讃岐の神社

讃岐の神社 – 古代史Wiki by tokyoblog より

讃岐 神名

○阿野郡城山神・賀茂神・神谷神・高家神

阿野郡人綾公菅麻呂
阿野郡山本郷の伊予部連虫麻呂
阿野郡人綾公姑継・同姓武主
○鵜足郡宇夫志奈神・天川神・船山神・飯天神・

鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂
鵜足郡二村郷の吉志部呼鳥
鵜足郡司当麻某,同郡小川郷の戸主大伴首三成
鵜足郡人宗我部秀直・同建部秋雄
○那珂郡万農池神

那珂郡人錦部刀良
那珂郡人因支首道麻呂
那珂郡人因支首秋主
○多度郡雲気神・大麻神

多度郡藤原郷の伊□智万呂
多度郡藤原郷の大伴部田次
多度郡人俗姓佐伯氏の空海
多度郡人同姓(因支首)国益
多度郡人同姓(因支首)純雄 多度郡司佐伯直鈴伎麿 多度郡人刑部造真鯨 多度郡人秦子上成・同姓弥成

○三野郡大水上神 三野郡人丸部臣豊? 三野郡大領丸部臣明麻呂 三野郡人大学助教刈田首種継 三野郡人桜井田部連豊直

○刈田郡粟井神 刈田郡人刈田首安雄

金毘羅宮

創祀年代は不詳。
『玉藻集』(1677)や『讃州府志』(1745)には、 「この山の鎮座すでに三千年に向づく」とあるほど、古い。 祭神・大物主神が象頭山に根拠をおき、中国・四国・九州経営を行ったとも。 当初、琴平神社と称していたが、本地垂迹説により、金毘羅大権現となり、 永万元年(1165)崇徳天皇を合祀した。
大物主を祀る
讃岐海上を通過する船人たちは、航海安全を祈願して、 「流し樽」(流し初穂ともいう)を行う。 海上船上で、初穂(賽銭)を出し合い、樽に詰めて幟を立てて流し、 その樽を見つけた漁師は、福運の兆しと、これを当宮へ届けるという。
旭社:天御中主神 高皇産靈神 神皇産靈神 伊邪那岐神
伊邪那美神 天照大御神 天津神 國津神 八百萬神
三穂津姫社:三穗津姫神
睦魂神社:大国魂神 大国主神 少彦名神
参道の境内社
祓戸神社:瀬織津姫神 速秋津姫神 氣吹戸主神 速佐須良姫神
火雷社:火産靈神 奧津比古神 奧津比賣神 (配祀)八衢比古神 來名戸神 八衢比賣神
真須賀神社:建速須佐之男尊 神奇稲田姫尊
御年神社:大年神 若年神 御年神
事知神社:積羽八重事代主神 外二柱
厳島神社:市寸嶋姫尊
大山祇神社:大山祇神
奥社参道に祀る
常盤神社:武雷尊 譽多和気尊
白峰神社:崇徳天皇 待賢門院 大山祇神
菅原神社:菅原道眞合祀 宮比神 倉稻魂神 久那斗神 八衢彦神 八衢姫神
上筒之男神 中筒之男神 底筒之男神 火産靈神 奧津比古神
相良神 寳殿神 野槌神 重徳神 山家公頼
奥社は、厳魂神社という名前で、嚴魂彦命を祀る。
こんぴら船々

こんぴら船々 追い手に 帆かけて シュラシュシュシュ 回れば 四国は 讃州(さんしゅう) 那珂(なか)の郡(ごおり) 象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(だいごんげん) いちど まわれば お宮は金毘羅 船神さまだよ キララララ 時化(しけ)でも無事だよ 雪洞(ぼんぼり)ゃ明るい 錨(いかり)を下(おろ)して 遊ばんせ いちど まわれば、、、、、、、
こんぴら 船々 追い手に帆かけて   しゅら しゅ しゅ しゅ   まわれば四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)   象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現   一度まわれば     こんぴら 御山(みやま) の 青葉のかげから   きら ら ら ら   金の御幣(ごへい) の 光が ちょいとさしゃ   街道は雲霧 晴れわたる   一度まわれば     阿波の殿様 蜂須賀(はちすか) さまだよ   しゅら しゅ しゅ しゅ   私ゃ あなたの そばそばそばだよ   ほんとに 金毘羅大権現   一度まわれば     こんぴら 石段 桜の真盛り(まさかり)   きら ら ら ら   振袖島田が さっさと上がる   裾には降りくる 花の雲   一度まわれば     四国 名物 後生楽踊り(ごしょらくおどり) を   しゅら しゅ しゅ しゅ   踊らにゃ損だよ 夜明けのカラスが   鳴くまで踊ろよ 阿波踊り 
「シュラシュシュシュ」の「シュラ」は「修羅」のことらしい。「修羅」は木製の運搬道具。重い荷物や大石を運ぶときに使う。
 仏教の修羅は、帝釈天(たいしゃくてん)と戦って敗走させた悪鬼である。つまり、大石(たいしゃく)をも、走らせるから、シュラ。
参考:http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/konpira.html

