讃岐の古代、語源と伝承

香川県は讃州、讃岐

香川県は、古くは「讃岐ノ国」と呼ばれていました。この名の起こりは日本書紀では「讃吉」、続日本紀では「紗抜」、播磨国風土記では「讃芸」、正倉院文書では「讃岐」といろいろ表現されています。
古事記、万葉集、古語拾遺などによれば「讃岐」が一般的で、「讃」はホメルということ「岐」は山の姿であるところから、「讃岐」とはその美しい風土をたたえてつけた名であろうというが??

香川県の県名は、古代の高松地域の郡名、香川郡によるという。

大和の讃岐神社、散吉(さぬき)大建命

 由緒書
当社の祭神は(三代実録)元慶七年の条に正六位上散吉大建命、散吉伊能城神と見えるが当社伝では大国魂神と倉稲魂神、大物主神を奉祀するといふ。別に広瀬大明神と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因る。

由緒
大和国廣瀬郡の式内社。
讃岐からの移住民が故郷の神を勧請して来たものと推測されている。 讃岐国苅田郡の式内社である於神社、粟井神社が観音寺市粟井町に鎮座、一方、大和国廣瀬郡には於神社や讃岐神社が鎮座、これらが故郷の神々だったと思われる。
広瀬郡には広瀬神社が鎮座、物部系。また讃岐神社の北には馬見古墳群があり、馬見物部の拠点であったと思われ、南の疋相とあわせて、讃岐の物部との関連が注目される。

「今は昔、竹取の翁といふものありけり・・・・・」で始まる『竹取物語』(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族斎部氏が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐姓は、『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉郷があり『大和志』では「散吉郷廃村済恩寺村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の済音寺集落付近に比定している。又この付近に「薮ノ下」、「薮口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。三吉の北部には讃岐神社が鎮座し「延喜式」神名帳、広瀬郡の讃岐神社がこれに当たるとされる。

『日本三代実録』元慶7年(883年)12月2日条には「散吉大建命・散吉伊能城神に神階従五位下を授ける」という記述があり、当社の神のこととみられる。

讃岐神社について・・・由緒: 当社の祭神は「三代実録」元慶7年の条に、正六位上、散吉大建命神、散吉伊能城神と見えるが、当社伝では大国魂神、倉稲魂神、大物主神を奉祀するという。別に広瀬大明神と称するのは、大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を、勧請して祀ったことに因る。
広瀬の社 (河合村にあり)広瀬に坐す和加宇加賣命(みこと)の神社(延喜式)。又の御名は大忌神(日本紀)、又御膳持若宇加賣命(みこと)(令義解)。又倉稲魂穀(うかのみたまめの)神(纂疏)とも申し奉つりて水徳の神なり。此の神は伊弉諾・伊弉冊尊(みこと)の御子、豊宇加の賣神にして神祇官にいます御食神、是れなり(神祇秘書)。延喜式に大忌祭り一座(広瀬社七月准之)祝詞(のりとのことば)に曰く、広瀬ノ川合ニ稱ヘ 辞竟奉ツル皇神ノ御名ヲ 白シタテマツラク 御膳持スル若宇加ノ賣ノ命ト 御名ハ白シテ 中畧 將ニ奥都御歳ヲ 八束穂ニ作ラントス 皇神ノ成シ幸賜(さいわいたまわく)ハ 初穂ハ汁ニモ頴ニモ 千稲八十稲ニ引キ居テ横山ノ如ク打積置テ 秋ノ祭ニ奉ツラント 皇神ノ前ニ白シ賜ヘト宣ス(延喜式)

交通の要衝:合流点の広瀬神社竜田、富雄、佐保、初瀬、飛鳥などの諸川が合流して大和川になるあたりに水神の広瀬神社がある。この右岸一帯の台地は北に生駒山地と矢田丘陵を背負い、南面は飛鳥と難波の交通路に当たる。斑鳩の里はまさにこの東西流通の首根っこを押さえた位置にある。聖徳太子は、推古天皇九年(601)この要衝地に宮を営む。

古事記の飯依比古

わが国最古の歴史書『古事記』には、四国に関する謎かけのような記述がある。
イザナギ、イザナミの夫婦神が日本という国を生むくだり。まず彼らは淡路島を生み、次に四国を生む。

「この島は、身[み]一つにして面[おも]四つあり」と続く。

「面ごとに名あり。伊予の国は愛比売[えひめ]といい、讃岐の国は飯依比古[いいよりひこ]といい、阿波の国は大宣都比売[おおげつひめ]といい、土佐の国は建依別[たけよりわけ]という」(現代表記に修正)。

讃岐は、飯依比古です。

伊予阿波二名。伊予の二名。四国のこと。

もともとは四国全体がイヨと呼ばれていた (また「ソアサ」とも「外つ地」とも言う)。イヨの国を治めるイヨツヒコは、民の言葉を直した二神のアワ歌の威力に感動して、自分にアワツヒコという別名を付け、さらにイヨの国にも、アワ(阿波)という別名を付ける。以後、四国は「イヨアワふた名」とも呼ばれるようになる。後には阿波・伊予は分離したようで、今の香川県が阿波、愛媛県が伊予という大ざっぱな感じを持つ。さらに後には (遅くとも景行天皇の頃には)、阿波・伊予・讃岐・土佐と分離している。 

四国は伊予の二名島、東半分は伊国か?
讃岐は、飯依彦であり、飯の国である。
いまも、讃岐富士は飯(イイ)の山とも呼ばれている。

伊予の二名島の西側が予の国であるなら、イの国の範囲は、おおまかにみて徳島県と香川県、高知県の東半分、つまり、四国の東半分が一つの国をなしていたと考えられます。
そこで、四国の東側をみると「イの国」であった痕跡が、たくさん残っています。まず、阿波が「イの国」でなければ、祖(そ)を(イ)とは読まないでしょう。祖谷(いや)を祖先(そせん)の住む古い谷であるから祖(そ)の字を付けたかどうか?

