少彦名、讃岐の三野郡と播磨の美濃

大己貴神・少彦名神
四国御経営の地が三野郡

『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社は、
大水上神社 香川県三豊市高瀬町羽方 讃岐国二宮 である。

御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。
三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。
皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。

社名の「大水上」は、水源を祀るという意味。境内を流れる宮川が、祭祀の起源と考えられている。主祭神である大水上大明神は、現在、大山積命とされているが、他説には、高皇産霊尊、罔象女命、国常立尊、三嶋龍王などあるが、とにかく、水神であり、産物の根元に関わる神であるはず。

本殿の横には、「うなぎ淵」(あるいは竜王淵)と呼ばれる淵があり、旱魃時の雨乞神事が行われたところ。黒白のうなぎが住んでおり、黒うなぎが姿を見せると雨、白うなぎが姿を見せると日照り、蟹が出ると大風になるという。p

当国の初代国造である、日本武尊の第五子である武殻王の崇敬が篤く、空海入唐のおり、当社に詣でたという。

讃岐の少彦名
香川県観音寺市流岡町(ながれおかちょう)の加麻良(かまら)神社の伝承は少彦名とスサノオとの関連を示す上で興味深い。それは、「昔、神田村羽方( は かた)二の宮大水上(おおみなかみ)神社に少彦名が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝(ます)に命(みこと)を乗せて川に流すと、神室山の中腹に着き泣き止む、云々」

加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、 四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方 を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水 上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神 は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮) に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思 い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に 祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に 建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、 又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、 大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商 すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、 交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進すること を叶られました。人間生活の守護神であらせられます。

夫婦神アマテラスとスサノオから生まれた皇祖神オシホミミ

『書紀』は神代紀九段において、オシホミミが、タカミムスヒの御子の栲幡千千(たくはたちぢ)姫と結婚したとしており、よって、二人が通常の同世代婚であれば、オシホミミはタカミムスヒの子の世代であると主張していることになって、ここに少彦名がタカミムスヒの子であれば、オシホミミとは同世代ということになる。
スクナビコナ(スクナヒコナとも。表記は少名毘古那、須久那美迦微、少彦名、少日子根など。)
『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

古代には、最初は高瀬郷、勝間郷、託間(詫間)郷、熊岡(比地)郷、本山郷、高野郷、大野郷から構成されたが、その後大野郷から分離して財田郷が成立した。

「日本書紀」欽明17年、筑紫火君、『百済本記』に云う、筑紫君の児、火中君の弟。

「播磨国風土記」餝磨郡、美濃の里というのは讃岐国弥濃郡の人がやってきて住んだので美濃みのと呼ぶ。継潮つぎのみなとというのは、昔この国のある女性が息を引きとったとき、筑紫国火君らの祖が船でやってくると、忽ち息を継いだ。

播磨国風土記は、大汝命(大国主命)と少彦名命の国造りの様子を伝えている。

① 飾磨郡の伊和の里で、乱暴な息子の火明命を残して大国主が出航したところ、火明命が怒って波風を起こして船を難破させてしまった。船や積み荷が落ちて、日女道(姫路)を始め、14の丘ができた。

② 飾磨郡の枚野(ひらの)の里で、大国主・少彦名と日女道丘神が期(ちぎり)をして会った時に、日女道神が食事をもてなした。

③ 大国主・少彦名の神が、神前郡埴里の生野峯で、この山に稲種を積んだ。
―他にも、俵を積んで橋を立てた、酒屋を造った処は酒屋谷と名付けた、大国主の飯を盛った、などの地名伝承は、大国主が米作りを先導した神であることを伝えている。

④ 神前郡の「はに岡」では、大国主と少彦名が、土の荷を担って遠くに行くのと、尿を我慢して遠くに行くのと、どちらができるか競争した。

⑤ 宗形大神奥津島比売命が伊和大神(大国主かその後継者と考えられる)の子を託賀郡の袁布(をふ)山で産んだ。

―これは、古事記とワンセットでみると、大国主は多紀理毘売を伴い、この播磨の地で子をもうけたという伝承である。古事記は、大国主は胸形の奥津宮の神、多紀理毘売と阿治志貴高日子根神 (迦毛大御神)、高比売、下照比売をもうけたと伝え、播磨国風土記は、宗形大神奥津島比売命と伊和大神が播磨の託賀郡(賀毛郡の北)で子をもうけた、としている。
なお、阿治志貴高日子根神は神前郡(姫路の北)の邑日野で「新次社に在して、神宮をこの野に造った」と書かれており、この地は託賀郡の西隣であり、この地で阿治志貴高日子根神が産まれた可能性がある
アジスキタカヒコネは、この賀毛郡・託賀郡・神前郡を拠点とし、後に迦毛大御神を祀る大和葛城や山城に移ったか?

