博多、伊予、平戸の志式神社、十城別命

神功皇后自らが新羅征討を決意したのだが、その軍大将として十城別王が従軍したとの伝承が、長崎の平戸地方に残されている。
対馬にも十城別王を祀る神社があり、帰還したとの伝承もあることから、新羅に行くことは行ったのだろう。征討軍の勢いに押されて新羅が倭王の要求を受け入れたために、実戦などはほとんどなかったと思われるが、凱旋後、十城別王は平戸の地に残り、夷敵侵入の監視に当たっていたそうで、ここで生涯を終えたと言われている。現在、平戸にある志々伎神社(しじきじんじゃ)には十城別王が祭神として祀られていて、陵もあるそうだ。

日本武尊の子供たち、志式の三神

十城別命の太刀が平戸城に展示されています。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。

次の二人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、祭神として祀られています。

稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社

志々伎神社

県内(壱岐・対馬を除く)唯一の式内社です。陽成天皇の元慶元年(877年)に勅使参向の儀が執り行われたということより考えても当社に対する皇室の尊崇がいかに厚かったかが伺えます
 9月9日に行われる『沖ノ宮祭礼』の中で『古代相撲』なる行事が行われる。この相撲には神主はいっさい関与せず総代二つの柴山家の家主によってのみ行われる。『古代相撲』は十城別王の三韓征伐を示しているものといわれる。特に神主が関与しない行事にこの伝承的意味合いを持つ行事が多いという。このほか志々伎神社の祭礼としては『やまどり祭』は景行天皇の平定・『宮めぐり』は十城別王の凱旋を意味するものといわれているらしい。

志々伎神社創建年代は不明だが5世紀中頃と伝えられる長崎県内でも最古の神社の1つで上宮(志々伎山山頂)・中宮・邊都宮(里宮・伝景行天皇行宮跡)・沖津宮(伝十城別王武器庫跡・十城別王御陵墓)で構成されてる。祭神は『十城別王(軍神・景行天皇の孫)』をとする神社で、肥前(佐賀・長崎)に4社しかない。

十城別王については、伊予の飯積神社の標柱に「武国凝別命の孫、十城別命」との説明がある。地元の説とのことで、和気系図あたりに依拠するものかもしれない。ただし、系図に名があっても、その当時に十城別王が着任して、後に伊予和気の3代目にされていることもあり得る。直系の子孫でない場合もあり得るので、何とも言えない。
十城別王は、『日本書紀』によると、吉備武彦の女(むすめ)吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)と日本武尊との間に生まれた子とある。
「吉備穴戸武媛は妃として、武卵王と十城別王を生んだ。武卵王は讃岐綾君の先祖である。十城別王は伊予別君の先祖である。」と記されていて、武卵王(たけかいごのきみ)とは兄弟だとされている。
一方『古事記』では、吉備穴戸武媛は吉備武彦の妹(いも)となっていて、子は建貝児王(たけかいこのみこ)1柱のみを記し、
「讃岐綾君、伊勢之別、登袁別(とおのわけ)、麻佐首(まさのおびと)、宮首之別(みやのおびとのわけ)等の祖」とある。

伊予の国にもいろいろ別があるが、東予地方では御村別、中予地方では伊予別が代表的な例である。

伊予の和気郡には阿沼美神社(あぬみじんじゃ)があり、ここに武国凝別命と十城別王の宮があったとの伝承が残されている。飯積神社には十城別王のほかに国魂愛比売命(くにたまえひめのみこと)が合祀されているが、愛比売命は伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ。通称椿さん)など松山周辺の祭神に多く見られる神名であるので、十城別王とともに、そちらから勧請したことが考えられる。

壱岐の志自岐神社
祭神は、日本武尊の子供たち
十城別王(ときわけのみこ)、武加比古王(たけかいこのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)、稲依王(いなよりのみこ)、
稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)

海の中道の志式神社(ししきじんじゃ)。
神功皇后伝説では、遠征前に盛大な神楽が行われ、海底から現れた異形の磯良神から玉を借り受けたのは、この地の吹上の崎というところだとされる。
海ノ中道の根元、奈多(なた)という地区にあります。
松原の砂丘上に「志式神社」(三郎天神)がある。
「神功皇后三韓進軍の折 此の奈多浜に鎮座される荒ぶる神の御前にて戦捷の神楽を奏して征途につかれた、此の所を神楽岸又は踊り坂と伝え、当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚神事として伝承される。
古は三郎天神と称え後に志々岐三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀した故であろう、明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十域別心、稚武王、葉山姫神で火難、盗難、難産を免れ家運を開く神として広く世に知られる。」

