蕨手文 ( わらびてもん )と金銀錯嵌龍紋鉄鏡

ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡

大分県日田市日高町にあった古墳。国の重要文化財の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)の出土地。

1-3世紀に作られた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に、そのふちどりとして、美しい黄金の蕨手文が廻らされており、また同時代で同じ地域から出土した金錯鉄帯鉤 ( きんさくてったいこう) にも多数の蕨手文が描かれています。

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は代のものと考えられている。現在は東京国立博物館が所有しているが、九州国立博物館で常設展示されている。

発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。

京都大学元教授梅原末治氏の論文には、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したダンワラ古墳は竪穴式の古式古墳であるが、その副葬品の1つの辻金物の作りから5世紀以降、おそらく5世紀から6世紀に作られた古墳であると書かれています。

一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われる。

  

王塚古墳

王塚古墳の最大の特徴は、石室のほぼ全面に施された壁画である。描かれている図像は馬、靫(ゆぎ)、盾、刀、弓などのほか双脚輪状文、蕨手文、三角文、円文などの幾何学的文様。 2005年7月現在、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多である。 地形図から復元できる本来の墳丘長は約78メートル。

王塚古墳に描かれている文様には以下の通り。

  • 騎馬像
  • 同心円文
  • 三角文
  • 双脚輪状文
  • わらび手文
  • 靫(ゆぎ)
  • 大刀

  

福岡県北部地方最初の彩色壁画は桂川王塚(けいせんおうづか)古墳で、年代は6世紀の前半です。桂川王塚古墳は86mの大型前方後円墳で当時の福岡県北部で最大の古墳です。また彩色壁画も彩色場所の広さ・色数・モチーフの多彩さなどをみても優れたもので、九州の装飾古墳の代表といえます。それからやや遅れて、五郎山(ごろうやま)古墳・桜京(さくらきょう)古墳といった大型の円墳や中規模な前方後円墳に彩色壁画がみられるようになります。

被葬者は、弓削氏ー靫負(ゆげい)氏とも、穂波の君といわれる。
近くに弓削の地名がある。
言い伝えでは…蕨手の王族がここの靫負氏の娘と結婚して、五人の子供を残して亡くなったそうです。

 

石室入り口を守るかのように5頭の騎馬人物像が描かれている

装飾古墳に使われる色は赤一色が通常で、2色は珍しく、3色もあれば凄いと感動する状況です。その中でただ一つ5色以上の色を使い分け、しかも石室内面を天井まで余すことなく全面描き込んだ豪壮な装飾壁画が描かれています。

 さらに石棚、石屋形、石屍床、石枕、燈明台等、これも並ぶものがない複雑な内部構造、未盗掘で得られた豪華な副葬品(3/30までは九州国博で展示していた)等あげればキリがありません。

 500基余りある装飾古墳の中で唯一国宝級に該当する特別史跡の指定を受けている

日田地域

「日」と「鷹」の神祇の地、日田(日高)においては、三隈川により形成された三つの残丘が、日隈、月隈、星隈と呼ばれる、句呉の神仙思想を思わせる「隈」の神祇。靱編連の日下部氏。

日田から嘉麻峠を越えて、遠賀川流域に抜ける要地が大隈。隣地、山田の旧名が熊田、そして熊ヶ畑。この筋沿いには嘉麻の大隈、牛隈、桂川の吉隈、穂波の忠隈と「隈」地名が並ぶ。

推測

古墳はすでに昭和初期、国鉄三芳駅および線路架設により紛失。
推定所在住所は大分県日田市大字三芳字刀連町
発掘の詳しい経緯は不明でダンワラ古墳から出たとの言い伝えのみ。


日本で出土の帯鈎(漢服用バックル)はこれのほかは現在宮内庁所蔵の岡山県榊山古墳出土の青銅製馬形帯鈎だけ。日本に数点しかない貴重なバックル。金錯とは金象嵌のことである。

一方の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅ・りゅうもん・てっきょう)には文字が刻まれている。「長」「宜」「口の中に子(くにがまえに子)」「孫」の四文字である。

金、銀、貴石の数々をちりばめてあり、龍紋、渦雲紋で飾られており、いずれも漢王朝の象徴的文様である。この鏡の伴出品には「貝製雲珠」と「鉄製貝装辻金物」が出ている。いずれも貝殻の真珠光沢のある殻を螺鈿にしたものである。

三芳の刃連(ゆき)町には靫負日下部氏がいたと記録がある。日下部氏とは中央における大伴氏の傘下にいた国衙、あるいは郡衙ではなかろうかと言われ、近くにある報恩寺山古墳には多くの古墳群が林立する。時代はおそらく4世紀頃だったと思われる。この鏡がもし、漢から直に下げ渡されたとすれば、吉備地方の榊山古墳の被葬者の存在は、熊本県八代から葦北にいた大伴氏配下の管理者である火の葦北国造アリシトとなんらかの関係が推測される。金象嵌の意匠からはおそらく漢の戦国時代で間違いないと考える。

日田がガランドヤなどの装飾を持つ古墳があること、それが葦北国造の領地周辺や菊池川に多い、「靫」を持つならば、まず十中八九、邪馬台国~倭五王時代に配下であった日下部氏や吉備王家が同じ象徴を下げ渡されたということになり、吉備、日田、葦北、そして中国との外交があったことになる。

日下部氏の時代はちょうど五王の時代であり、彼等を派遣したと記紀が言うのは応神天皇~雄略天皇時代である。