魏志倭人伝、伊支馬

魏志倭人伝によると,邪馬台国は,女王の都する所で,官に伊支馬(いきま),弥馬升(みましよう),弥馬獲支(みまかくき),奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり,7万余戸の人口があったという。

邪馬台 伊支馬 は、生目いくめ か?
弥馬升 弥馬獲支みまかき 奴佳鞮なかて 御間城か?
奴佳鞮は、額田か?

魏志倭人伝から、倭国の遣魏使の記述を抜き出してみます。
1・景初二年(238年)難升米、都市牛利、等
2・正始四年(243年)伊声耆、掖邪狗、等計8人)
3・正始八年(247年)載斯烏越(載斯と烏越か)
4・正始八年?(247年?)掖邪狗、等20人

国名
「三国志・魏志倭人伝」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「邪摩惟」

○南至邪馬壹国、女王之所都。(『魏志』倭人伝)
○其大倭王居邪馬臺国。【案今名邪摩惟音之訛也。】(『後漢書』倭伝)
○都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝)
○居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)
  『魏志』の邪馬壹国に対し、『後漢書』は邪馬臺国と書く。『隋書』『北史』は邪靡堆・邪摩堆とするが、それは『魏志』でいうところの邪馬臺だという。この部分をもって多くの人は『魏志』の邪馬壹国は邪馬臺国の間違いだとする。

伊支馬神社は見当たらないが、

生目神社 (いきめじんじゃ)
宮崎県 宮崎市 大字生目 亀井山
御祭神
(主祭神)品陀和気命・藤原景清公
(御相殿)彦火瓊瓊杵尊・彦火々出見尊・鵜茅葦不合尊

1説には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を奉斎した社であると。
蓋(けだ)し、御子 景行天皇 熊襲征伐の途、御父君垂仁天皇の御命日に偶々之の地にて神霊祭を御営(いとな)みになられたのを住民等歓迎し聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称(とな)え奉ったと。

崇神天皇

別名:御間城入彦、御真木入日子(みまきいりひこ)

活目(活馬・生馬とも書くが、平群郡生駒のこと)の地名が「生馬郷、式内社生馬神社」として出雲国島根郡にあり(現松江市生馬)、『出雲国風土記』の生馬郷条にその先祖らしき者(八尋鉾〔美称か〕の長依日子)が見えますから、物部氏とともに出雲から到来した部族(物部同族か)という位置づけになるようです。

『書紀』一書に見える活目津彦根命(活津彦根命ともいうが、実体は天津彦根命

式内社・生馬神社
神魂尊の御子・八尋鉾長依日子命を祀る神社。

出雲国風土記に、「生馬社」が2つ。一つは東生馬にあり、もう一つは西生馬。当社は東生馬の生馬社にあたる。

西生馬の社は、一般には式内論社とはなっていないが、当社の元宮が、北の谷であり、里へ移ったと考えると、西生馬も同じ場所から派生した後継神社の可能性があると思う。

明治43年の内藤虎次郎氏の「卑弥呼孝」によれば、難升米は垂仁朝に常世の国へ派遣された田道間守(たじまもり)とされていますし、都市牛利を出雲の都我利神社の都我利ではないかともしています。

この2人の後、魏へ向かった倭人は、具体的な名前が僅か数人だけしか登場してませんでした。

伊声耆、掖邪狗、載斯烏越の3人です。内藤氏によれば、伊声耆、掖邪狗共に出雲国造の祖、伊佐我命と比定されているし、「上代日支交通史の研究」(藤田元春著、昭和18年)によれば、伊蘇志とされ、また内藤虎次郎氏は、載斯烏越の載斯は須佐之男の須佐であり、藤田氏は倭載斯(イヅシ出石・イソシ伊蘇志)烏越(ホエ大兄)としています(いずれも中国正史日本伝・内藤道博編訳より)。ほか、都市牛利は田道間守であるとの説もあるようです。載斯烏越は載斯と烏越で2人の人物なのかもしれません(その場合4人)。

筑紫の伊都県主の五十迹手(いとで)