志式神社と高良大社の神楽
高良大社の神楽
高良の神は10万の敵が攻めて来るのを迎え撃つために、水軍の援助を求めてイソラ神に豊姫を遣わしました。
イソラ神は海の中に住んでいて、顔にフジツボや貝殻やワカメなどがびっしりついていたので、姿を恥じて、なかなか出て来ようとしませんでした。
そこで、高良の神が八乙女に舞を舞わせると、「そこまでされるなら」と、イソラ神は干珠満珠を授けて、援助を約束します。
高良の神は敵と対峙した時に干珠を海に投げ込むと、みるみると潮が引いて行きました。敵が船を下りて攻めて来る時に満珠を投げ込みました。すると潮が満ちて、敵軍は溺れて降参しました。こうして高良の神は戦に勝つ事が出来ました。

志式神社の神楽
 磯良舞 いそらまい     
神功皇后らが48艘の船団で新羅へ進軍する時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話。磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。そのイソラ神が海神のところに行って干珠満珠を貰おうとするが、なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。
すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。豊姫はそれを武内神に渡す。

早魚舞 (乙太夫 献魚包丁式 ひれ舞)
『奈多の氏神様 志式神社 「お宮の由来」』より引用。

 「乙太夫の天神尋ね」 

乙太夫が舞いながら歌を詠む。
奈多の里  志志岐の宮の  七不思議
神の御稜威(みいつ)と 仰がれにけり
乙太夫

「天神様はいずれにおわしますぞ。
天神様はいずれにおわしますぞ。

三良(さぶろう)天神と称える神様は、
火難盗難を除き、安産を守られるご神徳がお有りになるので、
そのおかげをこうむろうと願うけれども、
何処に鎮座されているのか、全く分からない。

八雲立つ出雲の国は神々が集まる所なので、
そこに尋ねて行ったけれどもいらっしゃらない。
伊勢の国五十鈴川に詣でたけれど、いらっしゃらない。

尋ねあぐんでいると、一羽の雀が飛んできて、
「筑奈、筑奈(ちくな)」と鳴いて教えてくれた。
筑前、奈の里だろうかと、尋ねて来ると、
やっぱりこの吹上の地に鎮まられていたよ。
さあ、参拝してご神徳を頂こう。」
乙太夫は天神様にお神酒を奉る。

天神様が盃をいただき飲もうとすると、「まあず、お待ちなされ。」
と止められて、盃を下ろされる。
「火難盗難、除きたまえ。」と乙太夫。

また、飲もうとすると「まあず、お待ちなされ。」
と制されて、再び盃を下ろされる。
「大漁、満足、守りたまえ。」
と乙太夫は二拍手拝礼してさがる。
天神様は酒をいただき、盃と榊を持って正面に向き直り、歌を詠む。

千早振る 神代の手振り 奏でして
    御代を寿ぐ 奈多の夜神楽

右手には盃を。
左手には榊葉を添えて立ち上がり、
乙太夫の願いを聞き遂げて、上機嫌で
「あっぱれ あなおもしろし あなたのし あなさやけおけ」
と目出度く舞い納められる。

三良天神…三柱の天つ神 
    火明(ホアカリ)の神
    火酢芹(ホスセリ)の神 
    豊玉姫神

志志岐三神…神功皇后の関係者 
    十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の兄弟
    稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の兄弟
    葉山姫神

筑前風土記拾遺によると、

奈多の浦の志志岐大明神は下松浦明神である。
仲哀天皇の弟の十域別王の事である。

稚武王も仲哀天皇の弟で、上松浦明神という。
肥前の国松浦郡の田島の神である。

志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。
神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。

葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。
天照大神の荒御魂を、山背の根子の娘の葉山姫に祭らせる。
(神功皇后のご神託によって)

葉山媛
山背根子の娘で、摂津国広田神社の創祀者。
『日本書紀』神功皇后紀の香坂王・忍熊王の項に以下の記述がある。

神功皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿禰に命ぜられ、皇子を抱いて迂回して南海から出て、紀伊水門に泊らせられた。 皇后の船はまっすぐに難波に向った。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。それで武庫の港に還って占われた。

天照大神が教えていわれるのに「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津国広田神社の地)に置くのがよい」と。 そこで山背根子の女、葉山媛に祭らせた。

また稚日女尊(天照大神の妹)が教えていわれるのに「自分は活田長峡国(摂津国生田神社)に居りたい」と。 そこで海上五十狭茅に祭らせた。

また事代主命が教えていわれるのに「自分を長田国(摂津国長田神社の地)に祀るように」と。 そこで葉山媛の妹の長媛に祭らせた。

また、表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えていわれるのに「わが和魂を大津の渟名倉(ぬなくら)の長峡に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。 そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海をわたることができるようになった。

