論衡、山海経、漢書の倭人

中国の古記で最初に倭人が出てくるのは、中国の後漢時代の王充(紀元27年~紀元105年頃)が独学で記載した『論衡』、『後漢書』の巻15の『招致篇』44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。この『論衡』の中に、倭人のことが書かれている。

周の時代のことである。

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
 成王(在位:紀元前1,022年~紀元前1,002年)の時、
越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

 この『論衡』によると、倭人は紀元前1,000年頃から中国で認められていたことになります。成王時代に暢草は酒に浸す薬草と思われる。

越常は中国南方の種族の一つで、倭人も南方というのでは四夷来朝という思想に合わない。故にこの倭人は東方=日本の倭人を指すものと見なすべきであり、王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であろう。

「鬯」とは「香草の名前。鬱金草のこと」
「鬱金草(うこんそう)のこと。みょうが科の多年草。冬に地下茎から黄色の染料を取る。また、むかしこれを酒にひたして鬱鬯を作った。鬱金香をひたすという説は誤り」とあります。どうやらウコンのことのようです。ちなみに「鬱鬯」は、「鬱金草の地下茎をついて、煮て、まぜた黒きびの酒。まつりに用いた」とあります。ところが、ウコンは西暦659年の唐本草(新修本草)という本に見えるのが初出で、その頃、つまり初唐の頃中国にもたらされたと考えられているのです。
『山海経箋疏』という『山海経』の注釈に鬯とは霊芝のことであると載っているのが見つかりました。やったね、しかも、霊芝は爾雅にも「芝」として記載されているのですから、確実とは言えない。
郝懿行がいかに優れた学者であったとしても、それだけで「鬯」=「霊芝」説が正しいとはできません。おそらく、郝懿行もウコンが周代にないのは知っていたので献上品に相応しい植物として霊芝を挙げたのでしょう。
不確実ですが、霊芝あるいはウコンのことでしょう。昆布説もあるようですが、定かではない。

また、日本に水田による稲作が中国から持ち込まれたのは、紀元前400年頃となっていますが既に紀元前1,000年頃から普及していたことになり、日本の弥生時代の幕開けもその頃となるわけです。最近、弥生時代の米が作られていたことが明らかとなっている。しかも、中国南部から直接のようです。遺伝子解析の結果です。

 中国の戦国時代から秦、前漢に書かれた最古の地理書として、『山海経』があります。その書にも倭人のことが記されています。
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海経 第十二 海内北經)
 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
 「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝」(山海経 海経第4巻 第9 海外東經)
 下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある。
 「大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰溫源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏」(山海経 海経巻9 第14 大荒東經)

 大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている。
 この倭は燕に属すとは、紀元前300年頃の燕国と関係があり、日本のことを蘆国と言われていたことがわかる。この燕の国と関係があったとすると、中国の山東省や河北省にいた民族、たとえば、燕は周建国の元勲、召公奭が起こした国で、山東省辺りを支配下においていたが、成王時代の禄父の乱の鎮圧後、河北省にいた韓の国が陝西省に移り、河北省を領土にした。しかし、韓人といえば、朝鮮半島の辰国、或いは馬韓、百済となるわけで、紀元前300年頃から紀元100年の間に、倭人は遼東半島から南にいたようです。

蓋国とは、朝鮮半島最北部に蓋馬(ケイマ)高台という高原地帯があり、そこに蓋馬市があるのでこの辺り以外にはは考えられない。
 鉅燕(きょエン)とは戦国時代中国の大国・燕のことで秦の始皇帝にB.C.E.222年に統一されて独立を失った地域。鴨緑江以北の遼東から東北区にまたがっていた。
 その鉅燕(きょエン)の南に蓋国があるというのだから、この2つの国の位置関係は正確で、やはり蓋国が朝鮮半島にある国だったことは間違いない。
 ところが次の文章では、その蓋国は「倭の北に在る」という。
この記事の指す時代は、第九「海外東経」の末尾に、「建平元年(B.C.E.6年)四月丙戌に書いた」という。
 卑弥呼時代の朝鮮半島をみると蓋馬高台や蓋馬市のあたりは高句麗であり、それ以南には濊(ワイ)と韓がある。
 それなのにこの『山海経』は濊(ワイ)・韓を知らず、そこは倭だと書くが、それだけではない。
 すぐ続けて「倭は燕に属す」と書いている。

これは朝鮮王の準が漢の初めに燕人の衛満に騙されて国を奪われた『史記』の話を考えると、確かに半島は燕人の支配下に入っていたといえる。
 こうみてくると前漢末の中国人は、後(のち)の濊(ワイ)と韓(馬韓・辰韓・弁韓)を全て倭だと認識していたのである

濊(ワイ)の発音「ワイ」あるいは「カイ」であろう。
前222以前、蓋国は、漢音ガイです。しかし、呉音はカイです。
また、蝦夷(カイ)、戎(カイ)で、穢族です

その当時、倭人の国は桑の木が多く茂り、温泉の谷があり、9の太陽が次から次へと昇り、そこに三本足の烏が生息しているとある。神話に近い話ですが、その当時、憧れの島で扶桑の国と呼ばれていたようです。

『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」
南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。
(よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、倭国と黒歯国は異なる国という認識である)

 黒歯国については、明治時代末期まで、既婚女性が歯を黒く染めていた風習、お歯黒があったように、黒歯国の人々もそのような風習があったので国名になっています。この風習は、日本だけではなく、中国南東部や東南アジアにも見られます。

このお歯黒は、草木や果実で染めていたようですが、鉄器の到来により、鉄器の素材を使ったようです。日本人がお歯黒をするようになったのは、鑑真和上が中国から持ち寄った製法のひとつだと言われています。
この黒歯国のことが『魏志倭人伝』に記されています。
 「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」(三国志 魏書東夷伝 倭人条 魏志倭人伝)
 女王・卑弥呼国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年、着く。

『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

楽浪郡は遼東から北朝鮮にあった。後漢書では、倭国が半島南部から九州にかけてあった。極南界が倭奴国となっている。

『後漢書』「東夷傳」
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす

『後漢書』の冒頭にはこうある。
「倭は韓の東南大海中にあり、山島によりて居をなす。およそ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」

後漢書・檀石槐伝
光和元年(178年)、「檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという」
この汗人については「三国志集解」で倭人のことだと注釈があり。
魚とりが上手いと書いてあるので、日本列島の倭人と同様に、素潜りや漁のプロ「海人」である、倭人そのものと言えます。

烏侯秦水とは、内蒙古自治区の東端、乾燥地帯に流れる川で、この川の東に汗人がいたというのですね。
扶余のすぐ南方に倭人がいた。