 讃岐 忌部

 葛城と忌部という視点ですと、讃岐神社の粟井神とか。 葛城の忌部は、讃岐忌部なんでしょうね。
天太王命(齋部宿禰祖)
太玉命所率神名
天日鷲命(阿波國忌部等祖也)
手置帆負命(讃岐國忌部祖也)
彦狭知命(紀伊國忌部祖也)
櫛明玉命(出雲國玉作祖也)
天目一箇命(筑紫,伊勢兩國忌部祖也)
 日本紀略
 延喜6 (丙寅) 2・7 讃岐国氏大神・苅田神・連岳神・国栄神の諸神,従五位下に叙される。
この苅田神とは粟井神のことです。
粟井神は苅田郡に鎮座
屋栗神は三木郡
香川県仲多度郡琴南町梶州741 梶州神社(かぢすじんじゃ) 鵜足郡
香川県仲多度郡琴南町造田3431 天川神社  鵜足郡
香川県綾歌郡宇多津町1644 宇夫階神社  鵜足郡
賀富良津神 ?
『三輪山の古代」
『先代旧事本紀』には高照光姫大神命、坐倭国葛上郡御歳神社とあります。 更に、文永年間(1264~)の『大神分身類社鈔』に、長柄比売神社一座 大和国葛上郡御年神社 高照光姫命 とあります。御歳神社の祭神を高照光姫命としています。
『平成データ』では、讃岐の国だけに長柄神社で祭神が御歳神というのが出てきました。 讃岐国阿野郡(香川県綾歌郡綾上町)に長柄神社が鎮座、國常立命、天津兒屋根命、大山積命、猿田彦命、御歳神を祭神としています。 讃岐国香川郡(高松市円座町)廣旗神社摂社長柄神社が鎮座、御年神を祭神としています。 御歳神と忌部氏-讃岐-と関わりがありそう
讃岐は散吉と書く、銅鐸と関係あるか??

北葛城郡上牧からも鐸が1口でているが、 隣村馬見村には式内讃岐神社があり、 かつ和名抄散吉郷の所在地で、 銅鐸の古和名「サナギ」と密接な関連をもつと考えられる
式内讃岐神社は、竹取物語の舞台
園神・韓神

園韓神祭
平安京宮内省内に鎮座していた園神・韓神の例祭。 式日は2月春日祭の後の丑の日と、11月新嘗祭(にいなめさい)の前の丑の日とであった。園韓神社は平安遷都以前よりその地に鎮座する古社で、所伝では、養老年中(717-24)、藤原氏の創建にかかり、平安遷都の折に他所へ遷そうとしたところ、「猶(なお)此の地に坐して、帝王を護り奉らむ」との託宣があったため、宮内省に鎮座することになったといい(『古事談』など)、『新抄格勅符抄』にも、讃岐国の園神20戸・韓神10戸の神封が天平神護元年(765) に充てられたことがみえる。
川原寺 沿革

当寺寺領関係についていえば、天武天皇の代には、川原寺は厚い崇敬をうけ、天武元年(673)には常陸、上野、武蔵、紀伊の国々に計五百戸の封戸を施入されたという 和銅2年(709)当時の寺領は田百59町余、陸田69町余で、大和国広瀬、山辺、葛下、高市、宇智諸郡を始め、河内、山城、尾張、近江、美濃、讃岐の諸国に散在していた天平6年(724)には、天智天皇の皇女水主内親王が、大和国広湍郡の水田三十五町余その他を買取つて施入し又宝亀8年(777)にも大和国十市郡内四町の地が施入された かくして次第に寺領は憎加したが、平安時代に入り初期庄園の経営が困難になると共に、遠隔地の庄園は次第に川原寺の支配から離れて行つた<註27>。 又大和国内においては、興福寺の勢力が強大になると共に、当国内の所領についても興福寺の侵略を受けるに至つた。 すなわち永久3年(1115)頃、弘福寺領広瀬庄住人は興福寺領平田庄と結び、興福寺の威を恃んで所当官物を対捍した。
参考 川原寺沿革
讃岐国山田郡に領域をもっていたことが
寺封(新抄格勅符抄)

