蓋蘇文、泉蓋蘇文、高句麗

蓋蘇文 (642年政権掌握ー666年死亡)

『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。これは姓の「淵(泉)」を高句麗語の訓読みで「いり(高句麗語で「水源」の意味と推察されている)」、同じく名の「蓋蘇文」を音読みで「かすみ」と発音したものを、日本側で聞き取ったまま文字化したものである。
『旧唐書』『三国史記』などに姓が泉(チョン)と記録されたのは唐の高祖の名(李淵)を避諱したものと言われる。

姓は泉氏。 自ら水中に生まると云い、もって衆を惑わす。 儀表雄偉にして意氣豪逸なり。 その父の東部【或いは西部と云う】大人大對盧死し、蓋蘇文は當に嗣ぐべくも、而して國の人は性忍暴なるを以ってこれを惡み、立つことを得ず。 蘇文は頓首して衆に謝し、職を攝むることを請う。 「如し不可有らば、廢さるると雖ども悔い無し」と。 衆これを哀れみ、遂に位を嗣ぐことを許す。

しかるに凶殘不道なり。 諸大人と王(=榮留王)、密かに議し誅さんと欲するも、事洩れたり。 蘇文悉く部兵を集め、將に校(こう=軍隊)を閲するが若くし、并びに盛りに酒饌を城南に陳ね、諸大臣を召し共に臨視せんとす。 賓(ひん=賓客)至り、盡くこれを殺すこと凡て百餘人。 宮に馳せ入り王を弑し(三國史記 卷第二十 高句麗本紀第八 榮留王)、斷ちて數段に爲し、これを溝中に棄てたり。 王弟の子の臧(そう=高句麗最後の寶臧王)を立てて王と爲し、自ら莫離支(=高句麗の官名)と爲す。 その官は唐の兵部尚書(=官名)兼中書令職(=官名)の如し。 是(ここ)において遠近に號令し、國事を專制す。 甚だ威嚴有り。 身に五刀を佩(は)き、左右は敢て仰ぎ視ること莫し。 上下馬の毎(ごと)に、常に貴人・武將をして地に伏せしめてこれを履く。 出で行くに必ず隊伍を布(し)き、前導の者の長呼すれば、則ち人皆奔迸(ほんへい)し坑谷に避く。 國人甚だこれに苦しむ。

唐の太宗、蓋蘇文の君を弑して國を專(もは)らするを聞き、これを伐たんと欲す。 長孫無忌曰く、「蘇文は自ら罪の大なるを知り、大國これを討つを畏(おそ)れ、その守備を設けたり。陛下姑(しばら)く隱忍を爲したまえ。彼は自ら安ずるを得、愈(いよいよ)その惡を肆(つら)ねん。然る後にこれを取りたまうも未だ晩(おそ)からず」と。 帝これに從う。

蘇文、王に告げて曰く、「中國は三敎並びに行うと聞く。而して國家は道敎に尚(なお)缺(か)けたり。使を唐に遣しこれを求むるを請う」と。 王、遂に表して請う。 唐は道士の叔達等八人を遣わし、兼て道德經を賜う。是において浮屠(ふと=仏陀/仏教)の寺を取り館とす。

會(たまたま)新羅入唐し告げたり、『百濟、我が四十餘城を攻取す。復た高句麗と兵を連ね、入朝の路を絶つを謀る。小國は出師(すいし=出兵)するに已(や)むを得ず。伏して天兵の救援を乞う』と。 是において、太宗は司農丞相(=官名)の里玄奬に命じ璽書を賚(たま)い王に勅して曰く、『新羅は質を國家に委(ゆだ)ね朝貢に闕(か)けず。爾と百濟は宜しく各(おのおの)兵を戢(おさ)むべし。若し更にこれを攻めれば、明年、兵を發し爾が國を討たん』と。 初め玄奬の境に入るに、蘇文は已(すで)に兵を將(ひき)い新羅を擊たんとす。 王、これを召せしめ乃ち還る。 玄奬、勅を宣(の)ぶ。 蘇文曰く、「往者(むかし)隋人は我を侵し、新羅は釁(きん=すき/間隙)に乘じ、我が城邑五百里を奪う。此より怨隙(おんげき)已(すで)に久し。若し我が侵地を還さざれば、兵、已(や)むこと能わず」と。 玄奬曰く、「既に往(むかし)の事、焉(いずく)んぞ追いて論ずる可けんや。今の遼東は本皆中國の郡縣なるも、中國は尚(なお)言わず。高麗、豈(あ)に故地を必ず求むるを得んや」と。 蘇文、從わず。 玄奬、還りて具(つぶさ)にこれを言う。 太宗曰く、「蓋蘇文はその君を弑し、その大臣に賊、その民に殘虐。今また我が詔命に違(たが)う。以って討たざるべからず」と。 又、使の蔣儼を遣し諭旨するも、蘇文、竟(つい)に詔を奉ぜず。 乃ち兵を以って脅すも、使者屈せず。 遂にこれを窟室の中に囚とす。 是において、太宗、兵を大擧しこれを親征す。 事は高句麗本紀に具(つぶさ)なり(三國史記 卷第二十一 高句麗本紀第九 寶臧王 上)。 蘇文、乾封元年(唐の高宗の年号。高句麗の寶臧王二十五年。西暦666年。)に至りて死す。

