桃太郎と百襲姫、吉備津彦と田村神社

吉備津彦命

古代日本の皇族。孝霊天皇の第3皇子で、生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)とも(『日本書紀』)、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)(安寧天皇の皇曾孫)とも伝える(『古事記』)。また、本来の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと。比古伊佐勢理毘古命にも作る)といい、亦の名前が吉備津彦命(『書記』)、大吉備津日子命(『古事記』)であったと伝える。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。
1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる
また、同天皇60年には武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

備前の一宮
岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。
社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。

延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが当社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。
祭神は以下の12柱[1]。

主祭神
大吉備津彦命 (おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。

相殿神
吉備津彦命 (若日子建吉備津彦命、稚武彦命) – 大吉備津彦命の弟または子。なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す
孝霊天皇 – 第7代。大吉備津彦命の父
孝元天皇 – 第8代。大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 – 第9代。孝元天皇の子
崇神天皇 – 第10代。開化天皇の子
彦刺肩別命 (ひこさしかたわけのみこと) – 大吉備津彦命の兄
天足彦国押人命 (あまたらしひこくにおしひとのみこと) – 第5代孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命 (おおやまとととひももそひめのみこと) – 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命 (おおやまとととひわかやひめのみこと) – 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神

吉備津神社 備中一宮
岡山県岡山市に鎮座する備中国一宮、吉備津神社の社伝によると、その後、命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。この中山茶臼山古墳(正式名称は大吉備津彦命墓)は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれており、現在では陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。
主祭神
大吉備津彦(おおきびつひこ)命
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別(みともわけ)命 – 大吉備津彦命の子孫
仲彦(なかつひこ)命 – 大吉備津彦命の子孫
千々速比売(ちちはやひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
日子刺肩別(ひこさすかたわけ)命 – 大吉備津彦命の兄
倭迹迹日稚屋媛(やまとととひわかやひめ)命 – 大吉備津彦命の妹
彦寤間(ひこさめま)命 – 大吉備津彦命の弟
若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)命 – 大吉備津彦命の弟
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で一社を成した。

田村神社 讃岐 一宮

田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)
別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)
別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。
天五田根命 (あめのいたねのみこと) – 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。
田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

桃太郎

桃太郎伝説は、古事記・日本書紀で語られる孝霊天皇の息子、兄、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)とその弟の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)が大和国から出て、西方を平定した話から成立したという説があります。

大吉備津日子命は播磨国から古代山陽道に入り、吉備国へ向かったとされています。
また、大吉備津日子命は吉備の上の道の臣の祖となり若建吉備津日子命は下の道の臣の祖となったとされていることから現在の岡山県に残る桃太郎伝説のモデルが大吉備津日子命香川県に残る桃太郎伝説のモデルが若建吉備津日子命ではないかと言われています。

昔、百済の皇子とされる温羅とその一派が吉備国にやってきました。
温羅はとても大きく、人並み外れて強く、また凶悪な性格で、辺りの人々を襲っていたとされます。

温羅を恐れた人々は、彼らの居城を鬼の城と呼んでいました。
そこで大和朝廷が、武勇に優れた五十狭芹彦命(=大吉備津日子命)を討伐のため派遣しました。
五十狭芹彦命は、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)ら、三人の家来と共に温羅討伐を開始します。

五十狭芹彦命の放った矢と、温羅の放った矢(石ともされています)は、ことごとくぶつかり合い、相殺されてしまいます。
この矢がぶつかり合ったとされる位置に矢喰神社があります。実際、鬼ノ城と楯築遺跡のほぼ中間地点にあります。

五十狭芹彦命は、片岡山に石の盾を設置して、鬼ノ城の温羅へ向かって矢を放ったといいます。鬼ノ城から片岡山まで直線距離で約8キロあります。

互いに矢が届かない状況が続く中、五十狭芹彦命は、二つの矢を一緒に放つことを思いつき、強弓を用意して、二本同時に矢を放ちました。
すると、一つの矢は温羅の矢とぶつかりましたが、もう一本の矢はみごと温羅に当たったのです。
このとき、温羅から流れた血が赤く染めたため、この川を血吸川と呼ぶようになりました。
川が赤くなる現象の理由として挙げられるのは、染料もしくは鉄分の流出です。
昔、この地域は製鉄が盛んだったと言われています。そういったことから、桃太郎伝説は、当時の大和朝廷が製鉄技術者達を制圧したことを物語にしたのではないかという説もあります。

最終的に、温羅は五十狭芹彦命によって首を刎ねられ、その首は串に刺され晒されました。しかし、温羅の首はずっと唸り続け人々を長く悩ませたといいます。 また、温羅を討った五十狭芹彦命は、吉備津彦と呼ばれるようになります。

夜毎唸り続ける温羅の首を、吉備津神社のお釜殿の下に埋めてもみましたが、一向に治まるようすはありませんでした。
ある夜、吉備津彦が夢に温羅が現れ、温羅の妻、阿曽媛に釜を炊かせ、自分を祀って、その釜の音で吉凶を占わせるよう告げました。
吉備津彦がその通りにすると、唸り声は治まりました。このことが、吉備津神社で今も行われる鳴釜神事の起こりであるとされています。

吉備津彦は281歳の長寿を全うしたといいます。
中山茶臼山古墳は、大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下にあります。

若建吉備津日子命(=稚武彦命(わかたけひこのみこと))は、地方開拓のため讃岐国にやってきます。当時、瀬戸内海には海賊達が出没して、鬼と呼ばれるほどの非道の限りを尽くし、周辺の住民達は大いに困っていました。

若建吉備津日子命は、この川で洗濯をしていた美しい女性(=のちの昔話ではお婆さんが洗濯していたとされています)にひとめぼれします。
そこで、海賊の悪さを知った若建吉備津日子命は、この女性に婿入りし、老夫婦の養子となって、海賊退治に乗り出します。

若建吉備津日子命は、三人の勇士を従えて、鬼ヶ島に住む海賊達の討伐に乗り出します。現在女木島と呼ばれる瀬戸内海に浮かぶ島は、人工大洞窟が発見されたことにより、
この昔話で語られる鬼ヶ島として広く知られることになりました。

みごと海賊を退治して鬼ヶ島より凱旋した若建吉備津日子命と三人の勇士
(彼らの出身は綾南町の猿王・岡山の犬島・鬼無の雉ガ谷とされ、
これが犬・猿・雉の元となったとされます)ですが、海賊達は報復しようと彼らを追ってきます。
しかし、逆に返り討ちにし、海賊達は全滅しました。この海賊達の屍を埋めた里を「鬼無」と呼ぶようになったといいます。
ここには桃太郎と犬・猿・雉、爺婆の墓や石碑があります。

香川県の桃太郎伝説は、讃岐国守だった菅原道真が、漁師から若建吉備津日子命と三人の勇士が海賊討伐をした話を聞き、おとぎ話としてまとめられたものが全国に広まったとされています。