魏志倭人伝、彌彌、彌彌那利

なぜ神武天皇の子供たちの名前に耳が付くか?
5人共にミミが付く。
手研耳命、岐須美美命、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(綏靖天皇)

耳は、頭領の意味であり、珥(じ=みみかざり)を付ける人であろう。

魏志倭人伝に記された投馬国の豪族の首長の名は彌彌(ミミ)である。また、副は彌彌那利である。

魏志倭人伝 南至投馬国、水行20日、官曰彌彌、副曰彌彌那利(ミミナリ)

投馬国の比定地は、邪馬台国九州説では日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)説、薩摩国説、五島列島説、等がある。瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説等があり、日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国等にあてる説がある。

神武天皇の出発地の日向国都萬が投馬国の可能性が高い。

景行12年紀 唯有残賊者 一曰鼻垂・・・二曰耳垂

肥前風土記 第一嶋名小近 土蜘蛛 大耳居之 第二嶋大近 土蜘蛛 垂耳居之

蝦夷の族長に、鼻垂、耳垂がいる。賊なので蔑称であろうと言う人もいるが鼻飾り、耳飾りでしょう。

魏志倭人伝と景行紀を比べてみると、ミミナリ対ミミタリ、が似た音である。また、字典には「那」の中古音にカッコ付きながら (nda) があるとしている(学研、漢和大字典)

「魏志倭人伝と肥前風土記」を比べてみると、「彌彌那利と垂耳」(ミミナリ対タリミミ)に語順は逆だが、対応が見られる。
「彌彌と大耳」と「彌彌那利と垂耳」は「ボス・副官」のペアとしてみても良く対応している。

景行天皇記の耳垂

『日本書紀』の「景行紀」12年の条に、熊襲が叛したので、7月景行天皇が筑紫に幸し、九月に豊国宇佐(大分県宇佐郡宇佐町)の菟狭川上に鼻垂という巨賊が集結しており、また豊前国下毛郡(大分県下毛郡)の御木川の川上(今日の下毛郡を北流し、中津市の西北で海に注ぐ山国川-高瀬川-のことであろう)にいた巨賊耳垂らを誅服したとある。

或は日向市に「美美津」、「耳川」があるが、「美美津」に関しては、雄略21年紀に「久麻那利」と云う地名が出てくる。これは「熊津」のことと理解されていて、「津」と「ナリ」は同義である。「美美津」は昔「ミミナリ」と呼ばれていた可能性がある。

耳の付く人たち

天忍穂耳 日本書紀 ニニギの父
宮主簀狭之八箇耳 神代紀上 稲田姫の親、母らしい
三島溝瀘耳 神武紀 瀘は咋
神沼河耳 古事記 綏靖天皇
神八井耳 古事記 綏靖天皇の兄
手研耳 日本書紀 綏靖天皇の腹違いの兄
岐須美美 神武記 手研耳=多藝志美美の弟
息石耳 日本書紀 安寧天皇の兄

大日日 日本書紀 開化天皇
若狭之耳別之祖 開化記 開化天皇の子、室毘古王のこと
布帝耳 古事記 出雲系図第4代
鳥耳 古事記 出雲系図第6代。鳥耳の子、鳥鳴海
陶津耳 崇神紀 太田田根子の祖母
太耳 垂仁紀 3年と88年、但馬諸助の母の親
前津耳 垂仁紀 88年、但馬諸助の母の親
鼻垂 景行紀 耳ではなく鼻
耳垂 景行紀 殺される。
御午友耳建日子 景行記 吉備臣等之祖
大耳 肥前風土記 松浦郡小近嶋。赦免される。参照:景行紀の鼻垂
垂耳 肥前風土記 松浦郡大近嶋。赦免される。参照:景行紀の耳垂
大身 肥前風土記 松浦郡大家嶋。殺される。
豊耳 神功紀 紀直の祖
前津見 応神記 但馬諸助の母
玖賀耳之御笠 崇神記 丹後風土記・残欠、陸耳とも