薬師寺 五百戸 癸酉年施 常六 百戸 信乃五十戸 武蔵百戸 讃岐二百戸 伊予五十戸
橘寺 五十戸 宝字七年施 讃岐国
8世紀の讃岐

735 天平7 (乙亥)
  この年 多和文庫蔵「弘福寺領讃岐国山田郡田図」成る.
738 天平10 (戊寅)
  11・- 讃岐国から封戸100戸を大和興福寺へ施入する(新抄格勅符抄)
746 天平18 (丙戌)
  10・- 讃岐国,鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂の調1疋を運上する(正倉院蔵調庸綾 墨書)
 4・5 諸道の鎮撫使を任じ,参議紀麻呂を南海道鎮撫使とする(続日本紀)
747 天平19 (丁亥)
  2・11 この頃 讃岐国内に13か所の法隆寺領荘園が存在(法隆寺伽藍縁起          并流記資財帳)
752 天平 勝宝4 (壬辰)
  10・25 山田郡宮処・香川郡中間・鵜足郡川津3郷の戸計150戸を封戸として          東大寺へ施入する(東大寺文書)
  10・- 讃岐目高志連倭麿,鵜足郡二村郷の吉志部呼鳥の調1疋を運上する(正倉院蔵酔胡従面裏白)
763 天平 宝字7 (癸卯)
  8・23 朝廷,讃岐・阿波両国に使者を派遣し,賑給を行う(続日本紀)
  10・29 山田郡司秦公大成,郡内の大和弘福寺領について校田を行う(東寺文書)
     この年 讃岐国から封戸50戸ずつを大和小治田寺・同橘寺へ施入する(新抄格勅符抄)
767 神護 景雲1 8・16 (丁未)
   2・22 讃岐国の稲4万余束を和泉国の種もみに宛てる(続日本紀)
768 神護 景雲2 (戊申)
   2・28 寒川郡人韓鉄師毘登毛人・韓鉄師部牛養ら127人,坂本臣の姓を与えられる(続日本紀)
776 宝亀7 (丙辰)
  11・29 出羽国の俘囚358人を讃岐国と大宰府管内に配る(続日本紀)
779 宝亀10 (己未)
  この年 讃岐国から封戸50戸を大和唐招堤寺へ施入する(新抄格勅符抄)
780 宝亀11 (庚申)
  12・29 これ以前 坂本毛人,寒川郡鴨部郷の墾田畠・塩山を大和西大寺へ寄          進する(西大寺文書)
     この年 讃岐国から封戸50戸を大和妙見寺へ施入する(新抄格勅符抄)
式内社:大3小21合計24座

延喜式内名神大社
 田村神社:一の宮
 (勝手なリンクを禁止します:ページ作成者)
 和銅2年(709) 建立
 祭神   田村大神 たむらおおかみ       倭迹迹日百襲姫命 やまとととももそひめのみこと       吉備津彦命  きびつひこのみこと         猿田彦大神  さるたひこのおほかみ        天隠山命  あめのかぐやまのみこと        天五田根命  あめのいたねのみこと
城山神社
摂社横関神社「天香語山命」摂社長谷神社「天太玉命、天道根命」綾歌郡綾上
http://kagawa.bine.jp/jinnjya/sakaide/134kiyama/134kiyama.html
第十二代景行天皇の二十三年神櫛王勅命を受け南海の悪魚を討たんと讃岐の国に来り櫛梨山の麓を根拠に祓戸の神、大麻、大歳の神に祈りこれを退治す。 天皇これを賞し讃岐の国造に任ず。 王城山に城郭を築きこの国をよく治め給う。王、仲哀天皇の八年9月15日御歳百二十五歳にして薨す。 国人その徳を奉齋し城山の嶺明神ヶ原に廟を建て城山大明神神櫛別命として祀る。 これ城山神社の由来なり。
城山神社[きやま]「神櫛別命」
参拝のしおり 当社は坂出市府中町4760に鎮座しており、神櫛別命をお祭りしている。 神櫛別命は景行天皇の御子で、讃岐公及び酒部公の祖先である。 貞観七年従五位上に叙せられた。 仁和四年五月国守管原道具公は、祈雨の祈願をした。延喜の制で名神大社に列し、その後国府をこの城山麓に定めた時、府内鎮守の神としたので代々の国司、領主及び地方民の崇敬厚く、古来地方の名社として今日に及んだ。明治三十六年県社に列した。 城山[きやま]の南麓に鎮座。磐座とおぼしき巨岩があり近くから銅鐸が出土している。一帯はサヌカイトの産地である。 香川県坂出市府中町4760
粟井神社
http://www.genbu.net/data/sanuki/awai_title.htm
御祭神 天太玉命
相殿  天照大神 月読命 保食神
創建年代は詳らかではないが続日本紀に「承和九年(八四二)粟井神名神に預かる」と記され平安期初頭既に名神に列するほどの名社故に讃岐最古と推測される。また延喜臨時祭式の名神祭二百八十五座の内に「粟井神社一座讃岐國」とあり粟井神社は当時の讃岐に於て唯一名神祭に預かる社であった。
上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、一致団結をはかりました。この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれ。 社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
一覧
http://www.kamnavi.net/en/sanuki.htm 2691 讃岐国 寒川郡 志太張神社 小 2692 讃岐国 寒川郡 布勢神社 小 2693 讃岐国 寒川郡 神前神社 小 2694 讃岐国 寒川郡 多和神社 小 2695 讃岐国 寒川郡 大蓑彦神社 小 2696 讃岐国 三木郡 和尓賀波神社 小 2697 讃岐国 香川郡 田村神社 名神大 2698 讃岐国 阿野郡 鴨神社 小 2699 讃岐国 阿野郡 神谷神社 小 2700 讃岐国 阿野郡 城山神社 名神大 2701 讃岐国 鵜足郡 飯神社 小 2702 讃岐国 鵜足郡 宇閇神社 小 2703 讃岐国 那珂郡 櫛梨神社 小 2704 讃岐国 那珂郡 神野神社 小 2705 讃岐国 多度郡 大麻神社 小 2706 讃岐国 多度郡 雲気神社 小 2707 讃岐国 苅田郡 高屋神社 小 2708 讃岐国 苅田郡 山田神社 小 2709 讃岐国 苅田郡 加麻良神社 小 2710 讃岐国 苅田郡 於神社 小 2711 讃岐国 苅田郡 粟井神社 名神大 2712 讃岐国 苅田郡 黒嶋神社 小 2713 讃岐国 大内郡 水主神社 小 2714 讃岐国 三野郡 大水上神社 小
 歴史