子の男生、字(あざな)は元德。 九歳にして父の任を以って先人(=高句麗の官名)と爲る。 中裏小兄(=官名)に遷(うつ)る。 猶、唐の謁者なり。 又、中裏大兄(=官名)と爲り、國政を知らす。 凡て辭令は、皆男生これを主(つかさど)る。 中裏位頭大兄(=官名)に進む。 久しくして莫離支(=官名)と爲り、三軍大將軍を兼ねたり。 大莫離支(=官名)を加え、出て諸部を按(しら)ぶ。 而して弟の男建・男産、國事を知らす。 或ものの曰く、「男生、君等の己(おのれ)に逼(せま)るを惡(にく)み、將(まさ)に除かんとす」と。 建・産は未だこれを信ぜず。 また、男生に謂うもの有り、「將(まさ)に君を納(い)れざらんとす」と。 男生、諜を遣わし往かしむ。 男建、捕うるを得て、即ち王命と矯(いつわ)りこれを召く。 男生、懼(おそ)れ敢て入らず。 男建、その子の獻忠を殺す。 男生、走り國内城に保つ。 その衆を率い、契丹・靺鞨の兵と唐に附し、子の獻誠を遣しこれを訴う。 高宗、獻誠を右武衛將軍(=官名)に拜し、乘輿(じょうよ)・馬・瑞錦・寶刀を賜い、還り報ぜしむ。 契苾何力に詔して兵を率(ひき)いこれを援(たす)け、男生、乃ち免る。 平壤道行軍大摠管(=官名)兼持節安撫大使(=官名)を授く。 哥勿・南蘇・倉巖等は城を擧げて降る。 帝、また西臺舍人(=官名)の李虔繹に命じ、就(つ)きて軍を慰勞せしめ、袍帶・金釦の七事を賜う。 明年、召き入朝せしむ。 遼東大都督玄菟郡公(=官名)に遷(うつ)り、京師に第(てい=邸宅)を賜う。 詔に因りて軍に還り、李勣と平壤を攻め、入りて王(=寶臧王)を禽(とりこ)とす。 帝、詔して子を遣わし、即ち遼水に勞賜す。 還りて右衛大將軍卞國公(=官名)に進む。 年四十六にして卒す。 男生は純厚にして禮有り。 奏對するに辯に敏、射藝を善くす。 その初め至るに斧鑕(ふしつ=罪人の首を切るためのオノとカナトコ)に伏して罪を待つ。 世、以ってこれを稱す。

獻誠は天授(唐の則天武后の年号。西暦690年~691年)中、以って右衛大將軍・羽林衛(=いずれも唐の官名)を兼ねたり。 武后(=則天武后)、嘗て金幣を出し、文武官内に於いて善射の者五人を擇(えら)び、中(あた)る者に以ってこれを賜う。 内史(=官名)の張光輔は先ず獻誠に讓り第一と爲す。 獻誠は後に右王鈐衛大將軍(=官名)の薛吐摩支に讓る。 摩支はまた獻誠に讓る。 既にして獻誠の奏して曰く、「陛下は善射の者を擇びたまう。然れども多くは華人に非ず。臣、恐るらくは唐の官は射を以って恥と爲す。これを罷(や)めるにしかず」と。 后(=則天武后)、嘉納す。
來俊臣(=人名)、嘗て貨を求むるに、獻誠は答えず。 乃ちその謀叛を誣(し)い、これを縊殺す。 后、後にその寃(えん)なるを知り、右羽林衛大將軍(=官名)を贈り禮を以って葬を改む。

論じて曰う。 宋の神宗と王介甫、事を論じて曰く、「太宗、高句麗を伐つに、何を以ってか克(か)たざる」と。 介甫曰く、「蓋蘇文は非常の人なり」と。 然らば則ち蘇文はまた才士なり。 而して直道を以って國に奉ずること能わず。 殘暴自ずから肆(つら)ね、以って大逆に至る。 『春秋』に「君を弑す賊を討たず。これを國に人無しと謂う」と。 而して蘇文は腰領(ようりょう=腰と首)を保ち、以って家に死すは幸にして免れたる者と謂うべし。 男生・獻誠は唐室に聞(ぶん)有りと雖も、以って本國これを言うに未だ叛人と爲すを免れず。

