高倉下、高倉神社

讃岐一宮 田村神社

百襲姫ほか高倉下、天五田根を祀る。

由緒に、高倉下の記述がある。

天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。

由緒

田村神社略記
祭神
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと),猿田彦大神(さるたひこのおほかみ),天隠山命(あめのかぐやまのみこと),五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)),天五田根命(あめのいたねのみこと)
以上五柱の神を田村大神と申す
倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ 後吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵(はか)は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちまた)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと))と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
皇室武門武将の崇敬の神社

高倉神社(三重県上野市西高倉)

祭神&祖神 高倉下命、倭得玉彦命
社家 阿部氏、尾張氏
創建は阿倍氏系11代垂仁天皇の御代、高倉下命の七世の孫である倭得玉彦命がこの地に住し、先祖を祀り、その氏神としたことに始まる。倉庫守護神として近隣の人々に崇敬されている。
直ぐ近くには、阿倍氏の祖・大彦命を祀る、伊賀国一の宮・敢国神社(三重県上野市一之宮)があるのも興味深い。伊賀上野といえば、阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地だ。
興味深いことに、同名の高倉神社が福岡県遠賀郡岡垣町にある。こちらは遠賀郡の総社で、祭神は大倉主神と菟夫罹媛(つぶらひめ)命を倭国の菟田(うだ・宇陀)の人・伊賀彦を祝としてこの地に祀らしめたことが、仲哀天皇(息長氏系14代)筑紫行幸の段に見える。
初代祝(はふり・神主)は宇陀の「伊賀彦」
倭国の宇陀といえば、当に阿倍氏の本拠地・倉梯山の所在地であり、阿倍氏の支族に伊賀氏がいることから、伊賀彦は阿倍氏の人と考えられる。「倉梯」は高倉に架ける梯子(はしご)のことであり、何か関係があると思ってしまうのは私だけではあるまい。

宇陀とは、宇陀 奈良県北東部 古くは水銀の原料辰砂を産出していた。

  

高倉主と莬夫羅媛、そして倭国・莬田の伊賀彦命

当日本書紀に書かれている、古い社
第14代、仲哀天皇が8年春一月に筑紫に行幸された時、岡の縣主(あがたぬし)の祖である、熊鰐(くまわに)が周防サバ浦にお迎えに行きました。海路を案内して山鹿岬から廻って岡の浦に入ろうとした時、神異がありました。天皇は舵取りの倭国・莬田の人・伊賀彦命を祝(はふり)とされました。
神功皇后の摂政二年5月にここに神祠を建てて、神田千町を定めました。すなわち、大倉主命、莬夫羅媛(つぶらひめ)の二神の本宮です。

高倉神社 (福岡県遠賀郡岡垣町高倉)

古墳時代にまでさかのぼる古い縁起を持っていて、旧遠賀郡21か村の総社。

御祭神 天照皇大神 大倉主命 莵夫羅媛命

境内に伊賀彦社と伊賀彦の古墳跡がある

當社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑業に行幸し給いし時、岡の縣主の祖熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挾抄者(かじとり)倭國莬田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる 即ち大倉主命莬夫羅媛二神の本宮なり古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも永禄二年大友宗麟の兵火にかかり壮麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に烏有に歸せしが天正十五年國主小早川隆景公之を再建慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり再来歴代の國主神田神山を寄進して崇信の念殊に厚く宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。

高倉神社は、日本書紀所載の古社にして、人皇第十四代仲哀天皇御勅祭の大社なり。大倉主命菟夫羅媛命の二柱を奉祀し、中世に至り天照皇大神を相殿に合祀す。往古は神田千町の勅定あり伊賀彦を祝部職と為し給ひ。往古は、社殿宏壮に廻廊をめぐらし、楼門を構へ二十余社に摂末社、境内に鎮座ありしが、今は、境内末社九社境外末社二社あり、社領の神田も正長年間(559年前)将軍足利義教の時代は、神田二十四町六段、垣崎の庄にて二百十四町歩あり。尚神林の地域も広大なりしが、豊臣秀吉及び小早川秀秋の時代に悉く没収せられぬ。氏子の地域は恩が川西二十四村にして、現時の岡垣町、芦屋町(山鹿を除く)遠賀町、中間市の底井野、垣生(下大隈を除く)の五町村にて、戸数三千余戸あり。

