蘇我氏

蘇我氏は、武内宿禰の系。

『孝元天皇
大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命
その孫
味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)、
武内宿禰(タケノウチノスクネ)
は、 当然、本「嫡流」の王統系である。』 

『允恭天皇・雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)は、
仁徳天皇の第四皇子で 母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)。
葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ、)の父は武内宿禰。

新羅、人質の王子の返還を図る。

神功皇后の新羅遠征で、新羅王波沙寐錦の王子微叱己知波珍干岐(未斯欣)を人質にとった。
神功摂政五年、新羅王は使者を派遣してきた。王子微叱己知波珍干岐を返してほしいとの下心があったらしい。
王子は使者に入れ知恵されたとおりに偽って、「本国で私の妻子が官奴とされているらしい。帰ってその真偽を確かめたい。」と申し出た。
皇太后は帰国を承認して葛城襲津彦を監視役として付けた。使者は襲津彦に嘘がばれることを恐れて、途中対馬で王子を逃がした。怒った襲津彦は使者たちを焼き殺してしまった。
この話は三国史記四十五列伝第五の朴提上、三国遺事紀異第一の金提上の伝に見える話の同工異曲だという。新羅が倭国を偽ったようです。

清寧天皇・白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)は、
雄略天皇の第三皇子で 母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。 当然、武内宿禰。の血筋です。』

蘇我石川宿禰
生没年:
父:武内宿禰
妻:
満智宿禰

蘇我満智宿禰
生没年:
父:蘇我石川宿禰
執政
検校三蔵
妻:韓子宿禰

蘇我韓子宿禰
生没年:
父:蘇我満智宿禰
征新羅将軍
妻:高麗
弟名子媛(夫:穂積押山)

蘇我高麗
生没年:
父:征新羅将軍 蘇我韓子宿禰
妻:
-570 稲目
高向塩古(高向臣)
鳥(田口臣)
川辺瓊缶(川辺臣)

蘇我稲目
生没年:-570
父:蘇我高麗
536-570 大臣
妻:
551-626 馬子
堅塩媛(夫:欽明天皇)
小姉君(夫:欽明天皇)
石寸名(夫:用明天皇)
-628 境部摩理勢(境部臣)
小祚
田中刀名(田中臣)

蘇我馬子
生没年:551-626
父:大臣 蘇我稲目
572-626 大臣
妻:
河上娘(夫:崇峻天皇)
-645 蝦夷
法提郎媛(夫:舒明天皇)
倉麻呂
刀自古郎女(夫:厩戸皇子)
法興寺司 善徳
川掘

蘇我蝦夷
生没年:-645
父:大臣 蘇我馬子
626-643 大臣
妻:
-645 入鹿
手杯娘(夫:舒明天皇)

蘇我入鹿
生没年:-645
父:大臣 蘇我蝦夷
643-645 大臣
妻:

蘇我倉麻呂
生没年:
父:大臣 蘇我馬子
妻:
-649 倉山田石川麻呂
日向
-664 連子
623- 赤兄
御史大夫 杲安

蘇我日向
生没年:
父:蘇我倉麻呂
大宰帥
妻:(父:右大臣 蘇我倉山田石川麻呂)
蘇我倉山田石川麻呂
生没年:-649
父:蘇我倉麻呂
645-649 右大臣
妻:
興志
赤狛
娘(夫:大宰帥 蘇我日向)
越智娘(夫:天智天皇)
姪娘(夫:天智天皇)
乳媛(夫:孝徳天皇)

蘇我赤兄
生没年:623-
父:蘇我倉麻呂
662- 左大臣
669 筑紫帥
672 配流
妻:
常陸媛(夫:天智天皇)
大庭媛(夫:天武天皇)
蘇我連子
生没年:-664
父:蘇我倉麻呂
662-664 大臣
妻:
娼子(夫:贈太政大臣正一位 藤原不比等)
安麻呂
-713 右大弁従三位 石川宮麻呂
難波麻呂

蘇我安麻呂
生没年:
父:左大臣 蘇我連子
小花下小納言
妻:
667-729 石川石足(石川氏へ)
境部

境部摩理勢
生没年:-628
父:大臣 蘇我稲目
妻:
征新羅大将軍 雄摩侶
毛津
-628 阿椰

継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。 

そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、

「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」

大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。

「誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。