高句麗の滅亡

 貞観十六年(642)、十一月丁巳、高麗東部の大人泉蓋蘇文が、その王の武を弑逆した。営州都督張倹がこれを報告して来たが、その経緯は次の通り
 蓋蘇文は凶暴で法を破ることも多く、その王や大臣は、彼を誅しようと議していた。蓋蘇文は密かにこれを知ったので、兵卒達を全て白身並へ集めて酒宴を開き、諸大臣を呼んで共に臨ませた。その席で兵を指揮して彼等を皆殺しにした。死者は百余人に及ぶ。蓋蘇文は、そのまま入営し、自らその王を弑逆した。死体は幾つにも切断して溝中へ棄てた。王の弟の子を立てて王とする。自身は莫離支となった。それは中国の吏部尚書と兵部尚書を兼ね合わせたような官職だ。ここにおいて遠近へ号令を掛け、国事を専制した。
 蓋蘇文の容貌は雄偉で、意気は豪逸。五本の刀を身に帯び、左右は敢えて仰ぎ見る者も居なかった。乗馬や下馬のたびに貴人や部将を平伏させ、これを踏み台とした。出歩く時には必ず警備兵へ隊伍を組ませた。先導者が大声で呼ばわると、人々は逃げ出す。谷があったり道が絶えていたりしても、人々を追い散らしたので、民は非常に苦しんだ。
 同月、毫州刺史裴行荘が上奏して、高麗討伐を請うた。上は言った。
「高麗王武からは朝貢が絶えたことがなかったのに、賊臣に弑逆された。朕は、これを甚だ深く哀しんだことを、もとより忘れてはいない。ただ、喪に乗じ乱につけ込んでこれを取るのでは、獲得しても貴くない。それに、山東の民は疲弊しており、戦争へ駆り立てるに忍びない。」
 十七年、六月丁亥、高麗へ使者として派遣されていた太常丞登(「登/里」)素が、帰国した。彼が、懐遠鎮の守備兵を増員して高麗へ逼るよう請願すると、上は言った。
「『異国が服従しなければ、文徳を修めてこれを来させる。(論語)』。百や二百の守備兵で遠国を威圧するなど、聞いたことがない。」
 閏月、上は言った。
「蓋蘇文は、その主君を弑逆して国政を専断している。誠に見るに忍びない。そして、今日の兵力を以てすれば、これを取ることは難しくない。だが、百姓へ労苦を掛けたくないので、契丹や靺鞨へ高麗をかき回させようと思っているのだが、どうだろうか?」
 長孫無忌は言った。
「蓋蘇文は自分の罪状の大きさを知っておりますので、大国の討伐を畏れ、必ず厳重な防備をしております。陛下は今しばらく隠忍してください。彼等は安心すれば必ず驕慢になり、いよいよその悪を大っぴらにします。その時に討伐しても、遅くはありません。」
 上は言った。
「善し!」
 戊辰、高麗王蔵を上柱国、遼東郡王、高麗王とし、使持節を派遣し册命した。 
 九月、庚辰。新羅が使者を派遣して、百済が攻め込んで四十余城を奪い取られたことや、百済が高麗と連合して新羅の入朝を閉ざそうとしていることを訴え、救援軍を乞うた。上は璽書を高麗へ賜うよう、司農丞の相里玄奨へ命じ、言った。
「新羅は国家へ人質を出し、朝貢も乏しくない。爾と百済は各々矛を収めよ。もし、更に攻めるのならば、明年挙兵して、爾の国を撃つ!」
 十八年、正月。相里玄奨が平壌へ到着した。莫離支は既に兵を率いて新羅を攻撃し、城を二つ落としていた。高麗王は、これを召還する。玄奨が新羅を攻撃しないよう諭すと、莫離支は言った。
「昔、隋が入寇した時、新羅はその隙に乗じて我が領地五百里を侵略したのです。我が土地を帰してくれない限り、戦争は止まないかもしれません。」
 玄奨は言った。
「昔のことを蒸し返すつもりか!遼東の諸城に至っては、もとは皆中国の郡県だったのだ。中国はこれを云わないのに、高麗は故地を絶対に譲らないのか!」
 しかし、莫離支はついに従わなかった。
 二月、乙巳朔、玄奨は帰国し、その状況を具に語った。上は言った。
「蓋蘇文はその主君を弑逆し、大臣を賊し、その民へは残虐だ。今、我が詔命にも違って隣国を侵略する。討伐しなければならない。」
 諫議大夫猪遂良は言った。
「陛下が指で差し招くと、中原が平和になりました。四夷を睥睨すれば、威望は大きくなりました。今、海を渡って小夷を遠征すれば、指さすだけで勝ちを収めることも出来ましょう。ですが、万一蹉跌が起これば威望を損ないます。更に忿気に溺れて報復の軍を興せば、安危も測りかねます。」
 李世勣が言った。
「かつて薛延陀が入寇した時、陛下は兵を挙げてとことんまで討伐しようとしましたが、魏徴が諫めて止めました。おかげで、今に至る喪患となっているのです。陛下の策を用いれば、北鄙は安泰になりましょう。」
 上は言った。
「そうだ。これは誠に徴の過失だ。朕はこれを悔やんではいるが、非難すれば良謀を塞ぐことになりかねないと思い、口にしなかったのだ。」
 上は、自ら高麗を討伐したがったが、猪遂良が上疏した。その大意は、
「天下を一つの身体に喩えると、両京は心腹です。州県は四肢です。四夷は身外の物です。高麗の罪は大きく、誠に討伐するべきではありますが、ただ二、三の猛将に四、五万の兵を与えれば、陛下の威厳を後ろ盾に、掌を返すように取れます。今、太子は立ったばかりで、まだ幼少です。他の藩塀も、陛下のご存知の通り。一たび金湯の全を棄てて遼海の険を越え、天下の主君の身を以て軽々しく遠出する。皆、愚臣の憂えるところです。」
 上は聞かない。
 時、群臣の多くが高麗討伐を諫めたので、上は言った。
「八人の堯や九人の舜が集まっても、冬に種を播いて稔らせることは出来ない。野夫や童子でも、春に種播けば稔る。時を得ているからだ。それ、天にその時があるから、人に功績があるのだ。蓋蘇文は、上を凌いで下を虐げる。民は首を長くして、救いを待っているのだ。これこそ高麗を滅ぼす時。議者が紛々と異論を唱えるのは、ただ、目がないのだ。」
 七月辛卯。上は、高麗を征伐しようとて、将作大監閻立徳等を洪、饒、江三州へ派遣し、四百艘の船を造って軍糧を載せるよう敕した。
 甲午、営州都督張倹等に幽、営二都督の兵と契丹、奚、靺鞨を率いて出発し、まず遼東を攻撃してその勢力を見るよう詔が下った。太常卿韋挺を饋運使とし、民部侍郎崔仁師をその副官とし、河北の諸州は全て挺の節度を受けることとし、仕事の便宜を図った。また、太僕少卿蕭鋭には、河南諸州の兵糧を海へ運ぶよう命じた。
 鋭は、禹(「王/禹」)の子息である。
 九月乙未、鴻臚が上奏した。
「高麗の莫離支が白金を貢いできました。」
 猪遂良が言った。
「莫離支は、その主君を弑逆した、九夷から見離された男です。今将にこれを撃つべきなのに、その金を貰うならば、これは告(「告/里」)鼎と同類になってしまいます。(春秋左氏伝、斉の桓公が、告の鼎を取って非難された。)臣は、これを受け取らないようお願いもうします。」
 上は、これに従った。
 上は、高麗の使者へ言った。
「汝等は皆、高武へ仕えて官爵を受けていた。莫離支が弑逆したのに、汝等は復讐することも出来ぬばかりか、今、更に彼の為に雄説して大国を欺く。これ以上の罪はないぞ!」
 彼等を悉く大理へ引き渡した。 

 前の宜州刺史鄭元寿(「王/壽」)は既に退職していたが、彼はかつて煬帝に随従して高麗へ出征した経歴を持っていた。十一月、上はこれを行在所へ召し出して、高麗のことを問うた。対して言う、
 「遼東までは道のりは遠く、兵糧の運搬が困難です。東夷は城を善く守りますので、これを攻撃してもすぐには落とせません。」
 上は言った。
「今日の国力は、隋の比ではない。ただ、公の意見は参考に聞いただけだ。」
 張倹等が遼水を見ると、水が漲っており、容易くは渡れないと報告した。それを聞いて上は畏惰となし、倹を洛陽まで呼び付けた。到着すると、倹は山河の険易や水草の美悪をつぶさに述べたので、上は悦んだ。
 上は、名(「水/名」)州刺史程名振が用兵上手と聞いて、召し出して方略を尋ねたが、それで彼の才覚を嘉し、労って言った。
「卿には将相の器量がある。朕は使に任じるつもりだ。」
 名振は、拝謝をし忘れた。上は、例にこれを責めて、その反応を見てみようと思い、言った。
「山東の田舎者が。一刺史くらいで富貴を極めたと思ったか!天子の前に出て漫ろな言動、拝礼さえもしないのか!」
 名振は陳謝して言った。
「粗野の臣ですので、いままで聖君の御下問を受けたことがなく、どのように対しようか考えてしまい、それでつい拝礼を忘れてしまったのでございます。」
 その挙動は自若としており、応対の弁舌はいよいよ明確だった。上は感嘆して言った。
「房玄齢は朕の左右に侍って二十余年になるが、未だに朕が余人を譴責する有様を見ると、顔色を失ってしまう。名振は、朕に始めてあったのに、譴責を受けてもまるで怯えず、言葉も筋道が通っている。真の奇士だ!」
 即日、右驍衞将軍に任命した。
 甲午、刑部尚書張亮を平壌道行軍大総管として、江、淮、嶺、峡の兵四万、長安、洛陽の募兵三千、戦艦五百艘を与え、莱衆から海路で平壌へ向かわせた。また、太子詹事、左衞率李世勣を遼東道行軍大総管として、歩騎六万及び蘭、河二州の降伏した胡を与えて遼東へ派遣し、両軍連携を執りながら進軍させた。
 庚子、諸郡は幽州に集結した。行軍総管姜行本、少府少監丘行淹を安羅(「草/羅」)山へ先行させて、城攻めの雲梯や衝車を造らせた。
 この時、遠近の勇士達が募兵に応じたり、城攻めの器械を献上する者が後を絶たなかった。上は自ら損益を加えて、その便易を取った。又、手詔にて天下を諭して、言った。
「高麗の高蓋蘇文は、主君を弑逆し民を虐げた。人情として、どうして看過できようか!今、幽、薊を巡幸し、遼、碣の罪を詰問しようと欲す。通過する営屯は、労費することなかれ。」
 更に言う。
「昔、隋の煬帝はその下を残暴しており、対して高麗王はその民を仁愛していた。心に造反を思っている軍で安らかに楽しんでいる衆を攻撃したから、成功しなかったのだ。今、軍略上、必勝の要素が五つある。一は大を以て小を撃つ。二は、順を以て逆を討つ。三は、治を以て乱に乗じる。四は、逸を以て労を待つ。五は、悦を以て怨へ当たる。何で勝てないことを憂えようか!国民へ布告する。疑懼することなかれ!」
 ここを以て、屯舎へ供費される戦具は大半が減らされた。
 十二月、辛丑。武陽懿公李大亮が、長安にて卒した。遺表にて高麗討伐の中止を請願する。
 甲寅、諸軍及び新羅、百済、奚、契丹へそれぞれ別道から高麗を攻撃するよう詔した。
 十九年、正月。韋挺が先行して運河の様子を検分しなかった為に、兵糧舟六百余艘が盧思台まで来ると河が浅すぎ船底がつかえて進めなくなった。韋挺は、この罪で囚人として洛陽へ送られた。丁酉、除名され、将作少監の李道裕と交代させた。崔仁師もまた、免官となる。
 庚戌、上は自ら諸軍を率いて洛陽を出発した。特進蕭禹を洛陽宮留守とする。
 乙卯、詔が降りた。
「朕が定州を出発した後は、太子を監国とせよ。」
 開府儀同三司致仕尉遅敬徳が上言した。
「陛下が遼東へ親征し、太子が定州へおりますと、長安洛陽の心腹が空虚となり、楊玄感のような乱が起こりかねません。それに辺隅の小夷など、万乗が出向くには役不足です。どうか偏師を派遣して征伐させてください。それでもアッとゆう間に滅ぼせます。」
 上は従わなかった。敬徳を左一馬軍総管として、従軍させた。
 丁巳、殷の太子比干へ忠烈と諡し、その墓を守る役人を置き春秋には少牢で祀り、近隣の五戸を給付して清掃をさせるよう、詔が降りた。
 癸亥、上は業(「業/里」)へ到着した。自ら魏の文帝を祭る文を書いた。
「危機に臨んでは変化で制し、敵を料って奇策を設ける。一将の智としては余りあったが、万乗の才には足りなかった。」
 この月、李世勣の軍が幽州へ到着した。
 三月、丁丑。車駕が定州へ到着した。
 丁亥、上は侍臣へ言った。
「遼東は、もともと中国の領土だったが、隋氏は四度も遠征して、得られなかった。朕の今回の東征は、中国の子弟の讐を報い、高麗の逆臣を誅して高麗君父の恥を雪ぐ事にある。それに、中国はほぼ平定したが、ただ遼東のみ他国に奪われたままだ。だから朕が年老いる前に士大夫の余力を用いてこれを取るのだ。朕は洛陽を出発してからは、ただ肉と飯を食い、春野菜といえども口にしないのは、煩雑にすることを懼れているのだ。」
 上は病気の兵卒を見ると、侍臣の寝椅子まで連れてきて慰撫し、州刺史県令へ治療を手配させたので、感悦しない士卒はいなかった。或いは、東征の軍籍に載っていないのに、自ら私装で従軍を願い出る者も千人を越えた。彼等は、皆、言った。
「官位や恩賞など求めません。ただ、遼東で討ち死にすることが願いです。」
 上は許さなかった。
 上の出発が近づくと、太子は悲しみで数日泣いた。上は言った。
「今、汝を留めて鎮守させ俊賢を補佐させるのは天下へ汝の風采を知らしめるためだ。それ、国の要は賢を進め不肖を退け、善を賞し悪を罰し、公平無私であることだ。汝はこれに努力せよ。泣いている場合か!」
 開府儀同三司高士廉へ摂太子太傅を命じ、劉自、馬周、少詹事張行成、右庶子高季輔と共に機務に携わらせ、太子の助けとした。長孫無忌、岑文本と吏部尚書楊師道が上へ随行する。
 壬辰、車駕が定州を出発した。上は自ら弓矢を佩服し、雨衣を鞍後へ結んだ。長孫無忌へ摂侍中、楊師道へ摂中書令を命じる。
 李世勣軍は柳城を出発し、盛大に宣伝して懐遠鎮へ出るように見せかけ、密かに北上して高麗の不意を衝こうとした。夏、四月、戊戌朔、世勣は通定から遼水を渡り、玄莵へ到着した。高麗軍は大いに驚き、城邑は全て城門を閉じて守った。
 壬寅、遼東道副大総管江夏王道宗が数千の兵を率いて新城へ到着した。折衝都尉曹三良が十余騎を率いて城門へ突撃した。城中は驚き乱れ、敢えて出撃する者はいなかった。
 営州都督張倹は胡兵を率いて前鋒となり、遼水を渡って建安城へ向かい、高麗兵を撃破した。数千級を斬首する。
 丁未、車駕が幽州を出発した。
 ところで、上は軍中の全ての資糧、器械、簿書を岑文本へ委ねていた。文本は朝早くから夜遅くまで勤勉に務め、体のことも顧みず、いつも算盤や筆を離さなかった。おかげで精神はすり減り尽くし、言葉も行動も平素とは全然違ってしまった。上はこれを見て憂え、左右へ言った。

