近江、沙沙貴神社、沙沙城山君、酒神

近江の大族
近江の地誌『近江輿地志略』には、「佐々木もと鷦鷯の御名によれり。亦沙々貴、娑々岐にも作る。佐々木は仮名書なれば、篠笥と相通ず。きとけとは、かきくけ也。五音の相通なれば佐々木を篠笥といふにや」と記される。
往古、出雲も勢力圏とした大族佐々木氏の起源の地は、周知のように近江国蒲生郡篠笥郷(現滋賀県蒲生郡安土町辺り)である。

出雲の雀部、鷦鷯(ささき)氏
天平十一年の「出雲国大税賑給歴名帳」に出雲郡漆沼郷土田里の雀部君千主、神門郡滑狭郷阿禰里の雀部君小島が見えるから、古代出雲には御名代の雀部とそれを管掌する伴造氏族としての雀部君が居たことが知られる。
出雲郡漆沼郷も神門郡滑狭郷も、現在の八束郡美保関町(古代では島根郡美保郷)から少し遠いが、雀部君は出雲国造の同族としてこの辺りまで分布していたことが十分考えられる。
中世の出雲では、頼朝の鎌倉幕府草創に大きな功績をした佐々木(塩冶、京極)氏の子孫が代々守護を務め、その一族が多数いる。

少彦名命の故事:娑娑岐

『書紀』第八段の一書第六に見えて、大己貴神が出雲の五十狭狭の小汀にいたとき、海上からヤマカガミ(白斂)の皮で作った舟に乗り鷦鷯の羽を以て衣とした小男の神が到来したとあり、それが少彦名命だとされる。この記事のなかに、「鷦鷯、此をば娑娑岐と云ふ」とも記される

沙沙貴神社

古代から祖神として奉斎してきた式内社・沙沙貴神社には、鷦鷯神伝があったと系図に見える。『神道大辞典』の記事によると、同社の祭神は大彦命・少彦名命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王とされるが、それは、「少彦名命は鷦鷯羽を以て衣とせられた故事に因み、仁徳天皇は大鷦鷯尊と奉称したに因み、敦実親王は宇多天皇の皇子で佐々木源氏の祖であらせられるに因んで、主神大彦命に配祀したものといふ」と同書に記される。

周玖那彌伽未

酒壽(サカホガイ)祝詞の中には、周玖那彌伽未(スクナミカミ) として出てくる。


虚能彌企破 和餓彌企那等儒 區之能伽彌 等虚豫珥伊麻輸 伊破多多須 周玖那彌伽未

この酒(ミキ)は 我が酒ならず 藥(クシ)の神 常世(トコヨ)に在(イマ)す 岩立たす 少御神(スクナミ)


「少御神=少彦名(スクナビコナ)神」と、「周玖那彌伽未=少名御・少波神(スクナミ)神」の違いがある。

沙沙貴神社の神は、周玖那彌伽未=少名御・少波神(スクナミ)神
式内社で、主祭神は少彦名命とする。そして、古伝ホツマツタエでは、沙沙貴神社は少波神を祀るとある。沙沙貴神社の北には繖(きぬがさ)山があり、その北には 猪子山が続き、古来 猪口山と呼ばれているという。

お猪口=オチョコの語源であろう。

古事記の仲哀天皇の章の中の「酒楽の歌」(さかくらのうた、または、さかほいのうた)

神功皇后は息子のホンダワケノミコト(後の応神天皇)の帰還を酒を造って待っていました。

この御酒は 我が御酒ならず 酒(クシ)の司(カミ) 常世に坐す 石立たす 少名御神(スクナミカミ)の 神寿き 寿ぎ狂ほし 豊寿ぎ 寿ぎ廻おし 献り来し御酒ぞ あさず食せ ささ

と歌います。少名御神とは少彦名神か。古くから少彦名神が酒造の神として崇められていたことが伺われます。

宇陀の酒部は、讃岐の神櫛皇子の後裔
神櫛皇子(かみくしのみこ(かみくしおう))は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。

『日本書紀』では「神櫛皇子」、『古事記』では「神櫛王」、他文献では「神櫛別命」「神櫛命」「五十香彦命」とも表記される。『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。第12代景行天皇の皇子である。墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓(位置)に治定されている。公式形式は上円下方。