つまり、高倉神社は遠賀川河口部から遠賀町一帯に氏子を持つ大社であり、その地域は嶋戸物部とも重なるのである。神社そのものは浅い谷状の周囲はまさに山深い感じがするが、北は海も近い。
【銅製毘沙門天立像】もこの高倉神社のみどころ
この天立像は、須藤駿河守行重の命により、筑前芦屋の鋳物師大江貞盛によって造られたもの。

やはり、大倉主は高倉下である。倭国の宇陀といえば、当に阿倍氏の本拠地・大和の倉梯山の所在地に他ならない。伊賀彦は阿倍氏の人だと考えて間違いないと思う。

『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、日本得魂命の妻は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)と、伊賀臣(いがのおみ)の先祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻とする。
倭得玉命の妻の一人谷上刀婢は淡海の出である。

滋賀県野洲市の三上氏が祀る御上神社の祭神は天御影である。『勘注系図』によれば、三世孫倭宿禰の亦の名が天御陰命である。
また二人目の妻と関係するのは三重県伊賀市西高倉の高倉神社である。高倉神社御由緒によると、祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)である。高倉下命は神武天皇東征の功神で、その七代の孫、倭得玉彦命が祖神である高倉下命を祀ったとされる。

 
 崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている。一方、健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという。

三吉地区の山崎神社

福岡県遠賀郡岡垣町三吉735
【祭神】大山祇神 天照皇大神 (合祀)豐玉姫命熊鰐命 伊賀彦宿禰

三吉は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征討のため九州に来られたとき、船を仕立てて防府まで出迎え岡湊(芦屋)まで案内した「県主熊鰐」ゆかりの地といわれ、熊山の中腹には墓があります。
この祭神「伊賀彦宿禰」は、岡湊で天皇の船が立ち往生したとき祈祷をした神様です。三吉は讃岐の古語です。倭宿禰ゆかりの人物か

三上氏の系譜


天津彦根命—-天御影命—-天麻比止都禰命—-意富伊我都命—-彦伊賀都命—-天夷沙比止命—-川枯彦命—-坂戸毘古命—-国忍富命—-天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)—-鳥鳴海命—-八倉田命—-室毘古命

 三上山の麓の「御上神社」の社記にあった。社記によると、孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨したので、開化天皇の治世期、その子孫である彦伊賀都命が三上祝に命じられ、それ以後、三上山を神の宿る神奈備山として、山頂の奥津磐座にて祭祀を執り行ったのだという。天之御影神とはどのような神だろうか?
「古事記」によれば、第9代開化天皇の3人目の妻・意祁都比売命との子である「日子坐王」の3人目の妻・息長水依比売が天之御影神の娘とされている。しかし、「近淡海(琵琶湖)の御上祝みかみのはふりが祀る天之御影神」と表現されていることから、実際には「天之御影神を祀る近江の御上祝の娘=息長水依比売」とみるべきであろう。天之御影神は天目一箇神と御同神で又は忌火神、二火一水の神と信仰され、火徳水徳の霊威あらたかで山頂を龍王様と呼んでいる。

 

遠賀川河口には岡湊神社があり、川を少し遡ると西の小高い丘陵地に島津丸山古墳群がある。丘陵上には数基の古墳があるが、丘陵中央に方墳があり、前方後円墳は丘陵の端にあることから、方墳の方が古いとされている。
岡湊神社の祭神は、「書紀」仲哀紀にも出てくるが、男神が大倉主、女神が菟夫羅媛である。この同じ祭神を祀っているのが、遠賀郡岡垣町の高倉神社である。高倉神社が本社、岡湊神社が下社の関係になっている。

この地域は、『先代旧事本紀』に記される「天物部等二十五部人同帯兵杖天降供奉」のうちの嶋戸物部に比定される。 同じく「筑紫聞物部」は遠賀川河口から東の企救に求められる。比定地には諸説あるが、芹田物部、筑紫贄田物部、あるいは、「副五部人為従天降供奉」の中の「筑紫弦田物部」と物部の故地と考えられる地域は遠賀川周辺に厚く分布している。

鞍手の熱田神社

熱田神社は、宮司さんの家に伝わる金川文書に、磐井葛子の弟「鞍橋の君」が住んでいたという古文書がある神社である。鞍橋ノ君は日本書紀にも記載されている弓の名手で、磐井の乱のあと、百済救済の戦に参加して功績を挙げた勇士である。