天智6年(667)   屋島城築城 このころ城山城も築城か?
大化元年(645)   讃岐国府が府中に置かれ、条里制が敷かれる (大化の改新)
天武14年(685)   綾君に朝臣の姓を賜う 鴨廃寺の建立
和銅5年(712)   讃岐川津郷に綾錦を織らしむ(続日本記)
天平19年(747)   阿野郡2ヶ所鵜足郡2ヶ所法隆寺封戸となる
天平勝宝4年(752) 川津郷50戸 東大寺封戸となる
延暦12年(821)   空海満濃池を修築
仁和2年(886)    菅原道真、讃岐国守となる
         菅原文庫によれば、讃岐の人口は89郷20万
仁和四年この年は、特に雨が少なく田植えもままならず作物は枯れ人民の苦しみはその極に達していた。 時の讃岐国の国司菅原道真公これを憂い、我が命にかえこれを救うため神に雨をお祈りされる。 この周辺に山は多いが一きわ城山の山は険しい、お社も数あるが城山の社はもっとも神霊である。 よって城山の神に祈る「神よ我心願聞き入れ下されば讃岐国八十九郷二十万の人民はこぞって神威に応え末代までも神域を飾り玉幣を奉り敬神する。 もしこれに応えられなければ人民は神をうとんじ神威は失われ尊厳は地に落ち礼祭も疎らとなろう。我が心願聞き入れ給え」 と城山に登り明神ヶ原において六日、六夜死を賭して雨を祈る。
天慶2年(939)    藤原純友 釜島、松島(倉敷市)に砦を築く(天慶の乱)
保元 1(1156)   8月崇徳上皇讃岐へ配流(7/23)
 讃岐神社 讃岐

延喜式神名帳に記された神社と考えられる
現在は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭るが、『日本三大実録』元慶七年(883)の散吉大建神・散吉伊能城神に従五位下を授ける記事は当社に関する可能性が大きい。
『神名帳考証』には讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記される。
竹取物語の舞台が讃岐神社周辺であるとされている。かぐや姫に求婚する五人の貴公子の名は壬申の乱(672)で活躍した実在の人物
竹取翁の名前は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」
石清尾山が所在する香川郡は新撰姓氏録によれば「讃岐公同祖神櫛別命後」とある
国造本紀及び景行・履中紀等に「櫛別命は鷲住王、是讃岐国造之始祖也」。
全讃史に「景行天皇男子倭建命御子讃留霊王(武卵王)と申奉。是綾氏祖也。霊王国史云う神櫛王に当る」とある
太玉命~忌部・讃岐⇔讃留霊王~綾・秦氏への伝承の習合が浮かび上がってくる。
奈良県北葛城郡広陵町 讃岐神社
 ここには、讃岐のうえ神社と同名の神社があるhttp://kamnavi.jp/as/katuragi/oite.htm
「竹取物語」 (平安時代作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統、文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族、斎部(いんべ)氏が、大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだものとしている。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/sanuki-kouryou-shrine01.htm
『古事記上巻』に、第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることが出来ます。更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つける事が出来ます。讃岐なる名前の人の姓は、『古事記』の記録に記載されているから存在していた実証となります。そして更にこの迦具夜比売は十一代垂仁天皇の妃となり、その子の袁邪弁王なる御子の名も歴史の中に記載されています。
「かぐや姫」にプロポーズをした5人
1.石作皇子(いしつくりのみこ)=丹比嶋真人?(たじひしままひと)
2 車持皇子(くらもちのみこ)=藤原不比等?(ふじわらふひと)
3 右大臣阿倍御主人(あべのみうし)=同名の実在の人物
4 大納言大伴御行(おおとものみゆき)=このまま同名の実在の人物
5 中納言石上麻呂足(いそのかみまろたり)=物部連麻呂(もののべのむらじまろ)改姓により石上朝臣麻呂
神櫛皇子
景行記には次の様に書かれている。
「妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ」
景行天皇の王子の子孫が讃岐の国造となった。
三代実録に
「貞観六年八月十七日辛未、右京人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐臣時雄、
右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等、賜姓和気朝臣、其先出自景行天皇皇子神櫛命也」
と書かれている
景行天皇二十三年、南海に悪魚が住んでいてここの海までも通ってくる。大きな波を起こし船を沈め、人をも殺し、船の往来までも止めてしまうので貢ぎ物をして難を逃れているのを天皇が聞き、皇子達にその魚を討ち取れと言った。そこで讃留霊王と言う皇子に大伴健日連と、吉備武彦の二人をつけて土佐国へと下した。皇子は国々へ命じて、其の魚のいるところを探したところ阿波の鳴門に住んでいると言う事を聞いた。しかしそこは濤風が荒い所なので、そこから魚が出てくるのを待とうと一年を過ごしたところ、明年三月讃岐国から槌戸と言うところにその魚がいると伝えられ、土佐を出て四月三日に讃岐国へと入った。千余の軍士を伴い狩りをする様に五月五日、その魚を討ち取った。軍士達は飲み込まれたり、毒気にあてられたりして多くが死んだが皇子には何事も無く福江浦にて討ち取った。大伴健日連と、吉備武彦を都へと返し、その旨を奏し、皇子は城山に城を築いて、以後この地に留まった。仲哀天皇八年、百二十歳にて亡くなった。その子孫、千摩命、能摩命、森葉摩命、小枝大別命、吉美大人、油良大人、坂根麿、笠麿、小櫛麿、海麿、渾津大人、などなど相続き、代々山田郡を領した。 讃岐公、別名酒部などの姓を名乗った。皆、この裔であり、後世に至り、十河,植田、三谷、神内などの氏をも又、その子孫であると言う。
古事記に、神櫛王者は木国の酒部阿比古や、宇陀酒部の祖と書かれている。また、姓氏録には、酒部公と讃岐公は同祖で神櫛別命の後裔であると記述がある。
更に続日本紀五、三十六、文徳実録八などにも、この姓があり、全てこの皇子の裔と記されている。
坂出とは、酒部のいたところであり、酒出での港かもしれない。讃岐忌部が作ったものは、なにか
 綾織 を貢いだこと
 酒は不明??
白鳥町,白鳥神社の由来