 天皇本記 景行天皇
またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を産んだ                 [景行天皇の条]より
 五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。大稲背別命は、御杖君の祖なり。櫛角別命は、茨田連の祖なり。
日本書紀
 次の妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生めり。 (記は垂仁皇女の阿邪美都比売り命が稲瀬毘古王に嫁いだとする)。その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。 弟の稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。         (景行紀、四年の条より)

『日本書紀』では、神櫛皇子を讃岐国造の祖とする
神櫛王を木国之酒部阿比古・宇陀酒部らの祖とする。ところが、宇陀の酒部の伝承が見つからない。

『新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。

  • 讃岐公  右京皇別   大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
  • 酒部公  右京皇別   同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
  • 酒部公  和泉国皇別  讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。

日本書紀によれば「石田君」の祖先は垂仁帝と山背の苅幡戸辺との間に産まれた五十日足彦命(イカタラシヒコ)という皇子なのですが、古事記は苅羽田刀辨の生んだ五十日帯日子王は「春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖」であると記している。また厄介なことに古代氏族の名鑑とも言うべき「新撰姓氏録」には肝心の「石田君」という姓を持った氏族が掲載されていない。八幡市岩田という土地に五十日足彦命を祭神とする石田神社がある。石田は、イワタと読むべきであろう。

これらから、「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた讃岐を本拠地とする豪族の祖だったことが明らかになります。

垂仁天皇の妃渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)は、二人の子供

  • 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。和気氏の祖
  • 胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)

を生んでいる。

五十日足彦は『丹哥府志』によると、垂仁妃・薊瓊入姫の子。

  • 兄:速石別・・・・・・与謝板並速石里より貢を奉る。
  • 兄:五十建速石別・・・与謝稲浦より貢を奉る。
  • 本人:五十日足彦・・・・与謝五十日の里より貢を奉る。

息速別命

第11代垂仁天皇と、丹波道主王の娘の薊瓊入媛(阿邪美能伊理毘売命)の間に生まれた皇子である。同母妹として稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと、阿邪美都比売命)がいる。

佐々貴山君(狭々城山君、佐佐紀山君)の後裔

太田亮博士の指摘のとおり、佐々木氏は古代の佐々貴山君(狭々城山君、佐佐紀山君)の後裔であろう。『書紀』では孝元天皇段に、その第一の皇子・大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡て七族の始祖なり、と記される。仁徳の御名代雀部の山関係の管掌氏族である。ただし、筑紫国造が阿倍氏族の出ではないこと(天孫族系の宇佐国造支流で、火国造や応神天皇とも同族とみられる)との説がある。


瓢箪山古墳
(滋賀県蒲生郡安土町大字宮津)

県下最大かつ最古の古墳。全長162Mの前方後円墳で、古墳時代前期4世紀後半に造られたとされる、自然の地形を利用した前方後円墳で、ちょうど瓢篳を二つに割ったような形をしているところからその名がついた。安土城考古博物館のレプリカに見られるように、鏡2面をはじめとして、鍬形石・車輪石・石釧・刀剣・短甲などが出土した。出土品には、二神二獣鏡・キ鳳鏡や車輪石・鍬形石・筒形銅器・鉄製刀剣など

滋賀県下では、前期古墳として八日市市の雪野山古墳、中期のもので新旭町の稲荷山古墳、近江町の能登瀬山古墳があり、後期には大津市の百穴古墳群、能登川町の猪子山古墳、秦荘町の上蚊野古墳群などがある。これらの古墳は地方豪族のものであるが、滋賀郡の春日山古墳群は和迩・真野・春日の各氏の墓であり、大津の穴太古墳は大友村主・穴太村主らのものであろうとされる。ここ安土の瓢箪山古墳は、このあたりを支配した「狭狭城山君」の祖先の墓とされる。

沙沙貴神社
主祭神は少彦名神
神話の時代に少彦名神がササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から「ササキ神社」が始まったと伝えられている。
副祭神 古代の沙沙貴山君の祖神 大彦「大毘古神」仁徳天皇 「大鷦鷯尊」
先代舊事紀大成経の鷦鷯本が秘蔵されていた神社だ。

伊賀一宮の敢国神社
秦氏により少彦名神祭祀
崇神天皇の御代に四道将軍の一人として、
北陸を平定し伊賀の国に永住したといわれる道君首名公の祖でもある大彦命 も祀っている。これは沙沙貴神社の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の祖神「大毘古神」と同一である。