「アタ」は「阿多」「阿太」「阿田」「英多」とも記されるが、後には「熱田」とも記されるようになった。草薙剣が納められた熱田神宮、すなわち吾田神宮もしくは阿多(阿太)神宮は、もともと吾田の地にあった。

金川文書の記述

  • 葛子と鞍橋の君は、磐井の子であり、鞍橋君が弟である。
  • 磐井は 大彦(孝元天皇の弟)の血をひく、筑紫国造である。
  • 磐井も筑紫の君と呼ばれ、鞍橋君も筑紫君である。

  磐井の乱では、新北の物部氏が大和朝廷側に入って戦っている。鞍橋神社がある長谷地域や熱田神宮古宮があった新北地域が、大和朝廷側の拠点であったかもしれない。

筑紫国造は、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。

成務天皇の頃の国造
筑前国 筑紫国造 つくし 日道命(成務天皇期) 筑紫氏(君・公) 筑前国・筑後国
豊国造 とよ 宇那足尼(成務天皇期) 豊氏(直) 豊前国北部
国前国造 くにさき 午佐自命(成務天皇期) 国前氏(臣) 豊後国北部
大分国造 おおいた (記載なし)大分氏(君) 豊後国東部
比多国造 ひた 止波足尼(成務天皇期) 豊後国西部
筑志米多国造 つくしのめた 都紀女加命(成務天皇期) 筑紫米多氏(君) 肥前国東部
末羅国造 まつら 矢田稲吉命(成務天皇期) 肥前国北部
葛津国造(葛津立-) ふじつ 若彦命(成務天皇期)
天草国造 あまくさ 建嶋松命(成務天皇期) 肥後国天草
古事記の神武記には神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とし、その第2子で火君・阿蘇君・筑紫連三潴と兄弟である建弥阿久良命(たけみあくらのみこと、建彌阿久良命)が初代(高屋)大分国造だろうと考えられている。

尾張の熱田神宮摂社の高座結御子神社

熱田神宮の北約800mにあり、熱田神宮の境外摂社になっているが、名神大社格の式内社である。
元禄12年(1699)「熱田宮旧記」によると、
・高蔵宮  方七十五間、南天門道幅二間長二百三十六間、西花表道幅六間長九十五間、華表際五本松、東西十間、南北十二間
境内は135m四方、南天門道は幅3.6m長さは425m。西花表道は幅10.8m、長さ171mであった。熱田神宮の本宮には及ばないものの広大な敷地であったことがわかる。祭神については、『熱田神宮史料』に収められた古記録によると、熱田大神の御子神として、成務あるいは仲哀天皇とする記録がある。熱田大神を日本武尊とし、その御子だからと言うことになろう。

「熱田神宮記」には、
・高座結御子神社  旗屋村鎮座
式内名神大、祭神日本後紀承和二年預名神熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス、即尾張国魂神是也、越後国蒲原郡ニモ坐シテ弥彦神ト申ス、コレ皇大神ノ孫神ノ御子ナルカ故ニ弥トハ申スナリ、国内神名帳正二位高座結御子名神、末社四社アリ

火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とあるのは、高座結御子神社が独自に持っていた社伝であり、上記引用の「熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とは、熱田神宮側の主張とを折衷したものと考えられる。

遠賀式土器など出土

高座結御子神社は熱田神宮の北約800mにあり、それを囲むように高蔵遺跡が広がっている。

 まず往古の熱田台地は海に突き出た半島状であって、高蔵遺跡はこの熱田台地の東端に所在する。縄文晩期の遺跡も存在するが、弥生前期集落とは時間的な断絶があり、直接的な関わりは考えられない。この弥生前期の遺跡から遠賀川系土器が出土する。いわゆる汎西日本的共通の特徴を持つ一群と在地化した遠賀川系土器が出土するが、主に前者が出土する。発掘調査では弥生中期にはやや薄いが後期前葉には、キ龍文鏡の鏡片が出土する。
 キ龍文鏡は前漢末とされている。列島では類例が少ない。以下に完形および、破鏡の出土地を示す。福岡・佐賀に核がある。高蔵遺跡・朝日遺跡にもたらされた経路は不明だが、東海の窓付き土器が北部九州にももたらされていること、巴形銅器が朝日遺跡でも作られることから、東海と北部九州の交流・往来は想定できるから、この高蔵遺跡のキ龍文鏡もまた北部九州からもたらされた蓋然性は高い。

