銅鏡、同笵鏡、内行花文鏡

三角縁神獣鏡の同範鏡をもつ古墳

三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳11面、福岡県石塚山古墳7面以上、大分県赤塚古墳5面、兵庫県吉島古墳4面、山口県竹島古墳2面、福岡県那珂八幡古墳1面の順になる。

尾張国造の領域で最古の古墳は愛西市(旧海部郡佐織町)の奥地社古墳(径25メートルの円墳)とされている。墳頂に奥津神社が所在し、神社所蔵の3面の三角縁神獣鏡が椿井大塚山古墳出土の銅鏡と同笵鏡関係にあることが判った。このことから4世紀前期の古墳であると推定できる。

桜井茶臼山古墳
桜井茶臼山古墳から出土した三角縁神獣鏡の破片の一つに、「是」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である

正始元年(240)の年号が記された鏡は、上記の蟹沢古墳の他に森尾古墳(兵庫県富岡市)と竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)からも出土しているが、邪馬台国の有力な候補地である奈良県では今まで見つかっていなかった。ちなみに、卑弥呼が使節を派遣した景初3年(239)の銘がある三角縁神獣鏡は、和泉黄金塚古墳(大阪市和泉市)や神原古墳(島根県雲南市)で見つかっている

前橋天神山古墳(前橋市)から出土した5面の鏡の内、その一面も桜井茶臼山古墳と同范鏡(三角縁五神四獣鏡)を持つ。この古墳は榛名山噴火灰の直上に築かれていることから4世紀中頃~後期とされる、全長126mの前方後円墳。この古墳も毛野国がヤマト王権の一員となったその時期あるいはその直後に築かれたとされている。

奥津社の三角縁神獣鏡
所在地 愛西市千引

三角縁波文帯竜虎鏡 径24.3㎝
三角縁□張■銘四神四獣鏡 径23.8㎝
三角縁日月銘獣文帯四神四獣鏡  径21.8㎝
この3面の銅鏡は奥津社本殿中に永年蔵されていたもので、錆の状態など似通った保存状況を示し、おそらく一括出土した後、神社に奉納され伝承されたのであろう。現在、社殿が鎮座する小丘は、1977年におこなわれた発掘調査で古墳であることが確認されており、この古墳から出土した可能性がある。3鏡はいずれも舶載で三国時代の魏の鏡と言われ(1)、鏡縁の断面が三角形を呈し、鈕をめぐる内区に神像・獣形の半肉彫文様を配する三角縁神獣鏡である。三角縁波文帯竜虎鏡は、京都府椿井大塚山古墳・奈良県黒塚古墳・大阪府黄金塚古墳に、三角縁□張■銘四神四獣鏡は、京都府椿井大塚山古墳・香川県西山古墳に、三角縁日月銘獣文帯四神四獣鏡は、大分県石塚山古墳にそれぞれ同型鏡が知られている。3面とも三角縁神獣鏡の中では最古の鏡群に属し、東海地方の古墳発生を考える上で貴重な資料である。
(1)従来、舶載の三角縁神獣鏡は魏の鏡と考えられていたが、呉の工匠が日本で製作したものと言う説が提示されている。 王仲殊著・西嶋定生監修 尾形勇・杉本憲司訳『三角縁神獣鏡』学生社 1992

三角縁神獣鏡のなかには魏の年号や地名がみえることから、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から賜わった銅鏡百枚をこの三角縁神獣鏡にあてる説がある。

椿井大塚山古墳には、日本列島の古墳から出土した総面数の約1割にあたる30数面の三角縁神獣鏡のほかに、後漢鏡や画文帯神獣鏡など4面の中国鏡が出土し、素環頭大刀や甲冑など鉄製品にも中国製と推測できるものがある

画文帯神獣鏡の図像を忠実にとりこんだ景初三年鏡や正始元年鏡が三角縁神獣鏡のなかで初現的な型式と認められる
三角縁神獣鏡の製作の契機が景初3年の卑弥呼の朝貢にあったとする想定(近藤喬一1983)を裏づける???