山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、
自分の娘の葉山姫には天照大神の荒魂を廣田神社に、その妹の長姫には事代主を長田神社を祀らせました。

新撰姓氏禄(815)に
「摂津国神別(天神) 山直(ヤマノアタイ) 天御影命(天津彦根命の御子)十一世孫山代(山背)根子之後也」
との氏族がある。この山氏(山代氏)とは、山城国南西部(現京都府南部)を支配した山背国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)から出た氏族で、当地の東に近接する摂津国川辺郡為奈郷(現尼崎市付近)に居住していたらしいが、当地との関係はよく分からないという。
なお山背(山代)国造とは、天津彦根命(アマツヒコネ、アマテラスとスサノヲのウケヒで生まれた御子)の後裔といわれる氏族で、同じアマツヒコネの後裔氏族として摂津国西部に勢力を張っていた凡河内氏(オオシコウチ)と同族ともいう。

旧事本記
玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)
[山代水主の雀部連(さざきべのむらじ)、軽部造(かるべのみやつこ)、蘇冝部首(そがべのおびと)らの祖である]。

『勘注系図』丹波國造海部直等氏本記によれば
九世孫玉勝山背根子
九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)は山背(山城)の祖とされる人物である。『勘注系図』は六世孫建田勢命が宰(みこともち)となって丹波に赴いたとする。その後山背の久世水主村(くぜみずしむら)に遷り、更にその後大和に遷ったとする。
久世水主村とは現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という延喜式に記載される古い神社がある。祭神は彦火明命を始めとして天香語山命、天村雲命、天忍男(あめのおしお)命、 建額赤(たけぬあか)命、建筒草(たけつつくさ)命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂(やましろのおおくにたま)命を祀る。まさに尾張氏の一族を祀る。
山背大国魂命が 玉勝山背根子である。
そしてこの水主神社には大縫(おおぬい)命と小縫(おぬい)命も祀られる。
新撰姓氏録によると、成務天皇の時代、志賀高穴穂宮(しがたかほのみや)に仕え、糸縫針の職についたが故に子孫に衣縫の氏を与えられたとされる。

十世孫とする大原足尼(おおはらのすくね)命は、成務の時代に筑紫豊国の国造と成ったとされる人物である。
また『勘注系図』には登場しないが、尾張氏系譜の十世孫大八椅(おおやつき)命は成務時代に、飛騨の国造と成ったとされる。
おおよそこのあたりが成務天皇の時代であり、四世紀の中頃である。

旧事本記 大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)
[筑紫豊国(つくしのとよのくに)の国造らの祖で。置津与曽命の子である]。
『先代旧事本紀』尾張氏系譜にも、弟彦命、日女命、玉勝山代根古命、若都保命、置部與曾命(おきべよそのみこと)が記される。置津世襲命と置部與曾命は「津」と「部」が異なるが同一人物であろう。

 大原八幡神社
御祭神は、
大原足尼命 現在の豊前・豊後の国造
饒速日命 大原足尼命の祖先・物部氏の祖神
応神天皇 第十五代天皇・八幡の大神
仲哀天皇 第十四代天皇・応神天皇の父君
神功皇后 応神天皇の母君
五柱の神であらせられ、この豊前、豊後の国の祖神であり、私共の繁栄を守護し給う大神として、人々に普く崇敬するところであります。
 大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。
命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。
その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御観請し現在に至る。

観松彦香殖稲(孝昭)天皇の皇后
『日本書紀』には、
 世襲足媛を皇后に発てた。尾張連の遠祖瀛津世襲の妹である。
 (一書はいう。磯城の県主葉江の娘、渟名津媛、一書はいう、倭国の豊秋狭太媛の娘大井媛。)
『古事記』には、
 尾張連の祖、奥津余曽(おきつよそ)の妹、名は余曽多本毘売命を娶し、
と夫々ありますが、両書の皇后名がこの天皇で初めて一致しているのです。

肥前国 一宮
與止日女神社略記
一、 鎮座地 佐賀郡大和町大字川上一番地
一、 御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。
一、 御神徳 海の神、川の神、水の神として信仰され、農業をはじめ諸産業、厄除開運、交通安全の守護神
一、 由緒 欽明天皇二十五年(五六四)創祀され、延喜式内社で、のち肥前国一の宮と崇められ、弘長元年(一二六一)正一位を授けられた。
朝廷の御崇敬あり、また、鎌倉幕府をはじめ武門、領主、藩主の尊信を受けた。