石上神社 境外末社 神田神社(こうだ)
祭神は高倉下命(たかくらじ)
平成2年天理市三島町から現在の場所に遷された。旧社地には、神田1町歩を有し た。

物部一族の高倉下(たかくらじ)が熊野山中で神日本磐余彦(神武天皇)に献上した刀剣・韴霊(ふつのみたま・布都御魂大神)は、神天皇即位後、高倉下の義弟にあたる宇摩志麻治命の手で宮中に奉祀された。この際、宇摩志麻治命が父の鐃速日尊から継承した十種瑞宝(布留御魂大神)も祀られた。その後、第10代崇神天皇の時代に、韴霊と十種瑞宝を石上布留高庭にうつしたのが石上神宮の創祀といわれる。

伊予の布都神社
所在 愛媛県西条市石延
社名 布都神社(鎮座年月不詳)
祭神 布都主神 外六神一座、及び秘密

当社は延喜式に載する古社(伊予二十四社、周桑 東予市に三社)の内の一社である。仁寿元年(八五一) 正六位、天安二年(八五八)九月二十一日正五位下を 授けられる。文武帝から光孝帝(六九七~八八六)の 十帝の間に六十二回の勅願有りと社記にあり、位 階を給ること十二度と記されている。往時四丁四方 の境内に美麗を極めた社殿が建立されていたと云う。 興国三年(一三四二)阿波の将、細川頼春の侵攻により 焼失、後、数回遷座し現在位置に小社を建立し祀る。 石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔あり、布 都神社の本殿跡と伝えられる。

創祀年月は不詳。

祭神の「秘密祭神」に関しては、古来色々と考証されており、素盞嗚尊ではないか、とする説がある。これは、当社の東500mの佐々久山が「如龍蛇」と形容され、龍蛇退治をした素盞嗚尊の霊剣に関係するとする伝承による。

志賀剛氏によれば、当地周辺は、中古、津宮郷と呼ばれ、これは布都宮の略。また、地名を石上里としていたが、石ノ辺「伊志乃倍」が石延の字になった。つまり、大和石上神宮と同じ社であると考えられている。

伊予国風土記では天から山が2つに分かれて落ち、
一つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり
もう一つが大和国「天加具山」になったとの伝承があるt
大和三山の中で最も神聖視された山で、そこから「天の香具山」とも呼ばれている。

大和國十市郡 天香山坐櫛眞命神社
大 月次新嘗 元名大麻等乃知神
御祭神 櫛眞命
延喜式 京中 卜庭神・久慈眞智命神の本社にあたる。大和國十市天香山坐櫛真命神。延喜式に葉「元名大麻等乃知神」とある古社。

『日本書紀』神武天皇紀に、神武天皇東征の折、菟田の八十梟帥を征討する時に、天神が夢に現れ「天香山の杜中の土で平瓫、厳瓫を作り天神地祇を敬祭せよ」と教えたとあり、当社は神武天皇が縁の社とされている。
国常立神社
天香久山山頂に鎮座。祭神は国常立尊。俗に 雨の竜王と称し、寛政一〇年(一七九八)の石灯 篭に「天香山竜王」と刻す。「五郡神社記」に「天香山坐櫛真智命神社一座、在神戸郷香山村山頂 但東南」とあり、十市郡の式内社天香山坐櫛真 命神社とする説がある(大和志料)。本居宣長の 「菅笠日記」には次のように記す。
この峯に竜王の社とて、ちひさきほこらの あるまへに、いと大きなる松の木の、かれ て朽のこれるがたてる下に、しばしやすみ て、かれいひなンどくひつゝ、よもの山々 里々をうち見やりたるけしき、いはんかた なくおもしろきに、のぼりたち国見をすれ ば国原は、なンど、声おかしうて、わかき 人々のうちずしたる。