徳島県の一番東に「伊島」もあります。また、井川・井ノ谷・井ロ・井関・井内など、他のイの付く字名、小字名は、各市町村に何カ所もあります。例を少し拾っただけでも、阿波が「イの国」であったことがわかります。徳島県の周辺には、「猪の鼻」(いのはな)という地名が三カ所あります。鼻(はな)は岬名によく使われていますが、端(はし)という意昧です。「猪の鼻」とは、まさに「イの国の端」をあらわす地名であり、三ケ所とも徳島県の端にあります。
名西郡神山町(みょうざいぐんかみやまちょう)西隣りの美馬郡木屋平村(みまぐんこやだいらそん)などに「猪の頭」の地名がある。しかも、そこは徳島県の中心部でもあり、神山町周辺こそ、のちに登場する天照大御神(あまてらすおおみかみ)や大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が活躍する舞台である
地名などから考えても、阿波が「イ・イツの国」であったことがわかります。「イツの国」とは、一番にできた国であるから「一の国」であり、古事記では、伊都之尾羽張(いつのをはばり)など「イツ」と使われています。
『古語拾遺』に「天日鷲命(あめのひわしのみこと)が孫(うまご)を率いて肥(よ)き饒地(ところ)を求(ま)ざて阿波国(あはのくに)に遣して、穀(かじ)、麻(あさ)の種を殖(う)えしむ。其の裔、彼(そ)の国に在り、大嘗(おおみにへ)の年にあたりて、木綿(ゆふ)、麻布乃種種(あらたへまたくさぐさ)の物を貢る。所以(このゆえ)に郡(こほり)の名を麻殖と為る縁なり。」と書かれています。

讃岐の国造は、景行天皇の妃の五十河媛 が生んだ五十香彦命(神櫛皇子)から始まる。

五十の付く、皇別の関係者が多い。

妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ

神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命(いかひこのみこと)とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛(いかわひめ)で、同母弟に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。

神櫛王は 讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古(さかべのあびこ)・宇陀酒部・酒部公の祖

景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀で記述が異なる
讃岐の物部

継体朝に韓地駐留の使臣として物部氏が活動し、穂積臣押山が任那の下タリ国守として活動したと見えており、推古朝に物部依羅連乙等及び穂積臣祖足(推古八年紀では欠名)が征新羅副将軍となることにもつながる。

物部系統では、氏祖の櫛玉饒速日命の子は、神武朝の①宇摩志麻治命、その子の②味饒田命(阿刀連・熊野国造の祖)、彦湯支命の兄弟、後者の子の③出雲色男命(大祢命)、その子の④出石心大臣命、その子の⑤内色男命-その子の⑥大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国造祖)、その同母弟の⑥大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命)-⑦大売布命(景行朝の東国遠征に供奉)と続くのが、本来の穂積本流であろう。ただし、後になると穂積氏は大水口宿祢の子の建忍山宿祢の後裔に限られるようであり、大矢口宿祢の系統も物部ないし矢田部を称するようになった。

讃岐の古代豪族

律令国家は大化以前から国造人(くにつくりのみやっこ)などの有力豪族を郡司に任じて、讃岐の国造系を作っていた。
郡司は桜井田部連氏、秦公氏、因支首(いなぎのおびと)氏、丸部臣(わにべのおみ,又まるべのおみ)氏、刈田首(かったのおびと)氏、韓鉄師(からのかぬち)氏、大伴首(おおとものおびと)氏、伴良田連(とものよしたむらじ)氏などの豪族たちによって支配されていた。

東讃岐の代表的な国造りでは凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の眞鍋一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしていることも、まなべ一族と橘一族のつながりがあった事がうかがわれる。

丸部臣、刈田首の両氏は三野郡、豊田郡の大領をつとめ、刈田首は紀井朝臣を賜り土佐の国造ともなった家系であり、丸部臣は橘氏の子孫であるといわれ、後にまなべ姓を名乗り西讃岐地方で活躍していると考えられる。

物部阿佐利命
もののべのあさりのみこと
阿佐利命:あさりのみこと
……
物部連の祖・伊香色男命四世孫。応神天皇の頃、風速(愛媛県松山周辺)国造となった。

大和の讃岐神社:広陵町大字三吉

神社の掲示板
「今は昔、竹取の翁(おきな)というものありけり……」で始まる「竹取物語」(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統~文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族 齋部(いんべ)氏が大和の国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐(さぬき)姓は。「和名抄」の大和国広瀬郡に散吉(さぬき)郷があり、「大和志」では、『散吉郷 廃存済恩寺(はいそん さいおんじ)村』として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉(みつよし)の斉音寺集落付近に比定している。
またこの付近に「藪ノ下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり、真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。(後略)』

  

わらべ歌 グミの実:シャシャブとグイミ

シャシャブのいとこはグイミ
グイミのいとこはシャシャブ
渋いけんど甘い
甘いけんど渋い

シャシャブのいとこはグイミ
真っ赤に熟れたら 冬が来る