百舌鳥耳原 仁徳紀 67年
耳成山 允恭紀 42年11月
耳皇子 継体紀 継体*倭姫の子
豊聡耳 推古紀

水野氏は、自説を下記のように書いてあるが、考え過ぎでしょう。
耳垂・鼻垂は飾りをした人(族長)でしょう。
耳は、珥(じ=みみかざり)を付ける人であろう。
 

耳垂・鼻垂というのは、鼻が大きく垂れ下がり、耳が大きく垂れ下がっていたために命名されたのであろうという解釈があるが、それはかの聖徳太子が厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)と称され、その名の由来が、太子は福耳の持主で、大きな豊かな耳朶をもち、しかも、さとくよくきこえる耳であったからといわれるのと同じ発想である。ただ耳垂は、かの面足尊(おもだるのみこと)という場合のように、大きいことや垂れ下がっていることをいうのではなく、充分によく満ち足りていて立派であるという意味の「タル」「タラス」の義であって、容貌がみち足りて堂々としていて、風格がある義と解すべきであり、九州地方では地域の君長や豪族の尊称として、「耳足」「鼻足」「耳垂」「鼻垂」などの尊号が一般に存在したと考えれば、投馬国の副官の名として「彌彌那利」とあるのは、そういう称号をもつ豪族の族長が、投馬国において中枢の権威を支える一員となっていたと解される。

鴨稲荷山古墳出土の垂飾付耳飾

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天忍穂耳も神武天皇の子供たちもみんな名前に耳が付く

高木神の娘婿の忍穂耳

『日本書紀』によれば、天火明命(アメノホアカリ)はアメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれ、 ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)
福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社である。旧社格は官幣中社。通称彦山権現。

天忍穂耳尊を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する。

豊前國田川郡 辛國息長大姫大目命神社
豊前國田川郡 忍骨命神社
豊前國田川郡 豊比咩命神社
それぞれ、1、2、3の岳に祀られる
御祭神
辛國息長大姫大目命 忍骨命 豊比賣命
二ノ岳の神は忍骨命。式内社・忍骨命神社に比定されている。社伝によると、天照大神の第一皇子・天忍穂耳命であるとい

豊後国一宮
旧国幣中社 別表神社
西寒多大神 (ささむたのおおかみ)
天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称としている。
「大分郡志」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたという。当地の人々はこれを崇敬して籬垣を結んで拝んでいた。その後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという。

簀狭之八箇耳は、斐伊川上流

一書には、素戔嗚尊は、出雲国(島根県)の簸川(島根県東部を北流して宍道湖にそそぐ斐伊川)の上流に降られた。稲田宮主の簀狭之八箇耳の娘の稲田媛を御覧になって、妻屋を建てて生んだ子を、清湯山主三名狭漏彦八嶋篠と名づけられた。

または広島、島根の山中

一書には、素戔嗚尊は、安芸国の可愛川(広島県・島根県を流れる江川)の上流に降りられた。そこに神がいた。名前を脚摩手摩という。妻の名を稲田宮主簀狭之八箇耳という。この神は妊娠していた。

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投馬国 = 吉備の鞆の国 の可能性もある。

古事記の景行天皇紀に吉備臣の祖として「ミスキトモミミタケヒコ」御鉏友耳建日子が出てくる。魏志倭人伝のトモ国の「トモ」とその官の「ミミ」の両方の言葉が含まれているのは単なる偶然とは思えない。
吉備の武彦は景行天皇の時代であり、卑弥呼の時代に近いので、この可能性もある。
トモミミは鞆の国のミミ(頭領)を意味するので、投馬=鞆の可能性もあります。
不弥国、南、投馬国に至る水行20日、南、邪馬台国に至る、水行10日陸行1月」とあり、北九州の不弥国から大和まで20対10とすると、水運に適した港を持ち、後背地に平野部を持つ吉備(岡山県)が妥当なところとなる。

戸数が5万余戸という大国であり、これは邪馬台国の7万余戸に次ぐ第二の規模であることと、また、その道程の記載のされ方から、魏志倭人伝に出てくる国々は、距離的に見て、二つの大きな集団(対馬国~不弥国と、邪馬台国~狗奴国)に分けられが、投馬国はその両者にも属していない、孤立していることからも吉備かもしれない。

出雲説

上古音により近い発音から推測して「投馬」国のことを「ツマ」国と解釈すべきとの説がある。

魏志倭人伝では、邪馬台国の官名の伊支馬があるが、同名の神社が出雲にあります。

式内社・生馬神社
神魂尊の御子・八尋鉾長依日子命を祀る神社。

出雲国風土記に、「生馬社」が2つ。一つは東生馬にあり、もう一つは西生馬。当社は東生馬の生馬社にある。

また、陸行が瀬戸内経由より長くなり、大和=邪馬台国まで、魏志倭人伝の記述に近くなる点は、吉備より有利になる。