阿波の一宮、天太玉、天日鷲

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)

徳島県鳴門市大麻町板東にある神社。式内社(名神大社)、阿波国一宮。
主祭神 大麻比古神 – 天太玉命のこととされる
配祀神
猿田彦大神 – 古くから大麻山に祀られており、のちに合祀されたされる

ウィキペディアによると

卜部の付会と圧力
『日本の神々 山陽・四国』によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。
『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども・・・」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。

『日本書紀』の神代巻
阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみ)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。

明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。

同書では、神話において、天孫降臨に五伴緒の一人として随伴した天津神の天太玉命と、その行く手に現れた国津神の猿田彦大神は本来別系統の神であり、本質的には対立する関係の両神が同一社地に祀られている理由は必ずしも明らかではないと述べる一方で、猿田彦大神が祀られた事情を次のように推測している。

下立松原神社の忌部氏系図では大麻比古命は別名を津咋見命、その娘を千鹿江比売命としているが、この神性は「津咋霊(ツクイミ)」と「近江(チカエ)」でいずれも港に関係した名を負う神である。当社の場合、忌部氏勢力の衰退と共に津咋見命の性格が忘れ去られて行き、経済の発展と共にますます重要視されてきた港の神・交通の神としての機能が特に残ったものと考えられる。忌部氏が没落すると、室町時代に民間流行した庚申信仰により、巷の神・交通の神である猿田彦大神の神性が付会されたのであろう、としている。

上一宮大粟神社
大宜都比売命 またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
『延喜式神名帳』に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の論社の一つである。天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所となり、元暦2年(1185年)には正一位の神階を授けられた。平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。

忌部神社
忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県徳島市二軒屋町にある神社である。式内社(名神大)の後継社で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。

『延喜式神名帳』に載せる「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していたが、中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張していたため、明治4年(1871年)に暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格し、翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定した。これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張し、翌々7年(1874年)に改めて山川町の忌部神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更したが、今度は山崎側が大いに反発し、結局太政官による妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定めるという通達を出し、同18年(1885年)に眉山中腹の現在地を選定、そこに鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892年)5月15日に現在地に遷座した。

『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。

『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。

忌部神社(いんべじんじゃ)

徳島県吉野川市山川町にある神社である。式内社(名神大社)の論社で、旧社格は村社(一時国幣中社)。

『延喜式神名帳』の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神。」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかるが、現在の祭神は以下の通りである。

天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるや)(天日鷲命)
当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神である。
后神 言筥女命(いいらめのみこと)
主祭神の后神であろうが、他に見えない。
天太玉尊
忌部氏の祖神である。
后神 比理能売命(ひりのめのみこと)
天太玉尊の后神である(洲崎神社・洲宮神社参照)。
津咋見命(つくいみのみこと)
『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作ったことが見えるが、天日鷲命の子神で大麻比古神社の祭神「大麻比古神」の別名とする伝えもある
長白羽命(ながしらはのみこと)
同じく『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。
由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)
安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子とされる。
衣織比女命(いおりひめのみこと)
他に見えず。

当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。当初はこの「黒岩」の地にあったが、応永2年(1395)地震にて社地崩壊し現在地に遷という。
戦国期以降衰退し、享保12年(1727)には種穂神社(吉野川市山川町川田忌部山の種穂山山頂)の早雲民部という神職が、当社神職村雲勝太夫を放逐して横領し、元文年間(1736-41)には同神社に忌部神を併祭するようになり、その子である式部が争論を怖れて当神社を焼き払ったが、旧山崎村(現 山川町北東部一帯)村民の請願により、寛政13年(1801)に早雲式部を罷免し、村雲勝太夫の孫娘に養子をとり、神職を継がしめたという。
式内忌部神社は、長く不明であった。江戸期に吉野川市山川町山崎の忌部神社が式内社に比定され、明治5年、国幣中社に指定された。