沙沙貴神社 
社伝では
神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。 後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していた。

寒川辰清の『近江国輿地志略』所引「佐々木社記」に
「近江国蒲生郡佐々木明神者、延喜式所載沙々貴神社是也。伝称、此社祀少彦名命且奉崇仁徳天皇、今不得其縁起、則未詳其由来」
と記されているように、今日管見に入る資料の範囲内では一切不明とされている。

『秀真政伝』によれば  「佐々木の神社ありて、元祖笹気の神祭後の神代に、少彦名神此宮にて和礼を教」とある。

沙沙貴山氏の後裔

これを近江の沙沙貴山神社の由緒では沙沙貴山君の4世は、阿閉臣伊賀彦命、5世は、筑紫国造日道命でした。そして、645年の安倍倉橋麻呂、平安時代の安倍晴明と子孫がつながっていました。

 筑紫国造 日道命(成務天皇期) 筑紫氏(君・公) 筑前国・筑後国 

国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる

雄略天皇

日本書紀 顕宗天皇治世元年5月条

狭々城山君韓袋宿裲(カラフクロノスクネ)は、押磐皇子殺害の陰謀に加担したため誅されることになったが、天皇は殺すに忍ばれず、彼を陵戸(ハカモリ)に落として賤民とし、官籍を削って山部連の下につけた。一族の倭袋宿裲は、妹の置目の功により救われ、本姓の狭々城山君の氏を賜った。佐々貴山君の祖である韓袋宿祢は、大泊瀬王子(雄略天皇)の意を受けて、市辺押磐皇子の謀殺に加わったが、『日本書紀』には、市辺押磐皇子の子の顕宗天皇が即位すると、韓袋宿祢の子孫は処罰を受けて陵戸とされたと記している。

馬見岡綿向神社
式内社 近江國蒲生郡 馬見岡神社二座
御祭神 天穂日命 天夷鳥命 武三熊大人
滋賀県の日野町にある。近江鉄道・日野駅の東4Kmほどの村井に鎮座。

神武天皇の御宇、彦健忍雄心命が、出雲より出雲国の開拓の祖神・天穂日命を迎え綿向山頂に祀ったのが創祀。
その後、欽明天皇六年(545年)蒲生の豪族・蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山麓に狩りに来たところ一天にわかに掻き曇り、四月(新暦五月)だというのに吹雪となった。しばらく岩陰で休み、雪が止んで外に出てみると大きな豬の足跡を発見。夢中になって足跡を追っていくうちに山頂に導かれ、綿向大神の化身となって現れた白髪の老人から「この山の頂に祠を建てて祀れ」との託宣を受け、社殿を建てて祀ったという
媼(おうな)は沙々貴山君(ささきやまのきみ)の祖 韓袋宿禰(からふくろのすくね)の妹で、 23代顕宗(けんそう)天皇が御即位(485)の後、御父市邊押盤皇子(いちのべのおしはのおおじ)が蒲生野へ狩に来られ殺害された葬処を探しお尋ねになられた時、置目という者がその場所を申し奉り、天皇は来田綿(きたわた)の蚊屋野(かやの)に行幸され、御骨を掘り出し改めておまつりされた。
この置目はその功績により宮中に召しかかええられた。その後、宮中を辞する時、日野渓の地を給わりこの地に閑居した。逝去の後、里人等尊敬して祠をたてて祀った。古くは現在の綿向神社の森を「置目の森(おきめのもり)」と称し、村井御前は綿向大明神 の地主の神といわれている。

少彦名を祀る近畿の神社

敢国神社

『延喜式』神名帳の記載に見えるように元々の祭神は1座で、国史に「敢国津神」とあるように「敢(あえ:旧阿拝郡一帯)の国津神」が本来の祭神であったと見られている。一帯に勢力を持った阿閇氏(敢氏/阿閉氏)の氏神いわれる。国史に見える記事では、『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)条において従五位下の神階を授かったと見える「津神」を敢國神社に比定する説がある。一方、『日本三代実録』貞観6年(864年)条において従五位下を授かったとある「安部神」に比定する説もある

敢国神社
今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。

創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
又、古代伊賀地方には外来民族である秦族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。