「文本は我と共に出発したが、我と共に帰ることはできないかも知れぬ。」
 この日、文本は突然発病して、ポックリ死んだ。その夕方、上は厳しい太鼓の音を聞き、言った。
「文本が死んだのだ。聞くに忍びない。止めさせなさい。」
 この時、右庶子許敬宗は定州に居り、高士廉等と共に政治の機密を扱っていた。文本が死ぬと、上は敬宗を呼び出し、検校中書侍郎とした。
 壬子、李世勣と江夏王道宗は高麗の蓋牟城を攻撃した。
 丁巳、車駕が北平へ到着した。
 癸亥、李世勣等は蓋牟城を抜き、二万余口の民と十余万石の兵糧を獲得した。
 張亮は水軍を率いて東莱から渡海し、卑沙城を襲撃した。その城は四面が切り立っており、ただ西門のみへのみ登れた。程名振は、兵を率いて夜襲した。副総管王文度が先頭で登る。五月、己巳、これを抜き、男女八千人を捕らえる。ここで二隊に分かれ、総管丘孝忠等は鴨緑水へ向かった。
 李世勣は遼東城下まで進軍した。
 庚午、車駕が遼沢へ到着する。ここはぬかるみが二百余里も広がっており人馬が進めなかったが、将作大匠閻立徳が土嚢で橋を造ったので、凝滞無く進軍できた。壬申、沢東へ渡る。
 乙亥、高麗は歩騎四万を遼東救援に派遣した。江夏王道宗が四千騎で迎撃しようとした。軍中の皆は、兵力差があまりに大きすぎるので守備を固めて車駕の到着を待つよう言ったが、道宗は言い返した。
「賊は多勢を恃んで我等を軽く見ている。しかも遠来で疲れているので、これを攻撃すれば絶対敗れる。それに、我が軍は前軍となったのだ。道を清めて乗輿を待つのが任務なのに、賊を君父へ遺すのか!」
 李世勣も賛同した。果毅都尉の馬文挙は言った。
「強敵と遭わなければ、壮士の力を見せられないぞ!」
 馬に鞭打って敵へ突撃すれば、向かうところ皆逃げ出したので、衆心は落ち着いた。
 合戦が始まると、行軍総管張君乂が後退した。唐軍は形勢が悪い。道宗は散らばった兵をかき集め、高みに登って戦場を見下ろし、高麗の乱れている陣を見定め、驍騎数十を率いてここかしこと暴れ回った。李世勣も兵を率いてこれを助けたので、高麗軍は大敗した。千余級を斬首する。
 丁丑、車駕が遼水を渡った。そこで橋を壊して、士卒の心を堅くした。馬首山に陣を張る。江夏王道宗を慰労して恩賞を賜下し、馬文挙を中郎将へ大抜擢し、張君乂を斬った。
 上は、自ら数百騎を率いて遼東城下へ至った。士卒は土嚢を背負っていたが、上はその一番重いものを馬上で持った。従官達も争って土を背負い城下へ運んだ。李世勣は、十二日に亘って、昼夜休まず遼東城を攻撃していた。そこへ上が精鋭兵を率いて合流し、遼東城を数百重に包囲し、軍鼓の音は天地をも震わせた。
 甲申、南風が激しかった。上は身軽な兵を衝竿のてっぺんに登らせ、遼東城の西南楼を燃やさせた。火は城中まで延焼する。それに乗じて将士は城へ登った。高麗は力戦したがかなわず、遂にこれに勝った。万余人を殺し、勝兵万余人、男女四万人を得る。この城を、遼州とした。
 乙未、白巖城へ進軍する。丙申、右衞大将軍李思摩へ弩の矢が当たった。上は自らその血を吸う。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった。
 烏骨城が万余の兵を派遣して、白巖城を声援した。将軍契必何力が精鋭八百騎で迎撃する。何力は勇敢に敵陣へ乗り込んだが、腰を槊で刺されてしまった。尚輦奉御薛萬備が単騎で救援に駆けつけ、万人の中から何力を助け出した。何力は気力は益々憤激し、傷口を縛って戦う。麾下の騎兵達も奮撃し、遂に高麗軍を破った。数十里追撃し、千余級の首を斬る。宵の口になって戦闘を止めた。萬備は、萬徹の弟である。
 六月、丁酉。李世勣は白巖城の西南を攻め、上はその西北へ臨む。城主の孫代音は密かに腹心を派遣して降伏を請うた。城へ臨めば、刀鉞を投げて証とし、言った。
「奴は降伏したいのですが、城中に従わない者がいるのです。」
 上は、唐の幟をその使者へ与えて、言った。
「降伏するのなら、これを城の上へ建てれば良い。」
 代音が幟を建てると、城中の人は唐兵が既に城へ登ったと思い、皆、これに従った。
 上が遼東に勝った時に白巖城は降伏を請うたのだが、やがて後悔した。その時上は、その反覆を怒り、軍中へ宣伝していた。
「城を得たら、城内の男女財宝を全て恩賞として兵卒へ賜下するぞ。」
 今、上がその降伏を受けようとしているのを見て、李世勣は甲士数十人を率いて請願に来た。
「士卒が争うように矢石を冒して死ぬことをも顧みないのは、捕虜を捕らえて自分の財産にしようとゆう欲望からです。今、この城は陥落寸前なのに、何故降伏を受け入れ、戦士達の期待を裏切るのですか!」
 上は、下馬して謝り、言った。
「将軍の言葉は正しい。だが、兵卒達へ虜の妻や娘をほしいままに殺戮させるのは、朕の心に忍びない。将軍の麾下で功績のある者は、朕は官庫の財宝で賞しよう。そうすれば、将軍もこの城一つを贖うに近いだろう。」
 そう言われて、世勣は引き下がった。
 城中の男女万余人を得た。上は水に臨んで幄を設けて降伏を受け、彼等へ食糧を賜下した。八十以上にはそれぞれに差を付けて帛を賜下する。白巖城に滞在していた他城の兵は、全て慰諭し、食糧を渡して好きなところへ行かせた。
 話は少し遡るが、遼東城の長史が部下から殺され、その省事が妻子と共に白巖城へ逃げ込んでいた。上は彼の義心を憐れみ、帛五匹を賜下する。長史の為に霊輿を造り、これを平壌へ帰した。
 白巖城を巖州とし、孫代音を刺史とした。
 契必(「草/必」)何力の傷は重かった。上は自ら薬を塗ってやった。そして何力を刺した高突勃を探し求めて何力へ引き渡し、殺させようとした。すると、何力は言った。
「彼は自分の主の為に白刃を冒して臣を刺した。これは忠勇の士だ。今回が初対面でもあるし、怨讐はない。」
 遂に、これを解放した。
 ところで、莫離支は、蓋牟城の守備のために、加尸城から七百人を派遣していた。李世勣はこれを全て捕らえたが、彼等は唐に従軍して命を捧げたいと請願した。すると、上は言った。
「お前達の家族は、皆、加尸城に住んでいる。お前達が我が為に戦えば、莫離支は必ずお前達の妻子を殺すぞ。一人の力を得ても一家を滅ぼしてしまうのだ。我には忍びない。」
 戊戌、皆へ賜下して立ち去らせた。
 己亥、蓋牟城を蓋州とした。
 丁未、車駕が遼東を出発した。丙辰、安市城へ到着し、これを攻撃する。
 丁巳、高麗の北部耨薩の延壽と惠眞が高麗、靺鞨の兵十五万を率いて安市を救援に来た。上は侍臣へ言った。
「今、延壽達に三つの策がある。兵を直前まで率い、安市城まで塁を連ね高山の険に據る。城中の粟を食べ、靺鞨には我が牛馬を掠奪させる。そうすれば、これを攻めてもすぐには落とせないし、帰ろうとしても泥沼に行く手を阻まれ、我が軍は窮地に陥る。これが上策だ。城中の衆を救い出して共に夜に紛れて逃げる。これが中策だ。考えもなしに我等とただ戦う。これは下策だ。卿等よく見ておけ。奴等は必ず下策に出る。我等の擒になるのも目前だ!」
 高麗には対盧とゆう官があり、年老いて世知長けた人間がなってた。彼が、延壽へ言った。
「秦王は、内は群雄を取り除き、外は戎狄を征服し、独り皇帝に立った。これは天命を受けた人間だ。それが今、海内の兵を動員して来寇した。とても敵わない。我が計略は、ただ一つ。兵を留めて戦わず持久戦に持ち込んむ傍ら、奇兵を出して敵の糧道を絶つ。糧食が尽きれば、戦おうとしてもできず、帰るにも術がない。こうすれば勝てる。」
 延壽は従わず、兵を率いて直進し、安市城から四十里の所へ陣取った。上はそれでもなお、敵が怖じけついて来襲しないことを恐れ、左衞大将軍阿史那社爾へ突厥兵千騎を与え、これを誘わせた。
 社爾が命令通り、少し戦って偽りの退却をすると、高麗兵は互いに言い合った。
「弱兵だ!」
 先を争ってこれに乗じ、安市城の東南八里まで追撃し、山に依って陣を布いた。
 上は諸将を全員召集して計略を問うた。すると、長孫無忌が言った。
「『敵に臨んで戦う時には、まず士卒の情を見よ。』と聞きます。臣が諸営を見回りますと、兵卒達は高麗軍が来たと聞くや、皆、刀を抜き兜の緒を結び、喜び勇んでいます。これは必勝の兵卒達です。陛下は元服前から戦陣に出張られました。奇策を出して勝ちを制するのは全て上様の聖謀で、諸将はその計略に従っただけ。今日のことも、どうか陛下のご指導のままに!」
 上は笑って言った。
「諸公が花を持たせてくれるなら、諸公の為に謀ってみるか。」
 そこで上は長孫無忌等数百騎を率いて高みに登って戦場を見下ろし、山川の地形を見て伏兵などの場所を決めた。
 高麗、靺鞨の兵は合流して陣を造る。それは四十里も連なった。江夏王道宗が言った。
「高麗は全力を挙げて我等を拒んでおります。平壌の守りはきっと希薄です。どうか精鋭五千を貸して下さい。根本を覆して見せます。そうすれば、数十万の軍は戦わずに降伏します。」
 上は応じなかった。そして、使者を派遣して延壽へ言った。
「汝の国の強臣が主君を弑逆したので、我はその罪を詰問に来たのだ。交戦に至るのは、我が本心ではない。汝の国境内へ入り兵糧が欠乏したので、汝の城をいくつか取っただけだ。汝の国が臣礼を修めたら、奪った城は必ず返す。」