高倉下七世の孫が倭得玉彦

建諸隅命:たけもろすみのみこと
邇芸速日命七世の裔孫で、建田背命の子。孝霊天皇の時、大臣となって輔弼の任務に尽くした。諸見己姫を娶って倭得玉彦を生んだ。

日本得魂命の妹は大倭姫命亦の名を天豊姫命とする。天豊姫は竹野姫命とも言い、九代開化の妃でもある。日本得魂命は開化の皇子、彦坐王(日子坐王)に従って陸耳御笠を討つ。崇神天皇の時代である。

『勘注系図』に彦田田須美という名前を見る。ただし『勘注系図』からは彦田田須美がどのような人物か何も知りえない。これは『古事記』が比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)とする丹波道主王のことである。

道主が府を置いた場所は京丹後市峰山町で船岡神社の境内の場所が館の在った所とされる。近くに比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)という、豊受大神を祭る古い神社がある。道主の子、八乎止女(やおとめ)が比沼麻奈為神社の斎女となったとされ、雄略天皇の時代、この比治真名井原の比沼麻奈為神社から、豊受大神を伊勢山田原に移し祀ったのが伊勢神宮の外宮とされる。

丹波道主がこの地で娶ったのが、川上麻須の子川上麻須郎女(かわかみますのいらつめ)で五人の女の子が在ったとされる。その内の一人が日葉須媛である。

ということは、

建諸隅命—–建田背命ー建諸隅命ー倭得玉彦(妹は竹野姫)ー?

なお『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、日本得魂命の妻は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)と、伊賀臣(いがのおみ)の先祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻とする。

物部伝承

物部氏の祖神、饒速日命(にぎはやひ)が鞍手の南域、宮田に祀られる。六ケ岳の南麓、磯光の「天照神社」は粥田荘の惣社。祭神は天照国照彦火明櫛玉饒速日尊。縁起では、饒速日命は宮田の笠置山に降臨したという。二十五部人の中の「二田(ふつた)物部」は鞍手の二田郷(新多)の在、「筑紫贄田(にえた)物部」は鞍手の新北(にきた)郷とされる。また、鳥見物部が遠賀の鳥見山、赤間物部は宗像の赤間、横田物部が嘉麻の横田、筑紫聞物部が企救郡の在とも比定されている。

六ケ岳の南麓、犬鳴川に沿うあたりの鞍手郡宮田町大字磯光字儀長に天照神社が鎮座する。祭神は天照国照彦天火明櫛玉餞遠日尊である。

劔神社

福岡県直方市下新入にある神社。遠賀川流域は物部氏のゆかりの地域である。倉師(くらじ)大神から高倉下を祀る神社とされる。祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命」(孝元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀ると云う。田道の命の橘孫「長田彦」が、神官となった。

「天の安の河の河上の天の石屋にます、名は伊都の尾羽張の神、これ遣はすべし。もしまたこの神ならずは、その神の子建御雷の男の神、これ遣はすべし。(後略)」とまをしき。》とあり、「伊都の尾羽張の神」が出現する。
伊耶那岐命が伽具土神を斬る所の刀の亦の名こそ、「伊都之尾羽張(イツノヲハハリ)」と謂う、とある。「伊都」が地名である可能性がここにある

古物神社フルモノ
筑紫の鞍手の平野に剣岳とよばれる標高120mほどの孤丘が聳える。山頂に剣大明神を祀り、山北を古く、剣(つるぎ)村とよんだ
この山を中心に「剣(つるぎ)」の社(やしろ)が里々に鎮座する神祇。鞍手北域、新延の剣神社、木月の劔神社、小牧の八剣神社。古門の古物神社は八幡宮であるが、剣神社が合祀されている。

神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行が熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

宗像三女神と崎門山(さきと)
宗像大社に祭られている三女神が最初に降臨した場所として考えられている場所のひとつ。福岡県鞍手郡鞍手町室木。かつては宗像大社と同じく宗像郡。六ケ岳に崎門山がある。

埼門山は、岩波古典文学大系(以下、岩波古典大系本) の『風土記』 の頭註に、福岡県宗像郡の北端、鐘ノ岬とされている。『地名辞書』にも、崎門山は鐘ケ崎(鐘崎) の古名であろうとしているが、『鞍手町誌』には六ケ岳を崎戸山に比定している。山麓の鞍手町室木にある六ケ岳神社の祭神は宗像三女神を祀り、土地の人は三柱様と呼んでいるそうである。

