阿太加夜奴志多岐喜比賣と和加布都努志命

阿太加夜奴志多岐喜比賣を祀る神社は、

出雲・伯耆において米子市の阿陀萱神社、松江市東出雲町出雲郷の阿太加夜神社、出雲市の多伎神社、多伎藝神社と広い範囲で見られます。

1922年に出版された、島根県秋鹿村誌によると、高野宮(島根県松江市大垣町746)には、阿太加夜奴志多岐喜比賣(アダカヤヌシタギキヒメ)が祀られていたという。

高野山は、本宮山と改称し、現在にいたる。通称、高野宮も、高野山に鎮座していたことによる。また、祭神・下照姫命の別名、高姫命の宮という意味でもある。高宮、足高大明神、足鷹大明神とも。

式内・内神社とされている理由は、当地が、内野、あるいは、阿内谷という地名であったから。祭神・和加布都努志命は、大己貴命の御子で、出雲各地を巡行し、当地では猪狩りをしたという。

古来、別格扱いのお宮で、杵築や佐陀の支配を受けず、江戸時代には、国内の四祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)の一つであった

和加布都努志命は、大国主の子であり、出雲国風土記、秋鹿郡大野郷の由来に、

「和加布都努志命が、御狩をなさった時に、郷の西の山に、待ち伏せの人を立てられて、猪を追って北の方にお上りになったところ、阿内谷にくると、その猪の足跡がなくなってしまった。その時、おっしゃったことには、「自然に消えたのだなあ。猪の足跡がウス(なくなった)」と仰せられた。だから、内野という。ところが今の人がやはり誤って大野と言っているだけのことである」とある。また、出雲郡美談郷では、「この世をお造りになった大神の御子、和加布都努志の命が、天と地が初めて分かれた後、高天原の御領地の田を管理する長として、ご奉仕になった。その神が郷の中に鎮座しておられる。だからミタ(御田)をミル(見る)意で三太三という」

とある。

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阿太加夜奴志多岐喜比賣を祀る高野宮

内神社は本村大字大垣にあり。式内の古社にして、出雲国風土記に宇知社と見え、延喜式神名帳には、秋鹿郡十座(並小)内神社と見える。和加布都努志能命及び下照媛命を奉祀せり・・・

御鎮座:当社は風土記に所謂、女嵩野山の山腹にありて、天下造らしし大国主神の御子、和加布都努志命のこの山にて御狩したまへりし、御由緒に拠りて鎮座したまへり。

又、同じ大神の御子高姫命(亦名下照比売亦名雅国玉神亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣亦名大倉比売)は素よりこの山に座し、神なるが故に、同じく当社に祀れるなり。

亦この神が座せる故に、古来女嵩野の山塊を総称して、別に高野山あるいは芦高(アタカ)山と呼び、随いて、当社を高野宮または、蘆高宮(八束郡出雲郷村阿陀加夜神社は即ち、阿太加夜奴志多岐喜比賣に座し、明治維新まで蘆高大明神と称せり)よも称し奉る、

島根県秋鹿村誌