高良大社

高良大社蔵書「高良玉垂宮大祭祀」
「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家が草壁を名乗っていた頃から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかる。
高良大社は三種の神宝のみならず、「神功皇后の三韓征伐譚」(八幡愚童訓等)で活躍する「干珠・満珠」の二つの宝珠も神宝としている。
更には七支刀も持っていたのだから、なんとも豪華絢爛、九州王朝の天子の居所にふさわしい宝物群だ。
 しかし、これだけではなかった。この地が九王都であった証拠が高良大社文書『高良記』(中世末期成立)の舞の行事に記されている。

犬の舞 獅子舞か?
「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウ クタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ 今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」
 ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということ、初代高良玉 垂命がこの地に都をおいた時期、四世紀末から五世紀初頭にかけて百済王族が守りの舞を舞っている。。

朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
(第三、阿[辛*]王六年<三九七>五月条)
「腆支王。<或は直支と云う。>……阿の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」 (第三、腆支王即位前紀)
辛*は草冠編に辛です。

筑前 四王寺
王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇が四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる

[高良玉垂宮縁起]
(高良大社・玉垂宮)

神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の請で藤大臣と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた。藤大臣は中臣鳥賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。
藤大臣(とうのおとど)の没し地
大善寺玉垂宮

9月13日 神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。[高良玉垂宮縁起]

神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。
 大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。
 応神期に東漢氏の祖、「阿智吉師(あちきし)」と西文氏の祖、「王仁(和邇)吉師(わにきし)」が半島から渡来している。

367(仁徳55)  12月24日五十五年卯十二月勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月二十四日筑後塚崎葦連館へ御下着在す。

藤大臣,耳納山を開き,高村大善寺に御殿を作る。(薬師寺旧記)

368 (仁徳56)1月7日肥前川上に桃桜沈輪(ゆすらのすいりん)を討伐。(薬師寺旧記)

390(仁徳78)  藤大臣死。高三瀦塚崎に奉葬する。(御廟塚)

『高良玉垂命』の高良山への来臨は、高良山『古系図』内注記に『仁徳天皇治天55年9月13日』とあり、これは西暦367年頃4世紀後半のお方として研究者は考えを始め、武内宿禰説や神功皇后に干珠・満珠を渡した安曇磯良(アズミノイソラ)説・物部保連(モノノベノヤスツラ)説等諸説があります。
筑後国神名帳』には玉垂媛神とある。

672(白鳳元)  御廟院高法寺を開基。 三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧 安泰をして祭神(藤大臣)を祭らせる。

673(白鳳2年)  竃門神社の始まり 2月10日辰の刻心連上人のお告げにより宝満山の馬蹄岩に玉依姫を祭る。

『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。

高良記二は九州王朝の系譜が記されている。

高良大神の孫をその子孫として、(1) 斯礼賀志命神、(2) 朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4) 渕志命神、(5) 谿上命神、(6) 那男美命神、(7) 坂本命神、(8) 安子奇命神、(9) 安楽応宝秘命神 といった神が記されており、さらに、 〈1〉物部日良仁光連、〈2〉日往子明連、〈3〉日男玉頼連、〈4〉神力玉依連、〈5〉日光玉一連、〈6〉日往玉尊連、 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩といった系譜がある。この中には「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号があり、興味深い。

九州王朝説の根拠の一つであり、これは九州王朝において天皇制が施行されていた根拠である。  『三国史記』のこの記事によれば、三九七年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この三九七年という年は、初代玉 垂命が没した三九〇年の後であり、倭王讃の時代。

『日本書紀』応神八年三月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見えるが、書紀には『高良記』のような具体的な記事はない。

高良御子神社 由緒書

「起建」
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿)
 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会

高良御子神社 九躰皇子
皇子たちの名が書かれていた境内由緒書

「起建」
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿)
 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会

九躰皇子
斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)

九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。「阿志岐山上に社を」、と託宣を下されたのは「高良の神」です

『高良玉垂宮神秘書』
九躰皇子の母は神功皇后。父は仲哀天皇と高良大菩薩となっています。

社殿に遺されたシンボル「竹」の謎

「高良玉垂命」と「高良の神」が別神か
「玉をつかさどって与える神」(玉垂命)とは「安曇磯良神などが奉斎する海神」。「玉垂」の「玉」とは干珠満珠。それを求めたのが「高良の神」か
これは本殿の裏にある彫り物。中央に竹が緑で彩色されています。
本殿正面、両の柱に笹竹が掲げられています。「竹内宿禰」の一族だということを暗示しているとの記事がありました

『日本書紀』なら武内宿禰。『古事記』なら建内宿禰。
そして、各神社の書き方。綾杉説の竹内宿禰なんですから。
「竹」の笛。音楽。これが竹内一族の側面という。

その名は「シキハム」だったのかも知れない。
それは織幡宮(祭神武内宿禰)を「シキハムさま」と呼んでいる
ことから推測しています。

高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

高三潴に在ります『月読神社』内に、『高良廟』と刻まれた『額』の鳥居と『塚』は『玉垂命の墳墓』と謂われている

玉垂命は玉を垂れた女神か?