 皇族将軍,大和武尊(ヤマトタケル)が東征の後伊勢で没し白鳥となって西方の武尊の妻弟橘姫の出身である讃岐に姫を慕って飛来し当地で白鳥明神となった/白鳥神社祭神:日本武尊,両道入姫命,橘姫命/境内神社の三社神社の祭神:吉備武彦,大友武日,武内宿禰 (香川県)
古文 竹取物語

今は昔、竹取の翁といふものありけり。 野山にまじりて竹を取りつゝよろずの事に使ひけり。 名をば讃岐造(サヌキノミヤツコ)となんいひける。 そぅの竹の中にもと光る竹なん一筋ありける。 怪しがりて寄りて見るに筒の中光りたり。 そぅれをみれば三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。 翁いふやう、「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給ふべき人なんめり」とて、手にうち入れて家に持ちて来ぬ。 めの嫗(オウナ)にあづけて養はす。 美しきこと限りなし。 いと幼なければ籠(コ)に入れて養ふ。 竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹取るに、節を隔ててよごとに黄金ある竹を見つくること重なりぬ。 かくて翁やうやう豊かになりゆく。 この乳子(チゴ)、養ふ程にすくすくと大きになりまさる。 三月ばかりになる程に良きほどなる人になりぬれば、髪上など左右(サタ)して、髪上げさせ裳ぎす。 帳の内よりも出ださず斎(イツ)きかしづき養ふ程に、この稚児の形けうらなること世になく、屋の内は闇き所なく光り満ちたり。 翁、心地悪しく苦しき時も、この子を見れば苦しき事もやみぬ。 腹だゝしき事も慰めけり。 翁、竹を取る事久しくなりぬ。 勢ひ猛の者に成りにけり。 この子、いと大きに成りぬれば、名をば三室戸(ミムロド)忌部の秋田を呼びて付けさす。 秋田「なよ竹のかぐや姫」と付けつ。 この程、三日打ち上げ遊ぶ(アソゥブ)。 よろずの遊びをぞしける。 男女(ヲトコヲウナ)嫌はず招び集へて、いと賢こく遊ぶ。