三輪の大神神社は、倭大物主櫛長玉命を祭神とし、大巳貴神・少彦名神を配祀している。
忍坂坐生根神社には少彦名神が祭られている、大阪住吉の生根神社の基社とも云われている。
宇陀から伊勢本街道を通って吉野に抜ける途中の三茶屋に久須斯神社がある。この久須斯及び久斯は酒のことであり祭神は少彦名神となっている。

四国にはあちこちに伝承がある。
大洲市の少彦名神社伝承では
「肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの大洲市の少彦名神社である。
少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが終焉の地は当地といわれている。」 とある。

上毛野田道命

天皇の命により、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)征伐したという人物である。
見事勝利を得て凱旋したが、帰国後2年目、今度は、東北地方平定のため蝦夷の征伐に向かわされた。
が、東北各地の反乱を平定し、更に北に兵を進める途中、『伊寺(いじ)の水門(みなと)』で戦死したという。 『伊寺の水門』の場所ははっきりしていないが、おそらく現在の秋田県北部一帯のいずれかであろうと云われている。鹿角郡の猿賀神社には『田道将軍戦没の地』と書かれた墓があるそうである。前橋の伝説では、田道命の遺体は上野国分寺の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが蛇穴山古墳であるという。
その後勢いを取り戻した蝦夷が田道命の墳墓を暴くと、中から大蛇が表れて毒気を吹きかけて蝦夷を殺してしまったということである。
田道命は毛野はもちろん東北や北海道の神社などで祭神として奉られている。
名取郡(なとりぐん): 宮城県。古代より陸奥国にみられる郡名。名取郡の初見は、「続日本紀」神護景雲3年3月13日条である。この時、名取郡人吉弥侯部老人が賀美郡人吉弥侯部大成ら9人とともに、上毛野名取朝臣の姓を賜っている。しかし、この名取郡はもと「丹取郡」と呼ばれていたと思われ、それが、地名を好字で書きあらわすようになって名取郡と改まったものと思われる。丹取の時のよみが「にとり」だったか「なとり」だったかはつまびらかでない。丹取郡の初見は奈良初期にさかのぼる。「続日本紀」和銅6年12月2日条には「新たに陸奥国丹取郡を建つ」とある。この丹取郡は玉造(たまつくり)郡の耳取で名取でないという考えもある。

九州の道君首名公

ます。
「天子宮の火祭り」
熊本県玉名郡天水町小天に小天 少彦名神社というのがありここで道君首名公の威徳をしのび、毎年10月15日の夕方から火祭りが行われているという。
道君首名公が713年の9月初代国司として筑後に赴任早々に疱瘡(天然痘)の流行により死屍累々となった筑後の地にほど近い熊本県玉名の小天(おあま)で少彦名神を祭祀することによりこの伝染する疱瘡を平癒させた経緯が小天の天子宮に今なお伝えられ
「綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り欠かすことなくこの地の氏子に継続しているという。
参考:http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/sukuna/sukuna.htm

孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。
原田常治著の上代日本正史の雀部臣系図には
その名が少彦名許士尊となっている。
まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。大彦命の後胤の佐々貴山君も沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している。

佐々神社

佐々神社は延喜式内及び国史に記載されているので、他に類似社のない事が断定できる。

 創立の年代は不詳である。伊山故事考及び伊賀古代氏族考によれば往古近江国界篠嶽に鎮座 していたのを文録年中に現在の地に遷すとある。

総国風土記によれば持統天皇3年己己8月 封田29束を奉るとなっているのを見ても、朝野の崇敬が厚かったことを知ることができる。 主神八重事代主命は、我国正史上著名の神で、如何にその御功績の偉大かは記紀2典に明ら かである。故に、本社は古来一般の尊敬高く特に授乳の霊験顕著であり遠近より産婦で母乳 少ない人の参拝者は伊賀、大和、山城、近江等より参拝されている。

宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)

奈良県宇陀市菟田野古市場(旧菟田野町域)にある神社。大和の東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分神社、葛城水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中社」とも称する古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。
宇陀の軽皇子

東の 野に炎の立つ見えて 顧みすれば 月西渡(つきかたぶ)きぬ」   柿本人麻呂 (万葉集 第一巻48)

この歌は、西暦692年(持統天皇6年)の太陰暦の11月17日午前6時ごろ、阿騎野(あきの)と呼ばれる地(奈良県宇陀市大宇陀区)に、当時9歳の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ:後の文武天皇)とともに狩に随行した柿本人麻呂が早朝の東の空の「かぎろい」を見て詠んだものです。