『大善寺玉垂宮』に祀られています玉垂命は、千木は外削ぎの『男神』となっていますが、口伝では、本当の祭神は『女神である』とされており、『謎』の女神となっております。

『大善寺玉垂宮』はその後、高良山にも進出して『高良玉垂宮』(筑後國一の宮)と為ります。(大善寺宮司の『隈正實』氏によれば、大善寺の方が古いとのこと。)

久留米市の東部にある高良山の下を御井町と称し、朝妻に在ります『味水御井神社』へ高良玉垂宮より『行幸』行事が行なわれていました。
『御井神』とは、『木俣神』とも呼ばれ『多祁理比賣命』と『大國主命』の間の子の『下照比賣命』とされ、『高比賣命』とも呼ばれています。高羅山が高良山になったと謂われ、この『高+羅』の朝鮮語での意味は『高の國』の事である。と「宝賀寿男」氏が『御井神の系譜』の中で述べられています。

比売許曽(ひめこそ)神社
大阪東成区小橋に鎮座。女神である。
神社の由緒には
「祭神、下照比売命(したてるひめ)(出雲の大国主命と宗形の多紀理姫命の子神)(味耜(あじすきたかひこね)高彦根命の妹神)、相殿の祭神、速素戔嗚命、味耜高彦根命、仁徳天皇、用命天皇を祭る」と記してある。

長等神社(滋賀県大津市)
三井寺の観音堂の階段を下りると、すぐ下に長等神社(ながら)があり、京都へ水を引く琵琶湖疎水も近くに流れる。
新宮社と呼ばれ、860年に円珍が園城寺(三井寺)の守り神として祀った

祭神は、建速須佐乃男大神、大山咋大神、宇佐若宮 下照姫大神、八幡大神、地主大神

667年、天智天皇が近江大津宮へ遷都の際、都の鎮護として、須佐乃男命を祀ったのが、始まりとされている。
祭神に宇佐若宮「下照姫大神」と言う神の名が見える。これがなぜ宇佐宮と関係があるのだろう?
宇佐宮の本源の神は比売神、いわゆる宗像三女神であり、田心姫神(たごりひめ 多紀理比売)もそのうちの一柱、下照比売はその娘であるので、宇佐若宮と呼ばれたのかもしれない。

日吉大社の宇佐若宮に祀られている下照姫と一致している。

『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命。
『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。

両親
『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神の妹。
『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘。
『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。
『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されている。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もある。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がある。

出雲の系譜をもつ高照姫が、綿津見の娘と結ばれて、玉垂姫となり、高良に祀られるようになったのでしょうか?

高照姫神(タカテルヒメノカミ)
別称:加夜奈留美命、賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)

大国主命の御子のうちのひとりです。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。古事記に「大巳貴神娶辺津姫生一男一女、児都味歯八重事代主神・妹高照姫命云々、次娶高志沼川姫生一男児建御名方命」とあります。

加夜奈留美命は、飛鳥の神奈備に坐して、皇孫の守護をした神で(「延喜式」出雲国造神賀詞)「五郡神社記」や「大神分身類社鈔」に高照姫命のこととする。「延喜式交替式」「類聚三代格」には「賀屋鳴比女」とも記し、天太玉・櫛玉・臼滝神とともに飛鳥神の裔神とみえる。「三代実録」貞観元年(859)正月二七日の条に大和国従五位下賀夜奈流美神に正四位下を授けたとあり、四裔神のなかでは最も神位が高い。

【和州五郡神社神名帳大略注解】(皇典研究所「神祇全書」所収)

式内・牟佐坐神社(奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内)の禰宜であった宮道君述之が著

本社の後南方にある磐石神窟はいわゆる飛鳥山前神奈備で、社家の者の説では、 高照姫命をを祀る茅鳴身(カヤナルミ)神社である。

本社の東北方にある滝瀬神窟はいわゆる飛鳥川辺神奈備で、社家の者の説では、臼滝姫命(高照姫命とも)、あるいは建御名方富命を祀るとしている。境内のこの2神が加えられた結果、「飛鳥坐六箇處神社」とされているのである。飛鳥坐神社(四座)には、主神4神の他に、後裔神である加夜奈留美命と宇須多伎比売命を含め、合計6神が祀られていたのではないか

