阿波の穴吹町、伊射奈美神社、

伊射奈美神社(イザナミジンジャ)

国生み神話の女神をまつる神社です。 イザナミを社名とする式内社は、阿波国のみです。この神社は以前は吉野川に浮かぶ中鳥島というところにあり、千数百年もの間、度重なる洪水にもここだけが被害にあわなかったと伝えられている。所在地 〒771-2107 徳島県美馬市美馬町中鳥338

古事記に伊邪奈美命(いざなみのみこと)は「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺との比婆山に葬りき」と書かれているから,伊邪奈美命(いざなみのみこと)は,亡くなると山に葬られた。そして夫の伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)は,葬られた伊邪奈美命(いざなみのみこと)に会うために比婆山へ行った。

阿波古事記研究会によれば

 『古事記』の物語は,徳島県内の地名に当てはまる所が多く,上記の物語は,徳島県の山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台として繰り広げられた物語と考えられる。
平安時代に書かれた『延喜式(えんぎしき)神名帳』(九二七年)には,全国に一社のみ,伊射奈美(いざなみ)神社が記録され,徳島県美馬市以外にはない。
黄泉(よみ)の物語は,この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり,高越山(こうつざん)を経て「カズラを投げたら実が生った」と書かれる上勝町には,雄中面(おなかづら)・生実(いくみ)の地名があり,相生町竹ケ谷の旧八面(きゅうやつら)神社には,「櫛(くし)から竹の子が生えた」と書かれる竹を型取った燈籠(とうろう)がある。「桃を投げた」と書かれる丹生谷(にゅうだに)地域には,百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり,神社には桃を型取った木彫りや瓦がある。また,相生町には,昔からヨミ坂と呼ばれる坂もある。
黄泉(よみ)の坂を逃げ帰った伊邪那岐命が,四国最東端の阿南市見能林町(打樋(うてび)川)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると,天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。
以上のことから,この大岩群は『古事記』等に書かれる「千引(ちびき)の岩(いわ)」にあてはまる。
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_03.html

式内社 伊射奈美神社

旧村社 鷹の羽違い
徳島県美馬市穴吹町にある。
穴吹駅の西1Kmほどの舞中島に鎮座。

祭 神
伊射奈美命 武甕槌命 経津主命 猿田彦命
明治四十三年(一九一〇)に舞中島の武田神社 若宮神社 横野神社 大柳神社 稲荷神社 建神社を合祀した
由緒沿革
延暦七年(七八八)に国司の奉幣があったと伝えられている(以上徳島県神社誌)
当神社は岡本監輔著「名神序頌」によれば貞観中 (八五九~八七七)に創建されたと記され また三大実録に貞観十年(八六八)三月十二日 阿波国正六位伊奘再神に従五位下を授くと載すとある
延長五年(九二七)式内伊射奈美神社に比定された
幕藩時代に十二社大権現と称し明治十二年(一八七九)に 十二所神社と称したが昭和になって伊射奈美神社と改めた
応永三年(一三九六)、天文元年(一五三二)など棟札が 収蔵されており応永三年の棟札は穴吹町最古の棟札である
なお尾山十二所神社は当社の奥社である(穴吹町誌)
-社前案内石碑より抜粋-

式内社 阿波國美馬郡 伊射奈美神社
旧無格社 御祭神
伊弉諾命 伊弉冉命 國常立命 大山祇命 月讀命 金山彦命
徳島県美馬市穴吹町にある。
穴吹駅の南西500m、尾山と呼ばれる山の上に鎮座。
丸に卍の紋
当社の創建は不詳。
『阿波志』によると、式内・伊射奈美神社の論社。同じく論社である伊射奈美神社が穴吹町舞中島にあり、かっては、当社と同じ十二所神社と称していた。現在、当社は舞中島鎮座の伊射奈美神社の奥宮となっている。

鏡神社 伊弉冉尊を祀る元和元年柳川家の傍の古墳を 発掘、宝鏡銀輪五百箇御統瓊曲玉焼物四外 五色の土剣外一二件が出土十二所神社へ納めた。岡本監輔は名神序領に「蓋し太古の人冉尊ここ に出るを記し特にこれを祀り以て追慕の念を寓せし也」

阿波市 勝命神社 (かつみょう)
阿波市 阿波町勝命北に鎮座
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)

「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041-1111)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。

日本書紀 一書に
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。

その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。   wikipediaより

この神社は文化年代に菊理社と称えていたが、天保期の文書に、菊理または九栗と記され嘉永年間より古称に復して九栗と呼ぶようになったという。「徳島県神社誌」

大和の率川阿波神社
 率川神社(子守明神)
御祭神 玉 櫛 姫 命  右殿(御母神)
媛蹈鞴五十鈴姫命 中央(御子神)
狭 井 大 神  左殿(御父神)
御例祭 六月一七日午前十時 三枝祭(ゆりまつり)
当神社は、推古天皇元年(五九三年)に 大神君白堤がお祀り申上げた奈良市に 於ける最古の神社であります。
三枝祭とは白酒、黒酒の酒樽に、本社 三輪山でとれた笹百合の花(古名さいくさ)を 飾ってお祭りするところから起こった名前。 文武天皇、大宝年間(七〇一年)から伝わる 古式の神事で、お供えの百合の花は 疫病除けとして参拝者きそって乞い受 けるものであります。尚当社は古来(子守明神さん)安産、育児の 神として篤い信仰をあつめております。
阿波神社(えびすさん)
御祭神 事代主神(奈良最古のえびすさん)
御例祭 六月一七日
初 戎 正月五日

式内社 大和國添上郡 率川坐大神御子神社三座
大神神社摂社
御祭神
姫蹈鞴五十鈴姫命
玉櫛姫命 (御母神) 狹井大神 (御父神)
境内 式内社
大和國添上郡 率川阿波神社 率川阿波神社 事代主神
奈良市内にある。近鉄奈良駅から南に向う道。案内も出ている。三棟並んだ本殿が美しい。
通称は、子守明神。
古くは、率川宮、春日之伊邪河宮、率川社、率川大神御子守神社、子守社とも称し
明治までは、春日大社の摂社だったが、
明治八年、当社の所属をめぐり、春日大社と大神神社の間で論争が生じ
明治十二年、正式に大神神社の摂社となった。

式内社・率川坐大神御子神社三座に比定されている古社で、
中殿に姫蹈鞴五十鈴姫命、右殿に玉櫛姫命、左殿に狹井大神を祀る。
ただし、以前の祭神は異なっており、
一御殿(東端)に率川明神、二御殿(中央)に子守明神、三御殿(西端)に住吉明神、
あるいは、第一に開化天皇、第二に子守神、第三に住吉神。
明治の初めの頃は、稚日本根子彦大日日命、伊邪那岐命、住吉大神であった。当社で購入した御守りに三杉紋が刺繍されていたので神紋は杉紋だと思う。