●注解<一部抜粋) ◆竹取翁 竹は蛇と同一視し、その成長力には神霊が宿るとの観念から神聖な禾木とされ神事の具となる。 翁・青年と神聖な竹・竹娘が結び付き変身する物語は多く(神仙思想の影響など)、埋葬地に生えた竹が財宝を齎す、など唐の文献にみえる。 「死霊出入邪霊侵入阻止」を意図とした当時の葬制(抱朴子・後漢書ほか)の反映がある。 日本も竹と神聖縁起を結び付ける話は多くの伝承が立証する。 ◆讃岐造 讃岐氏が関わる地に(北葛城郡広陵町三吉)讃岐神社あり。 三吉の古音は散吉の字を当てサンキと訓む(日本三代実録・延喜式など)。 古事記に因る大筒木垂根王を讃岐一族とみなすが、事述に迦具夜姫と竹野姫が登場する。 又、筒木は山城の綴喜郡に通じる竹姫伝承とする説もある。 隣接する相楽郡に椿井大塚山古墳があり、神仙思想を匂わす冠の出土があった事に注意を要する。 ◆三寸ばかりなる人 竹姫と筍童子の伝承は291話あり、その中の海道記などには鶯の卵(カヒコ)と云い、竹姫(赫映姫)が結び付いていく類話も数例みられる。 ◆乳児 田中大秀(竹取翁物語解《1831》)は「古のちごは稚児にあらず乳子を云い、稚児と云うは言葉の轉びで成長段階の音便に用いたり」と解く。 ◆髪上げさせ裳ぎす 折口信夫は「古の童女の髪型で振り分け髪を云い、うなゐばなり(秀にうなゐ子)のこと」と解く。 平安時代の頃は、三歳の男女児を髪置きとも云う。 裳ぎすは、五歳男児は袴着、七歳女児を帯解きといい現在の七五三の原型となる。 「帳の内」の記に惑わされ元服する年頃の意に捉えられ易いが、此処は稚児衣装とするのが妥当。 古文詞章にいう「帳の内よりも出ださず斎きかしづき養ふ」は行儀躾けとみなし、次の文の「稚児の形けうらなる」の詞に懸かる。 ◆三室戸忌部秋田 万葉集巻二に「玉匣三室戸山」とあり、御室は神の降臨する聖所の意を持ち、戸はその祭祀の場所をいう。 此処は三輪山祭祀を指すことから忌部氏は大神神社の祭司を職掌とし、秋田は豊饒の意を持っている。 当時の名付の儀式は一族の長がつける。 従って忌部氏は讃岐氏の本家となる。 竜田にも神南(カンナビ)三室(ミムロ)山あり。 山上に神丘(カムヲカ)社あり。 里に古事記に云う勢野(セヤ)在り。 ◆名付宴 名付を十三歳とするは十三夜に由来させた。 八月十五日(旧暦名月)に対して十三夜は豆名月といい我国固有の風習とも。 後の文脈への懸かりを考える。 * 養ひ奉ること二十餘年と天の羽衣の章で翁は云う。 物語の経緯から推移すれば名付けの宴を十三歳として、貴公子の求婚迄に一年、求婚難題に三年、帝との交誼に三年の歳月が流れている。それらを足せば月の都へ帰るのは二十歳の頃となる。 讃岐の綾君 武皷王 景行記には次の様に書かれている。 「日本武尊妃、吉備武彦之女、穴戸媛生武皷王、興十城別王其兄、武皷王、是讃岐綾君是始祖也」 綾氏系図には 武皷王~雨彌麻彦~奈鬼爾麻命~竈王~多富利別命~日向王~多郡君~依志君~奴乎古君太夫 ~堅石~大山麿~圓麿~石床~業長~蔵捨~季世~百行~能臣~定時~貞清~行隆~貞宣等々、 代々続いて綾郡を領し、日向王以来、綾の大領と呼ばれた。 武明王が武皷王か。 祭神・建貝児王は、同じ読み方で、武卵王・武鼓王・武皷王・武殻王・武養蚕命・多 祁迦比古王命・武明王・竹材子命など、いろいろな書き方がある 景行天皇──日本武尊──武明王──【綾】爾彌麻命──奈鬼爾麻命──竈王──多富利大別命──日向王 更に天武記に「綾君、朝臣の姓を賜る」と書かれており、 続日本紀四〇にも 「讃岐国阿野郡人、綾公管麿呂等言、己等祖庚午年之後、至于己亥年、始蒙賜朝臣姓、是以和銅七年以往三比之籍、 並記朝臣、而養老五年造籍之日、遠校庚午年籍、削除朝臣、百姓之憂無過比甚、請據三比籍及舊位記、 蒙賜朝臣姓許之」 続日本後紀十九には 「讃岐国阿野郡人、綾公姑繼、綾公武主等改本居、貫附左京六條三坊」と、 霊異記には 「讃岐国香川郡坂田里、有一富人、夫妻同姓綾君也」 皆々この王の末裔である。古事記には建貝古(タケカイコ)と書かれているが、宣長が言うには皷は殻の誤りで、更に武卵王とも書かれている事から殻であることは間違いない。 舊事記には更に「武養蠶命」とも書かれているが、これは別人の事を言うばかりで御名の字が異なっているのみである。 さて殻の字は辞書には卵甲と意味が書かれているのを考えて、加比古と用いられたのであろう。名前の由来は卵、或いは蠶などに有るのではと考えられる。 建貝兒王とは 記紀に景行天皇51年の条に事を記せる条に、『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武鼓王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』と見ゆ。皷は殻の誤写にして殻も卵も共に「カヒコ」と訓ずべき事本居大人己に之辯ぜり。「本居大人」とは江戸中期の国学者。古道研究を志し、30余年を費やして大著「古事記伝」を完成。(讃留霊王)(武殻王) (建貝兒王) は日本武尊の王子にましまし御母を吉備穴戸媛と申しあげる 讃岐でカイコといえば、養蚕の蚕の虫であり、綾の大領の綾織(絹)と関係があるのではないか。舊事記には更に「武養蠶命」の意味もこれならカイコを養うことで理解できる。 継体天皇 大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)にいる足仲彦(たらしなかつひこ:仲哀)天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせようとしたが、王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまう。そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)大連、許勢男人(こせのおびと)大臣らと協議して、今度は越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる誉田(ほむだの:応神)天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。 