阿曇連、

新撰姓氏禄
「阿曇宿禰 海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の後 (すえ)なり」

日本書紀にみる安曇氏の系譜
1.神代上巻第一第五段
伊装諾尊、が黄泉から逃げ帰って川で祓ぎ除った時に、多くの神を 生んだ。そして「又海(わた)の底に沈(かづ)き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、 号けて底津少童命と曰す。次に底筒男命。又潮の中に潜き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、号けて中 津少童命と曰す。次に中筒男命。又潮の上に 浮き濯ぐ。因り生める神を、号けて表津少童命と曰す。次に表筒男 命(うわつつのをのみこと)。凡(すべ)て九の神有(いま)す。其の上筒男命・ 中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神(すみのえおおかみ)なり。底津少童命・中津少童命・ 表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。

肥前風土記
景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足(あづみ みらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土 蜘蛛がいた。そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天 皇は恩情をかけ、赦免したとある。その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は 牛や馬を多く所有しており、容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異な っていると記述している。

『日本古代の軍事航海史(松枝 正根) かや書房』
新羅出征に際 し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集 まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬 の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」と記述している。

応神天皇紀 (270~313 年) 273 年
日本書紀によるとこの年、『処処の海人、訕彧(さばめ)きて命に従わず。則ち(すなわち) 阿曇連の祖大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして、其の訕彧を平ぐ。因りて海人の宰(あ まのみこともち)とす』とある。
275 年
日本書紀によると、「諸国に令して、海人(あま)及び山守部(やまもりべ)を定む」 「伊豆国に科(ふれおおせて)、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)。船既に成りぬ。試みに 海に浮く。便(すなわ)ち軽く泛(うか)びて疾(と)く行くこと馳(はし)るが如し。故 (かれ)、其の船を名けて枯野(からの)と曰ふ。」とある。

『日本古代の軍事航海史(上、52 頁)
「応神天皇は、 三人の皇子にそれぞれの職の分担を定め、皇子大山守命を山海を担当する総宰にしている。 そして阿曇連および凡海連を副総宰とし、吉備、紀伊、但馬、播磨、阿波等の諸国にそれぞ れ海直(うみのあたい)を置いた」と記述している。

住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ[1]/すみのえのなかつおうじ、生年不詳 – 仁徳天皇87年1月頃)
『日本書紀』では「住吉仲皇子」「仲皇子」、『古事記』では「墨江之中津王」「墨江中王」と表記される。

『日本書紀』履中天皇即位前条
仁徳天皇87年1月に天皇が崩御したのち、皇太子で兄の去来穂別(いざほわけ:のちの履中天皇)が黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を妃にしようと思ったが、仲皇子が去来穂別の名を騙って黒媛を犯してしまった。仲皇子は発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し焼いた。しかし去来穂別は脱出しており、当麻径(現・大阪府南河内郡太子町山田と奈良県葛城市當麻を結ぶ道)を通り大和に入った。この時、仲皇子の側についた阿曇連浜子の命で後を追った淡路の野島の海人らは、かえって捕らえられた。また、仲皇子側であった倭直吾子籠も去来穂別に詰問され、妹の日之媛を献上して許された。

その後、瑞歯別(みずはわけ:のちの反正天皇)が去来穂別に対して、仲皇子が孤立していることを告げたところ、去来穂別は瑞歯別に殺害を命じる。瑞歯別によって仲皇子近習の隼人である刺領巾(さしひれ)が寝返り、仲皇子は厠に入ったところを刺領巾に矛で討たれたという

葛城氏を背後に擁していた仁徳、履中、反正側に対する、住吉仲皇子と近江の息長氏を背後に擁する住吉仲皇子・允恭連合側との間でし烈な王権争いがあったのではないか?

第15代仁徳天皇皇子で、生母は葛城襲津彦の娘の磐之姫命。同母兄弟に履中天皇・反正天皇・允恭天皇がいる。

履中天皇紀(400~406 年) 401 年
日本書紀によると、仁徳天皇死去に伴い、仲皇子は、皇太子を殺そうとして兵を興して皇太 子の宮を襲撃したが、皇太子は脱出した。その皇太子を追ってくる者がいたので問うたとこ ろ、「淡路の野嶋の海人なり。阿曇連浜子、住吉皇子の為に、太子を追はしむ」ともうす」と ある。阿曇連浜子は皇太子側の伏兵にあって捕まった。その後、皇太子は仲皇子を誅殺し、 即位した。そして阿曇連濱子に対し、「汝(いまし)、仲皇子と共に逆ふること謀りて、国家 を傾けむとす。罪、死に当れり。然(しか)るに大きなる恩(めぐみ)を垂れたまひて、死 を免(ゆる)して墨(ひたひきざむつみ)に科す」とある。 さらに、「亦(また)浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蔣代屯倉(こもしろのみ やけ)に役(つか)ふ」とある。

皇極天皇紀(642~645 年)
642 年 日本書紀によると、「百済の使人(つかひ)大仁阿曇連比羅夫(だいにんあずみのむらじひら ふ)、筑紫国より、駅馬(はいま)に乗りて来(まうき)て言(まう)さく、「百済国、天皇 (すめらみこと)崩(かむあが)りましたり聞(うけたまは)りて、弔使(とぶらひ)を奉 遣(たてまだ)せり。臣(やつかれ)、弔使に随ひて、共に筑紫に到れり。而るに臣は葬(み はぶり)に仕(つかえまつ)らむことを望(おも)ふ。故、先ちて独り来り。然も其の国は、 今大きに乱れたり。」とまうす」とある。 続いて、「阿曇山背連比羅夫(あずみやましろのむらじひらふ)・草壁吉士磐金(くさかべの きしいわかね)・倭漢書直県(やまとのあやのふみのあたひあがた)をして百済の弔使の所(も と)に遣わして、彼(そ)の消息(あるかたち)を問はしむ。」とある。 またこの年、「翹岐(げうき)(百済の大使)を召して、阿曇山背連の家に安置(はべ)らしむ。」とある。

645 年 日本書紀によると、「中大兄、即ち自ら長き槍(ほこ)をとりて、殿(との)の側(かたわら) に隠れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて為助衛(ゐまも)る。海犬養連勝麻呂(あまのい ぬかいむらじかつまろ)をして、箱の中の両の剣(たち)を佐伯連子麻呂(さえきのむらじ こまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかひのむらじあみた)とに授けしめて曰 く、「努力努力(ゆめゆめ)、急須(あからさま)にきるべし」といふ。」とある。

持統天皇(687~696 年) 691 年
日本書紀によると18氏に祖先の墓誌を上進させる
大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、阿曇

阿曇犬養連は、「海神大和多罪命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久(ほこつく)命の後なり」

安曇連 宇都志日金折(うつしひがなさく)命の後という

穂高見命、別名宇都志日金折命(古事記に記載)といわれている
古くにおいては宇都志日金折命といわれ、その後穂高見命といわれたとの説もある

阿曇氏の発祥の地

筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区 志賀島)を中心とした地域
式内名神大社志加海(しかわた)神社があり、神職は阿曇氏

安曇氏族

阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
海犬養連(あまのいぬかいむらじ)
凡海連(おおしあまのむらじ)
八木造(やぎのみやつこ)
阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)

筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀神社
壱岐・対馬 和多都美神社
豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫大津郡向津具村
隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷
西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載
播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足
讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、和多都美豊玉比賣神社、海部郡
淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
河内国 阿曇連等の地
山城国 阿曇宿禰等の地
近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
美濃国 厚見郡、厚見郷
三河国 渥美郡、渥美郷
信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥

以上の他に、肥前国、周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという