蘇我氏、蘇我大臣、歴代の大臣、王朝交代

最初の大臣は、竹内宿禰大臣であった。

さらに、その後の次の大臣たちはいずれも竹内宿禰大臣の後裔氏族の代表であった。

竹内宿禰ー葛城円ー平群真鳥ー巨勢男人ー蘇我稲目ー馬子ー蝦夷

神武以来、和邇氏や物部氏が力を持った、しかし神功皇后の時代以降に、物部氏系統から、葛城・竹内宿禰後裔氏族に権力が移行したのであろう。しかし、竹内宿禰後裔による王朝説は見られない。

和邇氏は、長く続いている。開化天皇(9代天皇)から仁賢天皇(24代天皇)に至る16人の天皇の内、5人の天皇に妃またはそれに準じる地位に娘を指し出している有力氏族であ

葛城王朝説
鳥越氏は神武天皇と崇神天皇の二人のハツクニシラススメラミコトの存在をそのまま認め、大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定された。記紀が記す神武から開化にいたる9代の宮と陵は、大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中している。このことは、崇神天皇に始まる三輪王朝のそれが大和平野の東南部にあったのと著しい対象をなす。そこで、氏は神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝の始祖と据え、三輪王朝に先行して葛城王朝が実在したとされた。

河内王朝

岡田英弘は、日本書紀にいう神武天皇から応神天皇までの歴代を、『日本書紀』の編纂を命じた現政権(天武天皇とその子孫たち)の都合によって創出された架空の存在とし、日本書紀の歴代天皇たちのうち、歴史上存在したのが確実なのは仁徳天皇からであるとし、禰とその子孫たちの王統を河内王朝と称する。

岡田は、雄略天皇に比定される倭王武が487年に中国の南朝宋に送った上表文にいう「祖禰」を「「祖父である禰」の意味」だと解釈、禰(でい)を倭王武の祖父の名だと解釈した。

岡田は、この解釈にもとづき、宋書にみえる倭の五王と『日本書紀』の歴代天皇を次のように比定している。

禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇)
├珍(反正天皇)
└済(允恭天皇)┬興(安康天皇)
└武(雄略天皇)

しかし、応神天皇は、4世紀末のヤマト政権の内部分裂により誉田別皇子(のちの応神天皇)が忍熊王を打倒して成立したようである。

雄略天皇の時代に、葛城氏が滅び、吉備も衰退している。

蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)
千葉県千葉市中央区蘇我町1-88
式内社で、旧社格は郷社。
蘇我比咩大神と千代春稲荷大神を主祭神とし、天照皇大神・春日神(経津主神・武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神)・八幡神(応神天皇・比咩大神・神功皇后)を配祀する。

 下総国二ノ宮(郷社)蘇我比咩神社御縁記(神社内説明板より引用)
『当神社は、今から壱阡五百年前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖に差しかかったところ風浪が強くなり船が沈没の危機にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈めこの時一緒に同道して来た五人の比咩等も供に海中に身を投じた。その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ里人の手厚い看護により蘇生することが出来都に帰ることができた。この里人の行為に深く感激し第十五代応神天皇の特別の命により蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「比咩神社」「春日明神」を守護しんとしており当時に両大臣の分霊を受けづきて神社を建立した。その徳は山よりも高く海より深く人々から「御春日様」として敬慕され、江戸時代にはいるや徳川家康も禄高十石を送り敬拝した。この所は江戸への街道又は海上輸送の要衝にもあたるため参勤する大名を始め多くの人々が参詣した。
今もって海難防止、民政安定の守護信として崇拝されたおります。』

1500年くらい前に建てられた。
弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水する際、姫を慕っていた5人の比咩(ひめ)も身を投げた。そのうちの1人、蘇我比咩がこの地の人に助けられた。創建の年代は不詳である。
社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。
応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。

ただし別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。

配祀祭神に、天照皇大神、経津主、武甕槌、天兒屋根神、天兒屋根比賣神、神功、応神、比咩(ひめ)大神、などが見えるがおそらく千葉郡の総鎮守社、海陸交通の要衝として総社的な祭祀と思われる。境内は銀杏が多い。北に式内寒川神社論社、南に近世の蘇我野藩陣屋跡がある。
蘇我比咩社は「五七桐」を神紋に使用しているが、東京湾奥の「蘇我比咩、姉埼、飫富」の式内3社は同じ五七桐を使用している。

蘇我大臣

正史で最初の大臣と見なされているのは成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など)が大臣の地位を継いだ。

『日本書紀』では、武内宿禰一人が成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の四代に大臣として仕えたとされている。あまりに長寿とされたため、架空の人物と見なされる原因となっている。

大臣は、各大王の治世ごとに親任され、
反正天皇から安康天皇までの治世に当たる5世紀中期には葛城円が、
雄略天皇から仁賢天皇までの治世に当たる5世紀後期には平群真鳥が、
継体天皇の治世に当たる6世紀前期には巨勢男人が、
敏達天皇から推古天皇までの治世に当たる6世紀後期から7世紀初期には蘇我馬子が、
それぞれ大臣に任命された。
蘇我馬子が大連である物部守屋を討った丁未の乱後は大連制が事実上廃されたために馬子が単独の執政官となり、以降は蘇我氏が政権の中枢を担うようになった。また、聖徳太子による冠位十二階の制定時、馬子は太子とともに推古天皇の王権を代行する授与者の立場に回ったことで蘇我氏の大臣は被授与者である群臣とは別格の政治的地位を築いた反面、群臣合議から乖離した結果、他の豪族たちからは孤立して後に蘇我氏宗家が滅亡する遠因となったとする指摘もある。

歴代の大臣

    武内宿禰・・・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の大臣。
    和邇日触・・・応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。
    物部小前(大前小前宿禰大臣)・・・允恭天皇の大臣。
    葛城円・・・・・武内宿禰の曾孫。履中天皇・安康天皇の大臣。
    平群真鳥・・・雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇の大臣。
    巨勢男人・・・継体天皇の大臣。(→巨勢氏)
    蘇我稲目・・・宣化天皇、欽明天皇の大臣。
    蘇我馬子(嶋大臣)・・・蘇我稲目の子。敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の大臣。
    蘇我蝦夷(豊浦大臣)・・・蘇我馬子の子。舒明天皇・皇極天皇の大臣。
    蘇我入鹿・・・蘇我蝦夷の子。皇極天皇の頃に、蝦夷が独断で入鹿に大臣を継がせたとされる。

記紀以外にでる大臣

『先代旧事本紀』によれば、最初の大臣は懿徳天皇の申食国政大夫であった出雲醜とされ、その後も一族が大臣の地位を継いだとされている。
ただし『先代旧事本紀』にしか見えない記事に関しては、史実として扱われず、人物に関しても実在が疑問視されている。
『先代旧事本紀』にある懿徳天皇から成務天皇までの大臣の名は、『日本書紀』では皇后の父兄として登場するが、大臣とは見なされていない。
諸氏系図や『新撰姓氏録』や諸神社の伝承では、成務天皇から仁徳天皇までの四代の時代には、武内宿禰以外にも、物部胆咋、仲臣雷大臣、日本大臣、米餅搗大使主、尻綱根、意乎已など複数の人物が大臣として名を連ねている。

『旧事』物部連等の先祖の宇摩志麻治命は、大神君の先祖の天日方奇日方命 と共に食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ) となった。

出雲醜・・・・・懿徳天皇2年3月に大臣(もとは申食国政大夫(安寧天皇4年4月))
出石心・・・・・出雲醜の弟。孝昭天皇元年7月に大臣
大矢口・・・・・出石心の子。大矢口宿禰。大矢口根大臣。
瀛津世襲・・・孝昭天皇31年1月に大臣(または孝昭の頃に大連)
建諸隈・・・・・孝昭天皇の大臣(ただし天皇本紀には無い)
鬱色雄・・・・・出石心の孫。孝元天皇8年1月に大臣
大綜杵・・・・・鬱色雄の弟。開化天皇8年1月に大臣
伊香色雄・・・大綜杵の子。開化天皇8年2月に大臣
大新河・・・・・伊香色雄の子。垂仁天皇元年に大臣、または、垂仁天皇23年8月に大臣、同月に大連
物部胆咋・・・伊香色雄の甥。(景行天皇36年8月条に「大臣物部胆咋宿禰」の記述)、成務天皇元年1月に大臣(3年1月には武内宿禰が大臣)成務天皇の大臣で、後に宿禰とされる
仲臣雷大臣・・・中臣栗原連、津嶋直、三間名公の祖(新撰姓氏録より)
日本大臣・・・・・仲臣雷大臣の子。