 延壽はこれを信じ、防備をしなかった。
 上は、夜半、文武官を呼んで事を計った。李世勣には歩騎一万五千を与えて西嶺に陣取らせる。長孫無忌へは精鋭一万一千を与えて奇兵とし、山北から峡谷へ出て敵の背後を衝く。上は歩騎四千を率いて軍鼓や角笛、旗幟を擁して北山へ登る。軍鼓や角笛を聞いたら総攻撃を掛けるよう、諸軍へ敕した。官吏は命令を受けて、降伏を受け入れる幕を朝堂の側へ張った。
 戊午、延壽等は、ただ李世勣軍の陣だけを見たので、勇んで戦おうとした。上は、無忌の軍が塵を巻き上げるのを見て、鼓角を鳴らすよう命じ、旗幟を盛大にはためかせた。諸軍は軍鼓を鳴らしながら進撃する。延壽等は大いに懼れ、兵を分散して防ごうとしたが、その陣は混乱した。
 この時、雷電が起こった。龍門の住民薛仁貴が煌びやかな服を着て大声で叫びながら暴れまくれば、向かうところ敵は総崩れとなった。高麗兵は薙ぎ散らされ、大軍がこれに乗じた。高麗軍は大いに潰れ、二万余級の首を斬る。上は仁貴を望み見て、召し出すと游撃将軍に任命した。仁貴は、安都の六世の孫である。名は禮。しかし、字の方が有名である。
 延壽等は敗残兵を集めて山に依って守備を固めた。上は、これを包囲するよう諸軍へ命じた。長孫無忌は橋梁を悉く撤去して、高麗軍の退路を断った。
 己未、延壽と惠眞は三万六千を率いて降伏を請うた。軍門へ入り膝足で進み、伏し拝んで命令を待つ。上は言った。
「東夷の少年が海曲で跳梁しても、真っ向から決戦すれば老人にも及ばない。それでも敢えて天子と戦うのか?」
 皆、伏したままで答えることが出来なかった。
 上は、耨薩以下酋長三千五百人へ戎秩を授けて内地へ移し、その他は皆釈放して平壌へ帰した。皆、諸手を挙げて喜び、歓呼の声は十里先まで聞こえた。靺鞨兵三千三百人は捕らえて、全員穴埋めとする。馬五万匹、牛五万頭、鉄甲一万領、その他沢山の器械を獲る。高麗は国を挙げて大騒ぎとなり、後黄鉞、銀鉞などはサッサと逃げだし、数百里に亘って人煙が立たなくなった。
 上は、駅伝で太子や高士廉等へ書を送った。
「朕は、将軍となってもこのように働ける。どうだ?」
 御幸した山を、駐畢(「馬/畢」)山と改名する。
 秋、七月、辛未。上は本営を安市城の東嶺へ移す。己卯、戦死者の屍には印を付けて、軍が帰国する時に共に帰るよう詔する。戊子、高延壽を鴻臚卿、高惠眞を司農卿とする。
 張亮軍は建安城下を通り過ぎた。壁や塁が堅固でなかったので、大勢の士卒が木を伐りだした。そこへ高麗軍が襲ってきたので、軍は大混乱に陥った。亮はもともと臆病者。胡床へ座り込んだまま何も言えなかったが、将士はこれを見て、勇気があると思った。総管の張金樹等が軍鼓を鳴らして迎撃し、これを破った。
 八月、甲辰、斥候兵が莫離支の放った間諜高竹離を捕らえる。軍門に後ろ手で縛り上げたが、上がこれを召し出して、いましめを解いて言った。
「何でそんなに痩せているのか?」
 対して答えた。
「間道を通って、数日何も食べられませんでした。」
 そこで、これに食事を食べさせ、言った。
「汝は間諜に出たのだから、速やかに報告するがよい。我が為に、莫離支へ伝えよ。軍中の有様を知りたければ、我がもとへ人を派遣すればよい。なんで苦労して調べる必要があろうか!」
 竹離は裸足だったので、上は履き物を賜下して、釈放した。
 丙午、本営を安市城南へ移す。上は、遼外へ来てからも、本営を置く場所ではただ斥候を放つだけで、塹壕や塁を造らなかった。その城へ迫った時でさえ、高麗は遂に敢えて襲撃できなかった。軍士は、まるで中国にいる時のように野宿した。
 上は城巖に克つと、李世勣へ言った。
「安市城は険阻で兵卒は精鋭、城主は勇猛だと聞いている。莫離支の乱でも、安市城は堅守して屈服せず、莫離支が下せなかったのもそのせいだ。建安は弱卒で兵糧も少ない。もしもその不意を衝けば、必ず勝てる。公はまず建安を攻撃するがよい。もしも建安が落ちれば、安市は我が腹中にある。これこそ兵法に言う、『攻める必要のない城もある。』とゆうものだ。」
 対して、李世勣は言った。
「建安は南にあり、安市は北にあり、我等の兵糧は全て遼東にあります。今、安市を飛び越えて建安を攻めれば、賊徒が我等の糧道を絶った時にどうしましょうか?ここは安市を先に攻めて、安市を落としてから軍鼓を鳴らして建安を取るだけです。」
 上は言った。
「公を将としたのだ。公の策を用いよう。我が事業を失敗させるな!」
 世勣は、遂に安市を攻撃した。
 安市の人々は上の旗蓋を見ると城壁に乗って軍鼓を打ち鳴らした。上は怒り、李世勣は、”城を落としたら住民を全て穴埋めにしましょう”と請願した。安市の人はこれを聞き、ますます堅守したので、攻撃してもなかなか落とせなかった。
 高延壽と高惠眞は上へ請うた。
「この奴めは既に大国へ我が身を委ねました。どうして誠意を示さずにいられましょうか。天子が早く大功を建て、奴達は速やかに妻子の元へ帰れることこそが、我等の願いです。安市の人々はその家族を思って自ら戦っているのですから、簡単には落ちません。今、奴が高麗の十余万の軍を率い、唐の軍旗を見て総崩れの態を示して見せましょう。国人達は肝を潰しますぞ。烏骨城は老いぼればかり。堅守できません。軍を移動して城へ臨めばその日のうちに勝てます。その他は、道すがらの小城ばかり。必ずや風を望んで潰滅します。その後に、それらの城の資財を収めて軍鼓を鳴らして進軍すれば、平壌は絶対守れません。」
 群臣達も言った。
「張亮の軍が沙城に居ます。これを招聘すればすぐにでもやってきます。そうして高麗軍の恐惶に乗じて力を合わせて烏骨城を抜き、鴨縁水を渡り、直接平壌を取るのです。勝利はこの挙にありますぞ。」
 上はこれに従おうとしたが、長孫無忌だけが言った。
「天子の親征は諸将の遠征とは違います。一か八かの博打を打ってはなりません。今、虜兵は建安、新城になお十万はいます。もしも烏骨へ向かえば、彼等は我等の背後を叩きますぞ。まず安市を破り建安を取り、その後に進軍してこそ万全の勝利です。」