社伝によれば、吉備津彦命より五代目の加夜臣奈留美命が、吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である吉備津彦命を祀り相殿に八柱の神を祀ったのが吉備津宮正宮の始まりであるという。
吉備津彦命が7代天皇孝霊の息子だとすると、カヤナルミその5代目と云う事は11代天皇垂仁の頃の人であり、時代が倭迹迹日百襲姫の頃となる。

御井神社 

大国主大神は因幡の白兎の神話の時むこうで八上姫という心姿の美しい女神を愛され、姫はやがてみごもられた。
臨月となられた八上姫は背の君に会いに出雲大社へ行かれたが、正妻須世理姫の立場を慮り、会わずに引き返された。
そして神奈火山の麓直江の里まで帰られた時産気づきやがて玉のような御子を挙げられた。そこで三つの井戸(生井、福井、綱長井)を順次掘り御子を産湯させてから木の俣に預け、母神のみ因幡に帰られた。
御子を木俣神または御井神と申し上げる。

多祁理比賣命は『下照比賣命』を木俣に挟んで出雲から宇佐に帰って来ましたが、『下照比賣命』はその後出雲にて天若日子命と結婚をしましたが、天若日子命は高木神の返し矢にて亡くなります。『下照比賣命』は大いに悲しみ泣き腫らしたと記されていますが、その後の彼女の行方は記されていません。

国東半島奈多沖の岩礁(市杵島)に乗り上げ上陸した。との伝承があります。

田心姫(たごりひめ)の御子たちはいずれも福岡に祀られています。
二女神と大己貴命が共に異敵と戦った話が福津市の楯崎神社に出て来ます。田心姫と湍津姫のお相手は大己貴命なのです。

一方の市杵島姫は天照日孫(ニギハヤヒの子)の妃です。
市杵島姫は英彦山では中宮に鎮座している。

豊玉姫も気になります。
志賀島の志賀海神社が龍の都として古来認識され、龍宮の二女神とは豊玉姫と玉依姫です。
豊玉姫は志賀海神社には祀られず
志式神社や対馬に祀られています。

和多都見神社
長崎県下県郡豊玉町仁井字和宮
(祭神)彦火火出見尊、豊玉姫命

「延喜式」神名帳 對馬嶋 下縣郡 和多都見神社:名神大「ワタツミノ」
上古海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り玉ひ、御子に一男二女ありて、一男を穂高見命と申し、二女を豊玉姫命・玉依姫命と申す。

豊玉姫の山陵及び豊玉彦の墳墓あり。

上代の海宮とは対馬をいい、当社はその海宮の神跡である。延喜式神名帳所載の和多都美名神大は当社のことである。

海神・綿津見神(海若)の娘。天孫・邇々芸命が大山津見神の娘木花佐久夜毘売との間にもうけた火遠理命(=山幸彦)と結婚し、鵜茅不合葺命を生む。

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安志奇ノ命神(アシキ)

阿志岐村は古代高良の三口(登口)の一つで(耳納・阿志岐・高良内)、其の内でも高良大社の北側に位置し、尤も(もっとも)重要な所であった。
大宰府を立って筑後川を渡り、野口を過ぎ、神米畷(くまめなわち)を通り、栗林をすぎて、阿志岐坂を登り、高良社へ至る古道である。

高良の坂本神社
東坂本社 櫛岩窓命
西坂本社 豊岩窓命
注=両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。

櫛石窓神社(くしいわまどじんじゃ)は、兵庫県篠山市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
主祭神 櫛石窓命
配祀神 豊石窓命 大宮比売命

『古語拾遺』
天照大神が岩戸から新殿に遷座したのち「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。

天岩戸神社
皇大神社(元伊勢内宮)・豊受大神社(元伊勢外宮)とともに元伊勢三社の一社と呼ばれる神社

御祭神 櫛御毛奴命
あるいは 櫛岩窓戸命 豊岩窓戸命

京都府福知山市(旧大江町)にある。北近畿タンゴ鉄道宮福線の大江山口内宮駅の西1Kmほどの佛性寺に鎮座。9号線を西へ入り、皇大神社を通過して、河に沿って緩やかに登っていくと、道路の左側に境内がある。

『儺の国の星・拾遺』p201アシカビ星
昔は舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して千歳川の水行を司った氏族の名であった。

やがて「あしかひ」の名が現れた。葦の葉陰に船の帆影が遠く眺められる風景であるが、川水だけが岸の左右に高く茂った葦の茎の間にはるかに開けている光景が峡(かひ)であり、又往来の頻(しきり)なる風景が交(かひ)であったことになる。