「葦原中国平定のため、まず天穂日命が派遣されるものの、この神は三年たっても戻って来なかった。そこで次に天稚彦が派遣される。
しかし、この神は味耜高彦根神の妹の下照姫と結婚し、『私も葦原中国を治めようと思う』と言って戻らなかった。
ついには天稚彦のもとへ無名雉を遣わすことになったが、天稚彦は弓矢で雉を射殺してしまった。この時雉を射抜いた矢が高天原にまで達し、その矢は高皇産霊尊の御前に届いた。『この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢である。血が矢についている。きっと国神と闘ったのだろう』とその矢を投げ返した。その矢は、見事に天稚彦の胸を射抜き、天稚彦は立ちどころに亡くなった。
天稚彦の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天稚彦が死んだことを知って、屍を天に上げ送らせた。そこで喪屋を造って葬儀をした。
天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神と仲が良かった。それで味耜高彦根神は弔いに訪れたのだが、味耜高彦根神と天稚神とは、顔かたちがよく似ていたため、天稚彦の親族妻子は、『まだ死なないで居られた』と衣の端を手に取って喜び泣いた。味耜高彦根神は怒り、『私を死人と間違えるとは』と言い、剣を抜いて喪屋を切り倒した。これが下界に落ちて山となった。いま美濃国藍見川上にある喪山がこれである。」

これは、播磨の美濃の話かもしれない
姫路市に藍染川(青見川)がある。

姫路市の本町遺跡と呼ばれ、播磨国衙の中心付近に位置する可能性が極めて高い場所です。
血の池はかつて市街地域を東北から南西に流れていた藍染川(青見川)の跡と伝えられ、池田輝政の築城の際城下の中濠内に取り込まれ、文化元(1804)年、「播州名所巡覧図絵」には総社境内図の西方に「血の池」が描かれています

高鴨神社 由緒
「弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。」
鴨都波神社の祭神はと言うと、これが「鴨都八重事代主命」と「下照姫命」

道後温泉と少彦名命

伊豫風土記によれば、少彦名命は道後平野に参上して居る。少彦名命の住居を定められたと傳へらるる新谷村都谷には、その時代の住民が使用していたと解せられる弥生史式土器及び石器が発見されている。又神南備山の北麓一帯の高台、大洲町裏の花瀬山一帯からも同様のものが出土している。少彦名命が、平野の状態を眺めらるる為に大洲村徳の森を常に御登りになったと伝えている。俗称尊の森「ミコトノモリ」と称する小丘上にて驚くべき廣大なる遺物包含層が発見されている。これによって大洲盆地には上代に出雲系の大集団がいたことが判明している。

四国の愛媛県の松山にある道後温泉は神代の頃からある日本最古の名湯として知られる。開湯には様々な説があり、伊豫国風土記には、大国主の命が重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)を助けようとして掌に乗せて温泉に入れたところ、不思議とよみがえり、温泉の側にあった玉の石を踏んで立ち上がり、「真暫寝哉(ましましいねたるかも)」(暫く昼寝をしたようだ)と叫んで、石の上で舞ったと言われている。この伝承から、大国主命と少彦名命の二神を道後の湯の神として、道後温泉本館側の湯神社に祭祀してある。伊予国風土記逸文に次のように記されている。
「二神(大汝貴命と少彦名命を云ふ、以下に従う)はかくの如く、各地を跋歩経営し、而して後伊予に来り、國土を開き温泉を修む。伊予風土記に曰く、温郡(ゆのごほり)、大穴持命、見悔耻面、宿奈比古那命、欲活面、大分速水湯、自下桶持度来、以宿奈比古那命而、漬浴者、暫間、有活起居、然詠曰眞暫寝哉、践健跡處、今中石上也」。

中田憲信編の『諸系譜』第二冊に記載の「飛騨三枝宿祢」系図や『皇胤志』に拠ると、鐸石別命の後裔は、吉備に残った磐梨別君のほか、東方に移遷して飛騨の三枝乃別や尾張の三野別・稲木乃別、大和の山辺君の祖となったとされる。これは、『古事記』の垂仁段の大中津日子命の子孫とも合致するが、大中津日子命は鐸石別命の別名である。尾張の三野別・稲木乃別は中島県に住み、後に稲木壬生公を出したとの記載も系図にあり、『姓氏録』には左京皇別に稲城壬生公をあげて、「垂仁天皇の皇子の鐸石別命より出づ」と見えるから符合する。中島郡に式内の見努神社(比定社不明で、論社に稲沢市平野天神社〔廃絶〕など)もあげられる。山辺君も、『姓氏録』には右京・摂津の皇別に山辺公をあげて「和気朝臣と同祖。大鐸和居命の後なり」と記される。