足仲彦との関係 景行天皇の子: 『日本書紀』の記述  両道入姫皇女との子、稲依別王、足仲彦天皇、布忍入姫命、稚武王  吉備穴戸武媛との子、武卵王、十城別王  弟橘媛との子、稚武彦王  妃3人に7人の御子。  これ以外に蒲見別命が存在する 『白河本旧事紀』の記述 男小碓尊   亦た日本童男尊と名づく。後に日本武尊と称へる。此の尊、垂仁天皇の皇女、両道入姫命を娶り元妃と為して四王子を生む。   男稲依別王    此の王は、乃ち犬上君、武部君の祖なり。   男足仲彦天皇   女布忍入姫命   男稚武王    此の王は、乃ち近江君、宮道君の祖なり。   次の妃、吉備武彦の女、吉備穴戸武媛、二王子を生む。   男武卵王    此の王は、乃ち讃岐綾君、伊勢別、登遠別、麻佐首、官首別等の祖なり。   男十城別王    此の王は、乃ち伊予別君の祖なり。   次の妃、穂積忍山宿祢の女、弟橘媛、九王子を生む。   男稚武彦王    此の王は、乃ち津揮田君、武部君の祖なり。   男稲入別王   男武養蚕王    此の王は、乃ち波多臣等の祖なり。   男葦@竈見別王    此の王は、乃ち竈口君等の祖なり。   男息長田別王     此の王は、乃ち淡粟君等の祖なり。   男五十日彦王    此の王は、乃ち讃岐君等の祖なり。   男五上彦王   男武田王    此の王は、乃ち尾張国丹羽建部君等の祖なり。   男寒木王    此の王は、乃ち三川御使連等の祖なり。 絹の歴史:綾と秦 日本でも三世紀には、『魏志倭人伝』に、「禾稲、苧麻、を植え、蚕桑緝績し、細苧、ケンメンを出す」(『魏志倭人伝』岩波書店)とあって絹織物を産した。 仲哀天皇九年(200)、新羅は貢ぎ物として金銀彩色および綾羅ケン絹を献上した。(『神功記』) 応神天皇十四年(283)、融通王来朝、大和の朝津間腋上で中国様の絹帛を織りだした({応神記』)。同年、百済の照古王が呉服西素を献じた(『古事記』)。  同37年、既に17年前に渡来していた漢人阿知使主父子は高麗から、呉国に至り、工女兄媛、弟媛、呉織(くいれはとり)、穴織を伴って帰朝した。 雄略天皇の7年(462)には百済の織工定安那が招かれ上桃源の地で錦を織り始め錦部(にしごり)の祖となった。更に同14年、呉国より漢織(あやはとり)、呉織、衣縫兄媛、弟媛が渡来し、織女に綾を織らせたという(『雄略記』)。 『雄略記』に秦(はた)氏を四方に遷して、織法を諸国に広めて保護奨励したとある 諸国の絹を織って献上する者が多くなったと言う。それには機織具の新機軸はいうまでもなく養蚕事業も伴っていたと考えられる。(五世紀中葉における日本の染織の進展) 4世紀後期(470年代)の雄略天皇の時代に、百済の帰化人である秦氏から蚕桑と織物技術を習得し、天皇家へ奉献する絹織物を製織したことから機業として発達していった。 秦氏の渡来の伝承の形成 『古事記』応神天皇  (この御世に)秦の造の祖、まゐ渡り来つ。 『日本書紀』 応神紀十四年 弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく。「臣、己が国の人夫百 二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅國に留れり」とまうす。 ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。 応神紀十六年 平群木宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。 『古語拾遺』応神天皇 軽嶋の豊明の朝に至りて(中略)秦公が祖弓月、百二十県の民を率て帰化けり。 『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢 太秦公宿禰 出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王 (一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。 大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。以下略 石清尾山の南麓は坂田郷といわれていました。その坂田出身の高僧「観賢(853~925)」は奏氏といわれています。観賢は,空海に弘法大師の称号を贈るよう運動を起こした人で,彼によって弘法大師信仰のいしずえが築かれたことは,忘れてはならない事柄でしょう。また,日本霊異記という古い書物には,石清尾山坂田の大富豪綾氏夫婦が,貧者に施しを与えた説話が残されています。奏氏と綾氏はいずれも,讃岐の渡来人としてよく知られており,石清尾山古墳群が造られた山の麓に,数百年後,渡来系の氏族が栄えたようだ。 養蚕王は波多臣等の祖:旧事紀を信じてみよう。 養蚕の神より 広隆寺が建立されると同じ頃に、秦氏一族は近くの太秦森ヶ東町にある養蚕の社(かいこのやしろ)を勧請している。社内に「養蚕神社」を合祀しているので、通称で「かいこのやしろ」といわれている。社名は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という、この神社は広隆寺創建と同時期に秦氏が祀ったと言われる。木島社は大酒神社の本社に当たり、摩多羅神のお面や冠は、なんと木島坐天照御魂神社の宮司、服部さんが作っているのだそうである。(京都発見(二)路地遊行・梅原 猛から) 京都の太秦のほかに太秦(うずまさ)の地名があるのは大阪府寝屋川市。かつて、茨田郡、秦村・太秦村と呼ばれていた。付近の史跡に茨田堤(まんだのつつみ)がある。淀川の左岸づたいに、仁徳天皇11年(324年頃)に築かれた堤防で、日本で最初の大土木工事とされる。古事記では茨田連(まむたのむらじ)が秦人を使って造堤したと書かれる。現在の枚方市から大阪市福島区の野田付近までの大堤だ。この堤の建設に集まった秦人が、寝屋川の太秦に定住したのが太秦村の始めである。 