蟻通神社、アリ通し、天武天皇

伊都郡かつらぎ町・蟻通神社(ありとおし)
祭神は知恵の神様で、記紀の神代記にも登場する「八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)」であるという。
脇社として八幡大神・大国主命・事代主命を祀る。
由緒要旨:
天武天皇の白鳳2年、唐の高宗より、七曲がりの玉を渡され、これに糸を通して返せと難題をもちかけられた。(困っていたところ)1人の老人が現れ、蟻に糸を結び付け、玉の穴の片方に密を塗り、もう片方から蟻を通した。蟻は密の香りに引かれて穴を通りぬけ、糸を通した。感嘆した人々が名前を聞いたところ、その老人は「吾は紀の国蟻通しの神」と言って消えた。高宗が紀の国に使者を遣わして調べさせたところ、そこにちゃんと蟻通しの神が祭ら
れていた。
○蟻通神社の由来書によるとこの「白鳳2年」は673年という。これだと白鳳元年は672年ということになる。
○唐高宗は649~684年在位、遣唐使は669年から702年までの32年間なし。
○672年は壬申の乱、『扶桑略記』によると大唐大使郭務そうは天武即位を見届けて帰国。


蟻通しの宮 磯城郡纒向村穴師
 穴師から少し高く登った所に、蟻通しの宮という祠がある。昔、支那から我国へ、智慧だめしの不思議な玉を持って来た。ジッグザッグしたアナを持った玉だが、それに紐を通して呉れとの難題であった。そこで、時の天皇は、これを臣下に諮問せられたが、誰一人お答への出来る者はなかった。其内ただ一人、その難題を解決して、完全に紐を通し得た者が出た。それは、孔の一方の口に砂糖をつけ、他の一方の口から蟻を入れ、其足に細い糸を結びつけておくと蟻は砂糖の香ひを求めて、ドンドン孔の内部に進んで行き、遂に一方の口まで糸を曳いて出たのであった。其功績により其人を祀られたのがこの宮である。穴師という地名も、それから出たと云われる。(小島千夫也)    参照:吉野郡『蟻通明神』


蟻通明神(ありどおし)の名のいわれ(枕草子・226段)
 昔ある帝(みかど)が、人が40歳になれば殺していたので、孝心の深い中将が70になった両親を、自宅の穴蔵に隠して養う。あるとき、唐土(もろこし)の帝が日本国の帝を参らせてこの国を併合しようと、よく削った木の本(もと)と末(すえ)はどちらか、と問うてきたのだが、家臣のすべてがわからない。中将が親に尋ねると、「その木を急流に直角に投げ込み、流れていくほうが末だ」と教えてくれる。次に、同じ大きさの二匹の蛇の雌雄を問われ、これも「尾を若枝で寄せ、動かぬほうが雌だ」と正解を教えてくれる。次に七曲りの珠の穴に緒を通せ、と言われるが、「蟻に糸をつけて穴に入れ、一方の口に密を塗っておけ」と教えてくれ、すべて成功し、唐土の帝は参る。中将は帝に願って、そのほうびとして親を家で養うことを許される。また、この親は蟻通の明神となった。

万葉集・巻3-304/柿本朝臣人麻呂筑紫国時海路作歌

  大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

 「細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の朝庭に通う時、朝庭の門のように並んだ二つ
の島を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる」


神道集 第三十七 蟻通明神事
欽明天皇の御代に、唐から神璽の玉が大般若経に副えられて伝来した。 この玉は天照大神が天降った時に第六天魔王から貰い受けた物で、国を治める宝である。 代々の帝に伝えられたが、孝照(孝昭)天皇の時に天朔女がこの玉を盗んで天に上り、玉は失われた。

玄奘三蔵が大般若経を求めて天竺の仏生国に渡る途中、流沙で一人の美女と出会った。 三蔵は「大般若経を東国に伝えようと思います。特に般若心経は私の志であり、その為なら屍を流沙に曝しても良いのです」と言った。 女は八坂の玉を取り出し、「この玉に緒を通せたら、あなたを仏生国に送りましょう」と言った。 その玉の中の穴は七曲りしていた。 三蔵が思案していると、木の枝にいた機織虫が「蟻腰着糸向玉孔」と鳴いた。 三蔵はこれを聞き、蟻を捕まえてその腰に糸を結び、玉の穴の口に入れた。 やがて蟻は一方の口へ通り抜け、緒を通す事ができた。
女は鬼王の姿を現し、「私は大般若守護十六善神の一人、秦奢大王である。汝は過去七生にも般若心経を伝えようとしたが、私が大事にしている経典なので、汝の命を七度奪ったのだ」と言い、頸に懸けた七つの髑髏を見せた。 秦奢大王は「これほど汝が志しているのなら、私が守護して送ってやろう」と言い、三蔵を肩にかついで仏生国に送り、大般若経と般若心経を与え、また東国に送り返した。 そして、「この玉を汝に与えよう。仏法東漸の理により大般若経と般若心経も日本に渡るだろう。この玉は元は日本の宝で、天朔女が奪った物なので、般若心経に副えて一緒に日本に渡そう。私が所持していた玉なので、私はそれに先立って日本に渡り、般若経の守護神となろう」と言った。
こうして秦奢大王は日本国に神として顕れ、紀伊国田辺に蟻通明神として祀られている。 また、蟻通の玉は欽明天皇の御代に経典と共に日本に伝わり、三種の宝の一つとなった。

延喜帝の御代に紀貫之朝臣が紀伊国に補任された時、社前を通ろうとすると馬がすくんで動かなくなった。 里の者が 「この社は蟻通明神といい秦奢大王が応迹された神です。御法施をなさいませ」 と言うので、貫之が
七わたに曲れる玉のほそ緒をば 蟻通しきと誰か知らまし
かきくもりあさせもしらぬ大空に 蟻通しとは思ふべし
と詠み、般若心経の読誦と奉幣を行うと、馬は再び立てるようになった。