岡県主熊鰐と同様に神器を賢木に掛けながら、天皇の一行を穴門の引島にて船でお迎えし、一行は橿日宮に到達します。その際、三種の神器が上下に並ぶ順番は岡県主熊鰐のものとは異なり、上枝には八尺瓊、中枝には白銅鏡、下枝には十握剣が五百枝の賢木に掛けられ、これらが献上されたのです。そして伊都県主は、『天皇が八尺瓊の美しく曲がっている如くに、委曲を尽くして天下をお治めくださるよう、この白銅鏡の如くに、明らかに山川や海原をご覧くださるよう、この十握剣を引き提げて、天下を平定してくださるように』と語り、その言葉を聞いて喜んだ天皇は、『伊蘇志』と仰せられて、五十迹手の国を「伊蘇国」と呼びました。それが、伊都国の語源であると日本書紀には明記されています。

三種の神器をもって天皇をお出迎えするという話は、他にも記述があります。景行天皇の時代でも同様に、一国の首領であった神夏磯姫は、天皇の使者が来られたことを聞いて三種の神器をもってお出迎えをしています。

神夏磯姫は賢木の枝に八握剣、八咫鏡、八尺瓊という、「ヤ」の発音で始まる名前のついた三種の神器を掛け、白旗を船首に立てて、天皇に懇願したと書かれています。剣と鏡、そして八尺瓊と呼ばれた勾玉の「三種の神器」をもって天皇をお出迎えする儀礼が古代に存在したということは、単に天皇に服属する意思を表明しただけでなく、神として迎えることを意味したと考えられます。

 魏志韓伝には、韓は「東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。」、弁辰伝には「その瀆盧国は倭と界を接す。」ですから、韓の南に海はなく、倭だと認識されていたことになります。  

山海経海内北経は「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記します。葢国がどこかというと、高句麗西方に葢馬大山という地名が現れますから(魏志東沃沮伝)、そのあたりに存在した国だろうとされています。

どうも、高句麗成立(前漢末期)以前、その南方(朝鮮半島北部)に倭が存在したらしい。三国史記、高句麗本紀にも倭山という地名が現れます。

魏志倭人伝の倭国は海峡国家で狗邪韓国は倭地だと書かれています。
狗邪韓国は魏志韓伝に見られる弁辰狗邪国で、弁辰(弁韓)に属します。狗邪(コーヤ)というのが国の名前で、他は所属を表す形容です。

古田説の批判

魏志倭人伝の「古より以来、その使、中国に詣ずるは、皆、大夫を自称す」の「古」は「倭人は鬯草を貢ぐ」の周代のことを指すとし、三国志の中から「古」の例を探し出し、周以前のことだと証明を装っていますが、夫餘伝に「古之亡人」、韓伝に「古之辰国」とあり、どちらも漢代の出来事を「古」と表現しています。自らに都合の良いデータしか提供しないようです。

 夫餘は「濊王之印」を授けられており、元々は朝鮮半島中東部の濊と同一国だったことがわかります。それが遙か北方に移動している。戦国時代は中国そのものがバラバラでしたし、秦も遼東に長城を築いて防御しており、周辺諸民族を冊封体制に組み入れた形跡はありません。したがって「濊王之印」が与えられたのは漢初期で、七代目の武帝の東方進出により、濊が分裂し、北方に逃れたもの(亡人)が夫餘になったと推定できるのです。この時、朝鮮半島中部には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれ、漢の所領となっています。
 辰国は漢書、西南夷両粤朝鮮伝に見られ、その建国は韓建国(B.C195)より後になります。辰韓が古の辰国で、楽浪から韓に逃れ、韓が東方の土地を割き与えたと言い伝えているのですから(魏志韓伝)。
 「古」は、別に太古とは限らない。したがって、倭人伝の「古より以来」は、後漢に朝貢した奴国以降を指します。「倭人は鬯草を貢ぐ」のどこに大夫の文字が見られるのか?

 隋書俀国伝に「夷人は里数を知らず、ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」とあり、 “東西が南北より二ヶ月も長い横長”ですから、縦長の九州ではありません。
本州を島と扱っていることを指摘しておきます(これも、あくまで当時の日本人、中国人のイメージで、明確な地形を知っているわけではない。隋代には方向は正しく東と認識されています)。