明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕上列、遣督郵賈沈以兵送之。廆又要之於路、沈與戰、大敗之、廆衆退、羅得復國。爾後毎為廆掠其種人、賣於中國。帝愍之、又發詔以官物贖還、下司、冀二州、禁市夫餘之口。
 武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。
 皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ」と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、機略の好機を失したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。
 翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容廆は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容廆は毎度のように扶余人を拉致しては中國で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。