大酒神社 祭神 秦始皇帝 弓月王 秦酒公 相殿 兄媛命 弟媛命(呉織女、漢織女) 神階 正一位 由緒:当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。 「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を*仲哀天皇八年(三五六年)皇帝一四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の純朴なる国風を尊信し始めて来朝しこの地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。 后の代にいたり、功満王の子弓月王、応神天皇一四年(三七二年)百済より一二七県の民衆を一万八千六百余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。また、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族をひきいて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織りだし朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如し、天皇御悦のあまり、埋益という意味で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹織を織りだしたる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明歴年中破壊に及びしをもって、当社に合祭す。 大和漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)らは応神20年にやってくる。彼らは南半島に移住していた倭人(越人)であろう。その17年後、阿知使主(あちのおみ)は(応神記37年条)半島を経て再び呉に出て行き、4年後に呉王から工女兄姫・弟姫、呉織、穴織の4人を与えられて戻ってきている。(41年条)これらの4人を胸形大神が乞われるので、奉じたとある。 聖通寺山 聖通寺山(119m 香川県宇多津町)  高松坂出有料道路を走り、坂出市から瀬戸大橋の根元、宇多津町に来る。瀬戸中央自動車道をくぐると聖通寺に来る。  聖通寺は弘仁年中弘法大師巡錫し安産と子孫繁栄の守本尊として千手観音(国重)を観音堂に自刻安置したのが始まりで、本尊は漁師の網に掛かった薬師如来座像で沖薬師といわれている。貞観10年沙弥島生まれの理源大師が寺を再建し、鎌倉時代は80余坊の伽藍が立ち並んだ。  寺は南向きの斜面にあり日当たりはよく、冬とはいえ咲き遅れのバラの花が咲いている。暖かいのでここで昼食。  この寺の横から山頂へ車が登っている。北峰に古墳時代前期~中期の石塚がある。説明によると一般に塚はは土を盛り上げて作られるが、ここでは石を積み上げて作られている。積み石による噴丘は珍しく、その大半が讃岐地方に分布している。 聖通寺城(別名:平山城) 綾歌郡宇多津町と坂出市にまたがる聖通寺山(標高:122m) 奈良太郎左衛門元安。子、備前守元信。孫、太郎兵衛元政 宇多津側:外郭跡、空堀、土塁、水の手跡、 坂出側:外郭跡、船隠し、古井戸。 武蔵国大里郡奈良を本拠地とする御家人の出自を持ち、官僚細川家の馬廻りをしていた奈良氏は貞治元年(1362)高屋合戦における武勲により讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った。その後奈良太郎左衛門元安は応仁の頃に聖通寺山に築城し、子、備前守元信。孫、太郎兵衛元政と3代に渡りこの聖通寺城によって領治した。天正十年七月土佐の長宗我部元親は先年下した羽床、香川氏を先鋒に奈良氏に攻撃目標を定めた。しかし、嘗て細川の四天王と言われた奈良氏も鵜足郡内津之郷、川津、二村などの数か村を保つに過ぎず勢力は衰えていた。太郎兵衛元政は聖通寺を棄て香西伊賀守に合流しようとしたがならず、阿波の三好存保の拠る勝端城を頼った。同年八月、元政は中富川合戦で二五〇余名とともに討たれ名門奈良氏も滅亡した。 ≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』 城主は奈良氏、奈良太郎左衛門元安~備前守元信(元吉)~太郎兵衛元政(勝政)~仙石秀久~尾藤知宣~生駒親正(近規)と書かれている 櫛梨神社[クシナシ] 櫛梨神社[くしなし]「神櫛王命」 由緒(碑文) 当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。天正七年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文五年、氏子等により再建せらる。明治三年、随神門、同四十三年、本殿、翌四十四年幣殿を各改築、大正六年、社務所を新築す。 香川県仲多度郡琴平町下櫛梨280 櫛梨神社 船磐 景行天皇皇子日本武尊能褒野御陵墓  日本武尊は景行天皇の命をうけて、大和朝廷に従わない豪族を征伐するために、九州から東北まで転戦した。東国からの帰路に、伊吹山中にて病をえてのぼのにおいてついに亡くなられ、埋葬した墓から尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと「古事記」「日本書紀」に記され、明治12年(1879)内務省によって現在のお墓が、日本武尊墓と定められ、現在も宮内庁によって管理されている。  お墓は、かって「丁字塚」と呼ばれた全長90mの前方後円墳で、北勢地方最大の古墳である。御墓に隣接して、日本武尊、弟橘姫命、建貝児王を祀る能褒野神社と、16基の後期古墳がある。 式内社 讃岐國鵜足郡 宇閇神社 旧村社 鵜茅葺不合尊 香川県丸亀市綾歌町にある。 栗熊駅の南西2Kmほど。 創祀者とされる、酒部益甲黒丸は、城山長者とよばれ、 『新撰姓氏録』に「酒部公、讃岐公同祖、神櫛別命之後也」とある