『筑前国風土記逸文』
「西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまし て、埼門山に居ましし時、青(に)の玉を以ちて奥津宮の表に置き、八尺(に)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三 つの表を以ちて神のみ体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と日ふ。其の大海命の子 孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々」

『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』


景行天皇記の上毛野、物部の祖 夏花命

日本書紀 景行天皇
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。


夏羽と田由津媛の兄妹  高良山周辺

日本書紀 神功皇后
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。
25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

参考:香春の若八幡神社

平安京内の神社について、 『延喜式』神名帳は次のように書いている。 京中坐神三座、 〈並大〉
左京二条坐神社二坐、 〈並月次・相嘗・新嘗〉
ふとのとのみこと
太詔戸命神、 〈本社、大和国添上郡、対馬国下県郡太祝調神社〉
久慈真智命神、 〈本社、坐大和国十市郡天香山坐櫛真命神〉 同京四条坐神一座、 〈月次・新嘗〉
隼神社 左京二条に太詔戸社と久慈真智社の二座、左京四条に隼神社一座が和られていたという

のである。このうち隼神社は、金剛寺本『延喜式』の頭書に「延」とあり、 『延喜式』で 官社に列したと考えられるから、初期平安京に存在した京内神は太詔戸神と久慈真智神の 2社で、あったことになる。

久慈真智社 『新撰亀相記』に「櫛間智神社Jは「母鹿木神也」とあるので、この神は亀
卜に用いる波波迦(主議議ら)の神である。 『延喜式』神名帳の大和国十市郡に「天香山坐 櫛真命神社」がみえ、現在は天香久山北麓の橿原市南浦町に天香久山神社が鎮座している。 この天香久山神社の本殿には久慈真知命と太詔戸命の 2神が和られていたという(猪熊兼
繁 1939年)。 『新抄格勅符抄』神封部には、
櫛麻知乃命神、一戸、大祝詞命神、一戸、 〈大和国、天平神護元年奉充〉 とあり、櫛麻知神と大祝詞神が並記されているので、両神は平安時代と同様、奈良時代に も同所に和られていたと推定できる。

高倉下を祀る神社

筑前鞍手 剣神社「倉師大明神 伊邪那岐命、伊邪那美命 ほか」直方市下新入字亀岡2565 倉師は高倉下のくらじ
筑前鞍手 鞍橋神社「?」 鞍手町長谷 白鳥
筑前遠賀 高倉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡岡垣町大字高倉1113
筑前遠賀 今泉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡遠賀町大字別府字宮前
筑前遠賀 岡湊神社(高倉神社の下宮)「大倉主命」遠賀郡芦屋町船頭町12-48
豊前企救 八坂神社「須佐之男命、櫛名田姫命、天之菩卑命 配 大倉主命 ほか」北九州市門司区大字今津字丸山378

遠賀郡岡垣町の神社

須賀神社 
福岡県遠賀郡岡垣町吉木2457番

白峯神社 
福岡県遠賀郡岡垣町海老津63番

嚴島神社 
福岡県遠賀郡岡垣町黒山737番

春日神社 
福岡県遠賀郡岡垣町黒山1701番

大年神社 
福岡県遠賀郡岡垣町波津791番

天満神社 
福岡県遠賀郡岡垣町海老津835番

大國主神社 
福岡県遠賀郡岡垣町手野1306番

荒平神社 
福岡県遠賀郡岡垣町上畑797番

須賀神社 
福岡県遠賀郡岡垣町野間219番

若宮神社 
福岡県遠賀郡岡垣町内浦1125番

須賀神社 
福岡県遠賀郡岡垣町糠塚480番

高倉神社 
福岡県遠賀郡岡垣町大字高倉1113

景石神社 
福岡県遠賀郡岡垣町波津1073番

高倉神社 
福岡県遠賀郡岡垣町大字高倉1113

藤神社 
福岡県遠賀郡岡垣町戸切577番

高倉神社 
福岡県遠賀郡岡垣町高倉1113番

龍神社 
福岡県遠賀郡岡垣町戸切字龍王1192番

嚴島神社 
福岡県遠賀郡岡垣町手野55番

大原神社 
福岡県遠賀郡岡垣町原695番

氏森神社 
福岡県遠賀郡岡垣町山田931番

熊野神社 
福岡県遠賀郡岡垣町吉木1554番

山崎神社 
福岡県遠賀郡岡垣町三吉735番