 上は、奇策を止めた。
 諸軍が安市へ猛攻を加えている時、上は城中から鶏や豚のけたたましい鳴き声を聞いた。そこで、上は李世勣へ言った。
「城を包囲して久く、城中からは炊煙が殆ど挙がらなくなった。それなのに、今、鶏や豚の声が盛んに聞こえた。これは、きっと兵士へ饗応して夜襲を掛けようとゆうのだ。警戒を厳重にしておけ。」
 この夜、高麗兵が数百人城から降りてきた。上はこれを聞くと自ら城下へ至り、兵を召して急撃し、数十の首を斬った。高麗軍は逃げ出した。
 江夏王道宗は、衆を指揮して城の東南の隅へ築山を築いた。それは次第に大きくなり、城へ迫る。だが、城中ではその城を高く増築してこれを拒んだ。士卒は交代で一日に六、七回も攻撃し、衝車や石がその楼閣や城壁を壊した。しかし城では木柵を立ててその隙間を塞いだ。道宗は激戦の中、足に負傷した。すると上は、自ら其の傷口を縫った。
 築山の工事は昼夜休みなしで続く。およそ六旬、のべ五十万の労力を用いて、その山頂は城から数丈へ迫り、城中へ臨んだ。果毅の傅伏愛が道宗の命令を受けて兵を率いて山頂に屯営して敵へ備えた。山が崩れて城へ落ちかかり、城が崩れた。だが、伏愛が私用で部所を離れている隙に、高麗兵数百人が城壁の垣間から出撃してきて、遂に山を奪い、これに據り、塹壕を掘って守備を固めた。上は怒り、伏愛を斬って諸将へこれを攻撃するよう命じたが、三日攻撃しても勝てなかった。
 道宗が裸足になって旗下へ出向いて罪を請うと、上は言った。
「汝の罪は死に値する。しかし朕は、漢の武帝が王恢を殺したのは秦の穆公が孟明を用いたのに及ばないと評していた。それに、汝には蓋牟、遼東を撃破した功績がある。よって、特に汝を赦そう。」
 遼東の冬は寒く、草は枯れ水は凍る。士馬の長逗留は難しいと上は考えた。また、兵糧が尽きかけたこともあり、癸未、退却の敕を下した。先に遼、蓋二州の戸口を退却させて遼を渡らせ、安市城下にて大集合して退却を開始する。城中は皆、陰へ隠れて出撃しない。ただ城主は城壁へ登って別れの挨拶を述べた。上は彼が固守したことを嘉し、反物百匹を賜下し、君へ仕えることを励ました。李世勣と江夏王道宗へ歩騎四万を与えて殿とする。
 乙酉、両党へ着いた。丙戌、遼水を渡る。遼澤は泥沼となっていて車馬は渡れない。長孫無忌へ一万人を率いて草を刈って道を埋めさせた。水が深いところは、車を梁とする。上は自ら馬鞘へ薪を縛って手伝った。
 冬、十月、丙申朔、上は蒲溝へ至って馬を留め、衆人を監督して道を埋めさせて、諸軍へ渤錯水を渡らせた。途中、風雨が激しく、大勢の士卒が水に濡れて凍死した。そこで道中に火を焚いてこれを待つよう敕した。
 今回の高麗征伐は、玄莵、横山、蓋牟、磨米、遼東、白巖、卑沙、麦谷、銀山、後黄の十城を抜き、遼、蓋、巖三州の住民七万人を中国へ移住させた。新城、建安、駐畢(「馬/畢」)の三大決戦で四万余級の首を斬った。戦死者は二千人近く、戦馬は七、八割が死んだ。
 上は、成功しなかったので深く悔い、嘆いて言った。
「もしも魏徴がいれば、我にこんな事はさせなかったものを!」
 そこで、徴の墓へ駆けつけて少牢で祀るよう命じ、碑を再び立てさせた。また、妻子を行在所まで召し出して、慰労して賜下した。
 丙午、営州へ到着した。遼東での戦死者の骸骨を柳城の東南へ集めるよう詔し、太牢を設けた。上が自ら文を作って彼等を祭る。哭いた時にはとても哀しそうだった。戦死者達の父母は、これを聞いて言った。
「我が子の死に、天子が涙為された。なんの恨みがあろうか!」
 上は薛仁貴へ言った。
「朕の諸将は皆老いた。新進の驍勇を得て兵に将たらしめたいが、卿以上の者はいない。朕は遼東を得ても嬉しくないが、卿を得たのが嬉しい。」
 丙辰、上は太子の出迎えが到着間近だと聞き、飛騎三千人を率いて臨渝関へ馳せ入り、道にて太子と遭った。
 上は定州を出発する時、着ている褐袴を指さして太子へ言った。
「お前と再会したとき、この袴を着替えよう。」
 遼左では、暑くて汗を流しても、これを着替えなかった。秋になって敗北した時、左右は着替えるよう言ったけれども、上は言った。
「軍士の衣も多くはくたびれている。我一人新しい衣を着て良いのか?」
 ここに至って、太子が新しい衣を進め、これを着替えた。
 諸軍が捕虜とした高麗人は一万四千人。これをまず幽州に集めて軍士への褒賞にしようとしたが、上は、彼等が父子夫婦と離散することを憐れみ、彼等を全員銭布で買い取って平民とした。歓呼の声は三日間止まなかった。
 十一月、辛未。車駕が幽州へ到着した。高麗の民は城東で迎えた。彼等は拝礼し、踊りまくり、歓声を挙げ、転がり廻ったので、立ち上る塵埃が遠くからでも見えるほどだった。
 庚辰、易州の境を通過した。司馬の陳元壽(「王/壽」)は地室にて民に提灯行列をさせた。上はその諂いを憎んで、元壽を罷免した。
 丙戌、車駕は定州へ到着した。
 丁亥、吏部尚書楊師道が登用した者には無能な者が多かったので、懲罰として工部尚書へ左遷された。
 壬辰、車駕が定州を出発した。十二月、辛丑、上に非常に悪性のできものができたので、御歩輦にて進んだ。戌申、并州へ到着した。太子が、上のできものの膿を吸い取った。そして数日間、歩輦を助けて進んだ。辛亥、上の病が癒えた。百官は皆祝賀した。
 二十年二月、乙未。上は并州を出発した。三月、己巳、車駕が京師へ帰った。
 上が李靖へ言った。
「我が天下の衆を率いたのに、小夷に苦しまされた。何故かな?」
 靖は言った。
「その訳は、道宗が知っています。」
 そこで上は江夏王道宗を振り向いて尋ねると、道宗は対峙していた時に献策した、虚に乗じて平壌を取る策を具に語った。上は、しょげかえって言った。
「あの時はバタバタしており、憶えてないのだ。」 