邪馬台国と魏との間には、景初3年以後も正始4年(243)、正始6年、正始8年と頻繁な交渉が続き、20年近くの空白をおいて泰始2年(266)、卑弥呼をついで邪馬台国の女王となった台与が西晋に遣使したことを史書は記している。

後漢鏡と画文帯神獣鏡
後漢時代前期に作られた内行花文鏡の2面と方格規矩四神鏡とは、弥生時代のうちにもたらされ、宝器として長く伝世したものである。これに対して画文帯神獣鏡は3世紀始めに中国の華南地方で作られ、三角縁神獣鏡の直前に輸入されたものである。椿井大塚山古墳の鏡は対置式神獣鏡に分類されるが、画文帯神獣鏡にはこのほかに環状乳神獣鏡、同向式神獣鏡などがあり、いずれも三角縁神獣鏡に先行する年代が与えられる。これらの鏡は、楽浪・帯方郡の所在した朝鮮半島の西北部にも出土し、画文帯神獣鏡の輸入にあたってその地を支配した公孫氏が関与した可能性がある。

愛用された画文帯神獣鏡

天理市柳本町の黒塚古墳(3世紀末)では木棺の中に一つだけ置かれた鏡が画文帯神獣鏡で、33面の三角縁神獣鏡は棺の外に置かれていた。
 ホケノ山古墳、黒塚古墳には画文帯神獣鏡が被葬者の重要な鏡として用いられている

画文帯同向式神獣鏡
 徳島県の萩原1号墓とホケノ山古墳の出土品はどちらも画文帯同向式神獣鏡が副葬されている。この鏡は3世紀の初め頃、楽浪郡を支配していた公孫氏から入手した楽浪鏡という。画文帯神獣鏡は三国時代の呉の鏡で、新しい形式の画文帯神獣鏡は楽浪郡と倭国でしか出土しない。
公孫氏
呉は魏に対抗するために遼東半島と朝鮮を支配する公孫氏と手を組んだ。公孫氏は魏と呉を天秤に掛けて同盟を結んでいた。236年に公孫淵は魏に反旗を翻して燕王を称することになるが、238年に魏の司馬懿に滅ぼされてしまう。これを見て即座に、卑弥呼は魏に朝貢する。

内行花文鏡

萩原2号墓では内行花文鏡が出土している。伊都国平原王墓(200年頃)で巨大な内行花文鏡5面が出土しているが、この時期の筑紫で権威ある鏡は内行花文鏡でしょう。

超大型内行花文鏡が出土したのは
初期の大ヤマト政権の古墳の桜井茶臼山古墳、
下池山古墳(我が国の代表的な前方後方墳で全長120m、築造年代は4世紀初〜中頃と推定されている)、
柳本大塚古墳(前方後円墳で復元全長94m、築造年代は4世紀前半と推定されている)
の三基で、しかも今まで、超大型内行花文鏡の出土状況は、下池山古墳と柳本大塚古墳からは主埋葬石室ではなく、別に小石室を設けて超大型内行花文鏡だけを埋葬してあった。
この、別に小石室を設けて超大型内行花文鏡だけを埋葬してあったは、「葬送儀礼の為、大鏡を作り、儀礼終了後に小石室に埋葬された可能性がある」と学者は考えている。

弥生時代終末期の北九州の最後の王墓と言われる伊都国の国邑にあったと言われている平原一号墳から超大型内行花文鏡が出土した。

弥生時代晩期において、鏡は貴重品で、墓に鏡が全国的にも珍しい。
多数(四十面)おさめてあることは墓の主がその時代の重要な人物であったことを示している。しかも、この墓から出土したのは、内行花文鏡と言われている中でも、とびぬけて大きい超大型鏡が5面出土した。
この墓は、西暦二世紀の末の築造と考えられており、長方形の周溝墓で盛り土はないが甕棺ではなく木棺が使われている。
この時期は弥生時代終末期で、邪馬台国の卑弥呼が現れる時代である。

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羽曳野市東阪田にあった「塚」から、前方後円墳の遺構が現れ三角縁神獣鏡および鉄製の刀、筒状の飾り銅器
などが発見されたとのこと。また、この鏡は、静岡県磐田市・新豊院山墳墓群D2号墳から出土した鏡と「同じ鋳型」で造られた古い形式の中国製とみられ直径21.5センチの舶載鏡の銘帯には、

吾作竟自有紀 辟去不羊宜古市 上有東王父西王母 令人長命多孫子

の銘文が見られます。市の教育委員会では『石川左岸流域に勢力を持った古墳時代前期後半(四世紀中頃から後葉)の首長の墓』で『副葬品の内容から武人的性格が強い被葬者』が想像され、ヤマト政権の軍事を担った豪族である可能性を示唆していました。