高句麗

歴代王

東明聖王(ツングース民族、在位紀元前37-紀元前19年)
瑠璃明王(紀元前19-紀元18年)
大武神王(18-44)
閔中王(44-48)
慕本王(48-53)
太祖大王(53-146)
次大王(146-165)
新大王(165-179)
故国川王(179-197)
山上王(197-227)
東川王(227-248)
中川王(248-270)
西川王(270-292)
烽上王(292-300)
美川王(300-331)
故国原王(331-371)
小獣林王(371-384)
故国壌王(384-391)
広開土王(好太王、391-413)
長寿王(413-491)
文咨明王(491-519)
安臧王‎(519-531)
安原王(531-545)
陽原王(545-559)
平原王(559-590)
嬰陽王(590-618)
栄留王(618-642)
宝蔵王(642-668)

広開土王碑 碑文より

「應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉」(第1面2行〜)

  高句麗本紀の始祖「東明聖王」(「鄒牟王」)条「但結廬於沸流水水上居之。國号高句麗」と対比して調べてみると「沸流谷」とは「沸流水(江)」の渓谷を意味し、「沸流水(江)」の上流に「高句麗」があったことがわかる。それでは「沸流水(江)」はどこだろうか。現在の中国の遼寧省の省都「瀋陽」(旧満州「奉天」)の南を流れる「渾江」あるいはその支流「富爾江」付近だとする。この河の流域には「恒仁」があり、「吉林省」の「集安」(広開土王碑のあるところ)と接しており、ここには「高句麗」の遺跡があり、現在、観光地となっている。この一帯であろうとするが(「朴 時亨」-前掲書 11頁)、「恒仁」そのものであろう。そして、「西城山上」(西側山の上)に「而建都焉」(都を創建した)。なお「焉」(えん)は「ここに」の意味である。「西城」は「恒仁」にある「五女山城」であるとされている(「武田幸久」-目黒区本 47頁)。
  解釈は、「その声を聞くやいなや王の要請に応じて葭(葦)と亀がやって来て、浮き橋を作った。それで、王は初めて渡ることができた。王は沸流谷の忽本に ある西側山の上に都を創建した。」となる。

 「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北不余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□□□命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威武振被四海掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1行1字~6行39字)

(1)始祖鄒牟王の事蹟
「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北扶余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□□□」(第1面1行1字~40字)
 「昔、「始祖鄒牟王」(始祖 東明聖王)〔在位紀元前37年~19年〕は、「高句麗」を建国した。その出自は「北扶余」(中国東北部(旧満州)の「松花江」の北)の天帝の子で、母は河伯(河の神の娘)であった。「鄒牟王」は卵を割いて生まれてきて、生まれながら徳のあるお方であった。」となる。

「命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀」(第1面1行40字~2行37字)
解釈は、「王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利大水を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に、『汝は天子の子で母は河伯(河の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出てきて、浮き橋を掛け、王は無事、渡ることができた。」となる。

「應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉」(第1面2行38字~3行22)

解釈は、「その声を聞くやいなや王の要請に応じて葭(葦)と亀がやって来て、浮き橋を作った。それで、王は初めて渡ることができた。王は沸流谷の忽本にある西側山の上に都を創建した。」となる

「不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天」(第1面3行23字~4行4字)

解釈は、「(その後、王はしばらく国を治めたが)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇っていかれた。」となる。

儒留王と大朱留王の承継

「顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業」(第1面4行5字~23字)

解釈は、「天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留王(第2代「琉璃王」)が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」)は前王の政治を承継した。」となる。

第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績

「?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威
武振被四海」(第1面4行24字~5行2字)

解釈は、「昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。」となる。

「掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國」(第1面5行23字~6行8字)

王(廣開土王)は『三国史記』高句麗本紀 第19代廣開土王条の22年(413年)10月に薨去している。

解釈は、「(王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。」となる

「以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1行1字~6行39字)」(第1面6行9字~39字)

解釈は、「(長壽王〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。」となる。

日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈5(全釈文)]――解法者
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/nicho22.htm
『広開土王碑』全部の釈文

1.第一部
  昔、「始祖鄒牟王」(始祖 東明聖王)〔在位 紀元前37年~19年〕は、「高句麗」
 を建国した。その出自は「北扶余」(中国東北部(旧満州)の「松花江」の北)の天帝の
 子で、母は河伯(河の神の娘)であった。「鄒牟王」は卵を割いて生まれてきて、生まれ
 ながら徳のあるお方であった。王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利
 大水を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に、『汝は天子の子で母は河伯(河
 の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向
 って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出て
 きて、浮き橋を掛け、王は無事、渡ることができた。(その後、王はしばらく国を治めた
 が)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を
 迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇ってい
 かれた。天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留王(第2代「琉璃王」)
 が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」)は前王の政治を承継した。
 昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、
 王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。(王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、
 庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)
 天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。(長壽王
 〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑
 を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ

2.第二部
 ① 永楽5年(396年)条
  王(廣開土王)の永楽5年乙未の年(396年)、無礼を働いてきた稗麗(契丹)を、
 王(廣開土王)自ら軍を率いて討伐した。そして、富山・負山を過ぎ藍水に至り、そ
 の3部落、6,700集団を破り、牛、馬、羊の群、無数を捕獲した。王は自ら率い
 て来た軍隊の方向を転じ、□平道を過ぎて、東来・□城・力城・北豊・五備猶を通っ
 て(自国内に入り)(戦いは成功裏に終ったので)、遊覧しながら自国で、狩猟しなが
 ら帰ってきた。
 ② 辛卯年(331年~)条
   (高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。
  しかるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、
  服従させてしまった。
 ③ 6年丙申条(397年)
   永楽6年(廣開土王の在位6年丙甲年〔397年〕に、高句麗王(廣開土王)が自
  ら大軍を率いて百済軍を討伐した。王(広開土王)は「壹八城」以下58城(城を含
  む町)を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。
  王(廣開土王)は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見
  た百済軍は恐れおののいて)百済の王都に逃げ帰った。そうして(而)百済王(第1
  6代「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千人、上質の布千匹を差し出し、王(廣開
  土王)の前に跪いてこれからは永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。王
  (廣開土王)は先に迷っての過ち(「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこ
  と)を許し、王(廣開土王)は58城、村700を奪い、残主(「百済」)の弟および
  大臣10人を人質にして都に帰った。

 ④ 永楽8年(399年)条
   永楽9年(廣開土王の在位9年己亥年〔400年〕)、「百済」が「永楽6年丙甲」条
  の誓を破り「倭」と同盟した。王(廣開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)
  平壌を巡視していた(ちょうどその時)、「新羅」の使いがやって来て、「倭」が「倭」
  と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」の国内にまで侵攻し、城を取
  り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。(そして)わが王(第17代「奈勿王」
  を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、王(広開
  土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令に従います。王(廣開土王)はその
  忠誠心を称賛し、「新羅王」が派遣した使者を自国に帰らせて、密計を授けた。
 ⑤ 永楽10年(401年)条
   永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)、高句麗王(広開土王)は
  歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途中、男居城から新羅城までその中
  に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至ると、高句麗軍を恐れて背走した
  が、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。
  それで(途中で「倭軍」とともに連合していた)安羅人(を降伏させ)の彼らを守備
  兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」新羅城および塩城を打ち破り「倭軍」を潰
  滅させた。新羅城内の10人中9人までもが「倭軍」に従うのを拒絶し、また、安羅
  人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅王は高句麗に従い、朝貢することはな
  かったが、(これにより朝貢するようになった-欠字部分を推測)。王(広開土王)は
  新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅王(奈勿王)は「ト好」
  (「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するようになった」となる。

 ⑤ 永楽14年(405年)条
   廣開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)、不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯
  方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たので
  ある。(この知らせを聞いて)王(廣開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先
  鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)
  と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上った。
 ⑥ 永楽17年(408年)条
   永楽17年(408年)条」全体としての解釈は、「廣開土王の在位17年丁未年〔4
  08年〕)、王(廣開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。
  (倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器
  は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て
  破壊した。
 ⑦ 永楽20年(411年)条
   「東扶余」は、始祖「東明聖王」以来属民であったが、途中で謀叛を起こし、朝貢
  しなくなった。そこで、永楽20年(廣開土王の在位20年庚戌年〔411年〕)、王
  (廣開土王)は自ら兵を率いて「東扶余」の都に攻め上った。すると、「東扶余」は驚
  いて国を挙げて降伏し、王(廣開土王)に服従した。王(廣開土王)の恩恵が広く行
  き渡り、王(廣開土王)は(目的を果たし)軍隊を巡らして帰還した。「味仇婁鴨盧」、
  「卑斯麻鴨盧」、「揣奢社婁鴨」、「粛斯舎鴨盧」、「□□□鴨盧」の5人は、王
  (廣開土王)の徳を慕い、ついて来た。この戦いで、おおよそ、攻め取った城は64、
  村は1400に上った。

3.第三部
  王(廣開土王)の「守墓人」として、従来から「高句麗」に所属していた地域から「國
 烟」と「看烟」に分けて任命する。「賣勾余民」については「國烟」2戸、「看烟」3戸、
 「東海賈」は「國烟」3戸、「看烟」5戸、「敦城」は「看烟」4戸、「于城」は「看烟」
 5戸、「碑利城」は「國烟」2戸、「平穣」は「國烟」1戸、「看烟」10戸、「□連」は
 「看烟」2戸、「俳婁」は「國烟」1戸、「看烟」43戸、「梁谷」は「看烟」2戸、「梁
 城」は「看烟」2戸、「安夫連」は「看烟」22戸、「改谷」は「看烟」3戸、「新城」は
 「看烟」3戸、「南蘇城」は「國烟」1戸、とする。
  新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」は、「沙水城」は「國烟」1戸、「看
 烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」2戸、「豆比鴨?韓」は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は
 「看烟」2戸、「求底韓」は「看烟」1戸、「舎蔦城韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は
 「國烟」3戸、「看烟」21戸、「古須耶羅城」は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」
 1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」は「看烟」1戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて
 「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看烟」9戸、「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」
 は「看烟」2戸、「牟水城」は「看烟」3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は
 「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、
 「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、
 「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」
 6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」
 22戸、「古牟婁城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」
 8戸、「味城」は「看烟」6戸、「就咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、
 「散那城」は「國烟」1戸、「那旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、
 「於利城」は「看烟」8戸、「比利城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、とする。

  始祖、先王たちは遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」の民だけを王墓の守墓人としたが、王(廣開土王)は存命のとき、その旧民の生活が困窮していくことを心配し、私が亡くなった後は、私が自ら出陣し捕虜として連れて来た「韓人」・「穢人」を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを心配るので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人とするようにと命じられた。
  始祖(上祖)・先王以来、墓の上に石碑を置かなかったので、守墓人の「烟戸」が記録されず、間違いが起きていた。そこで、王(廣開土王)は守墓人の「烟戸」に関する記録を碑に銘記して間違いが起きないようにした。これからは、自ら守墓人の地位を転売してはならず、たとえ裕福な者がいたとしても、守墓人の地位をってはならない。
 それに違反して守墓人を売る者があれば、買った者に刑罰を科し、自ら守墓人にならなければならない

広開土王の守墓人

 王陵を守る人を「守墓人」というが、中国においても初期(「漢」の時代ころ)には「陵」(王の墓)と「墓」(庶民の墓)を区別して使用しなかった。「高句麗」や「新羅」においてもその例にならっていた。したがって、「広開土王碑」における「墓」とは王の墓を意味する。
 「烟」とは「煙」の意味で、「烟(煙)戸」とは国家の戸口台帳(戸籍)の「戸口」の意味で、炊飯するときの煙を人家の象徴として現したものが語源で、朝鮮、日本に伝わったものである。詳しくは拙稿「朝鮮の戸籍制度」、「日本の戸籍制度」を参照されたい。
 高句麗では「広開土王碑」でもわかるとおり「守墓人烟戸」を「國烟」と「看烟」に区別していたが、この両者の意味は詳しくはわからない。その比率は1:10となっており、併記するときは先に「國烟」、次に「看烟」となっていることとその比率から、「看烟」は「國烟」の補助者であったと考えられる。身分はいずれも「奴隷」である。最初は「旧民」(奴隷ではない)、つまり「高句麗」に従来から属する民衆を以って当てられていたが、任務は過酷であったため(報酬も少なく自費で守墓することが強要されていたと考えられる)、次第に困窮していき「守墓人」の任務を続けられなくなったりしていった。逃亡した者もあったものと思われる。この辺りの事情は「吾慮旧民轉当羸劣」(「広開土王」は「旧民」が困窮していくのを心配する)の碑文にも現れている。
 また、制度が弛緩し、「守墓人」のなかには(おそらく権力者に賄賂などを使って)その地位を売渡す者が現れ始めたのである。これも「自今以後不得更相轉賣守墓人」(これから以後、自ら守墓人の地位を転売してはならない)の碑文にも現れている。
 さらに、富裕者のなかには「守墓人」を金で買って、自分の使用人にしたり「守墓人」にする者も現れたのである。これも「雖有富足之者亦得擅買」(裕福な者がいたとしても、守墓人の地位を買ってはならない)の碑文にも現れている。
 こうして「守墓人」が足りなくなったので、『新たに戦争で捕虜にした「韓人」(朝鮮半島南部の人々-百済人・新羅人を指す)・「穢人」(朝鮮半島の北部の日本海側にいた人々を指す)を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを心配するので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人とするようにと命じられた』と命じたのである。ここでもその比率は1:10となって