 閏月戊戌、遼州都督府と巖州を廃止した。  五月、甲寅、高麗王藏と莫離支蓋金が謝罪の使者を派遣して、二人の美女を献上したが、上はこれを返した。蓋金は、蓋蘇文のことである。 

 上が高麗から還ってから、蓋蘇文はますます驕慢になった。使者を派遣して奉表こそしたものの、その言辞は詭誕だらけ。唐からの使者へも傲慢に対し、常にその辺境の隙を窺っていた。新羅を攻撃するなと屡々敕令を下したが、侵陵を止めない。
 壬申、その朝貢を受けぬように、と詔がおり、更にこれの討伐について議した。 

 二十一年、辛卯、上は言った。 「朕は、古人の取れなかった戎・狄を取ることができたし、古人が臣下とできなかった者を臣下に出来た。それは全て、衆人の望むところに従ったからだ。昔、禹は九州の民を率いて山を穿ち木を断ち切り、百川を海へ注いだ。その労苦は甚大だったが、民は怨まなかった。それは人の思いを基にして、地形に逆らわず、其の利益を民と共有したからだ。」 

 五月、李世勣軍は遼を渡り、南蘇等数城を経た。高麗は大半は城を背にして拒戦したが、世勣はその兵を撃破し、その羅郭を焼き払って還った。
 七月。牛進達、李海岸は高麗の国境を越えてから凡そ百余戦したが、負け知らずで、石城を攻め落とした。積利城下まで進軍すると高麗兵萬余人が出撃したが、海岸がこれを撃破して、二千の首級を挙げた。
 九月、戊戌、宋州刺史王波利等へ、江南十二州の工人を徴発して大船数百艘を建造するよう敕した。高麗を征服したがったのだ。
 十二月、高麗王が子息の莫離支任武を入朝させて、謝罪した。上は、これを許す。