馬韓

馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓、南方は倭に接していた。

『馬韓』の王は「辰王」という称号も持ち、「辰王」は『馬韓』領内にある「月支国」に首都をおいて、『弁韓』と『辰韓』を統治していた。このあたりの経緯を、『魏志』は、「辰王には常に馬韓の人を用いて之を作(た)て、代々相継ぐ…」と記しています。「辰王」は世襲だった。

『殷』が『周』に滅ぼされたあと『殷』の最後の皇帝・紂王の叔父であった箕子は、河北から東北に遷居し、『朝鮮』(=箕子朝鮮)を建国します。
この『朝鮮』は、箕子の徳の高い国家経営が実り、満州一帯にまで版図を拡大し、以降800年間にわたり、『箕子朝鮮』は「殷賑」をきわめた国家でありました。
ところが、41代哀王(準・BC220年~BC194年)は、燕人・衛満に王権を簒奪されて 『箕子朝鮮』は滅び、『朝鮮』という国家は、『衛氏朝鮮』の時代に入る。
衛氏朝鮮の横暴が武帝の逆鱗に触BC108年、衛氏朝鮮は滅ぼされる。
漢は、衛氏朝鮮の故地に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡を置く。

『後漢書』弁辰伝によると
「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」
「初め、朝鮮王準は衛満に破れると、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻め、これを破り、韓王として自立した。」

衛満に敗れた箕子朝鮮の最後の王・準王は逃亡し、馬韓を攻め落として、韓王となって馬韓を支配した、ということ。
あの『殷』の末裔が、『百済』の母体である『馬韓』に入ってきて王になった。

馬韓には、殷の王族の文化や知識がひきつがれたであろう。
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「後漢書東夷伝」の序文の末尾には、箕子朝鮮について次のように書かれています。
昔、箕子が殷の衰運を避けて朝鮮に移住した。それ以前の朝鮮の国の風俗については、何も伝えられていない。箕子の八条の規約が行われるようになって、朝鮮の人々に掟の必要なことを教えた。その結果、村にはみだりに盗むものがなく、家々は夜も門に閂(かんぬき)する必要がなく、箕子以前には頑迷無知な風俗によっていた人々も、ゆったりと大まかな法にしたがうようになった。この法は七、八百年も続き、それゆえ東夷諸種族は、一般に穏やかに行動し、心に謹しむことを慣習としている。この慣習が、東夷と他の三方の蛮夷との異なるところである。すくなくとも政治のゆきわたったところでは、道義が行なわれる。……省略……後に、中国との交易によって朝鮮との交通が次第に開け、中国王朝と交渉するようになったが、燕人の衛満は、その慣習を乱した。これより朝鮮の風習も次第に軽薄になった。老子は、「法令が多く出されることは盗賊が多く居ることだ」と言っている。箕子が条文を簡略にし信義をもってこれを運用したことは、聖賢が法律を定める基本を確立したものというべきである。(井上秀雄訳)

殷を滅ぼした「周」は幽閉されていた胥余を死罪にする大義名分は無く、しかし智勇兼備で民衆の支持が高い胥余が反乱を起こす事を恐れ東の果てに左遷しました

左遷された胥余は殷の遺民と共に王倹に行政府を置き礼儀や農事・養蚕・機織・青銅など先端技術を朝鮮内に広め「犯禁八条」という法律を定め統治したと謂われています