米餅搗大使主(鏨着大使主)・・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。(新撰姓氏録より)
物部印葉・・・・・建諸隈の孫。応神天皇40年に大臣
尻綱根(尾綱根)・・・応神天皇の大臣、尾治連(→尾張氏)を賜り大江大連となる
意乎已(意乎己)・・・尻綱根の子。仁徳天皇の大臣
服部弥蘇・・・・・『播磨国風土記』に、仁徳天皇の御代に“執政大臣”の服部弥蘇の娘が誤って捕縛された話が記述されている。

歴代の物部氏

  • 宇摩志麻治命 神武天皇の御世に、初めて足尼(すくね)になり、次に食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)となる。
  • 孫 彦湯支命 綏靖天皇の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫となる。
  • 三世孫 大禰命 安寧天皇の御世に、侍臣。
  • 弟 出雲醜大臣命 懿徳天皇の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となる。
  • 弟 出石心大臣命 孝昭天皇の御世に大臣となる。
  • 四世孫 六見宿禰 (孝安天皇の御世)宇摩志麻治命の裔孫の六見命を足尼(すくね)とし、次に宿禰(すくね)とした。
  • 弟 三見宿禰命 孝安天皇の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となる。
  • 児 大水口宿禰命 (孝霊の御世)大水口命と大矢口命は共に宿禰となる。
  • 弟 大矢口宿禰命 孝霊天皇の御世に宿禰となる。
  • 五世孫 鬱色雄命 孝元天皇の御世に大臣。
  • 妹 鬱色謎命 孝元皇后、開化朝皇太后、崇神朝太皇太后。
  • 弟 大綜杵命 孝元の御世に大禰(おおね)となる。
  • 弟 大峰大尼命 開化の御世に大尼(おおね)となって仕えた。

倭国大臣

倭国大臣・・・新羅の王族の昔于老の失言が発端となり、倭国が新羅に侵攻する。新羅は敗北し、于老は処刑された。味鄒王の代になり、残された于老の妻が倭国大臣を饗応すると見せかけて殺害し、復讐を果たす。
『三国史記』45巻、列伝「于老」より。

同様の話は神功紀にも収録されているが、“倭国大臣”ではなく“新羅宰”と書かれる。

三国史記于老列伝によると、
「沾解王七年癸酉に倭国使臣の葛那古を新羅が接待したとき、于老は戯れに、早晩、汝の王を塩奴(塩を焼く奴)とし王妃を飯炊き女とすると言ったので、 倭王は大いに怒って将軍の于道朱君を 派遣し、新羅を攻めて于老を火あぶりの刑に処した。
その後、味鄒王(沾解王の次代で第十三代国王)の時代に、倭の大臣が新羅を訪問したとき、
于老の妻はこの者を欺いて饗宴のうえで捕らえ、火あぶりにして怨みを晴らした。
そこで、倭は怒って新羅の都・金城を攻めたが、勝利をおさめられずに帰った」

ここでいう、葛那古、于道朱君、倭王は誰か?

葛那古が葛城襲津彦にあたるか。『書紀』神功皇后六二年条(干支二巡繰り下げたとき西暦三八二年となる)には、新羅が朝貢せず、襲津彦(そつひこ)を遣わして新羅を討たせたという記事があり、同書所引の『百済記』には、大倭の遣わした沙至比跪(さちひこ)が新羅を討つかわりに、新羅の美女に惑って加羅国を滅ぼしたなどの一連の事件が見えて、三八〇年頃に葛城襲津彦が韓地で活動したことが裏付けられる。百済に「沙至比跪」、新羅に「葛那古」とその名が伝えられたか。年代が合うか疑問。

「于道朱君」は「宇治宿祢」(ウチスクネ)と読んで、武内宿禰説があるが記紀とは不整合である。神功皇后紀四六年条には、「斯摩宿祢」という人物を倭国が北伽耶の卓淳国(慶尚北道の大邱地方)に派遣した記事が見えており、この頃すでに「宿祢」という称号もあったと考えられる。その割注には、「斯麻宿祢は何れの姓の人かを知らない」とある。
履中朝から雄略朝まで、草香部氏が皇妃を擁立

五世紀中葉以降、皇妃の家柄は唯一草香部氏である。継体の元妃、「尾張連草香の女、目子媛」という時の草香もやはり草香部氏であろう。

(履中)草香幡梭皇女

(允恭)忍坂大中姫

(安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻

(雄略)草香幡梭姫皇女