隅田八幡宮人物画像鏡銘文

【隅田八幡宮人物画像鏡銘文】
銘文は
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時
斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

鏡の外周に沿って刻まれている。

【隅田八幡宮人物画像鏡銘文の解釈】
古田武彦氏は30年ほど前に著した「失われた九州王朝」で、隅田八幡宮人物画像鏡が誰から誰に送られた物かを銘文を解釈することによって明らかにしていた。

古田氏の解釈

●「癸未年八月」:503年8月
●「日十大王年」:九州王朝の天子、年という漢風諡号をもつヒト大王
●「男弟王」:日十大王年の弟。九州王朝=俀国が兄弟統治をおこなっていたことは隋書俀国伝に記載されている。
●「在意柴沙加宮時」:石坂宮に都があった時に
●「斯麻」:百済武寧王(在位:502年~523年)
●「念長泰」:永く平和が続くことを念じて
●「遣開中費直穢人今州利二人等」:開中費直(安羅日本府の要人)、穢人今州利(百済国の官人)のふたり等を派遣して
●「取白上同二百旱作此竟」:上質の白銅二百旱を用いてこの鏡を作った

「503年8月、高句麗との抗争を繰り返していた百済武寧王は、倭国との関係を良好にしておくために、倭国九州王朝のヒト大王年と男弟王に対して、都が石坂宮にあった時に、開中費直と穢人今州利のふたりを派遣して、上質な白銅を用いた鏡を作り、倭国の平和な状態が長続くように念じてこの鏡を作らせた」

【疑問点】
「ヒト大王年」について
「梁書」によると、
502年倭王武は梁高祖武帝から征東将軍に任じられている。その翌年の503年の倭王の名前が「年」だとすると、
武は502年に崩じたことになる。あるいは、「日十大王年男弟王」は「日十大王年」=「男弟王」で、
倭王武の弟王が「日十大王年」だと解釈した方が良いかもしれない。