葛城襲津彦、沙至比跪、貴国

神功皇后

摂政元年(辛巳年)
354年か?
―摂政前紀(仲哀天皇9年)―
神がかりになり「住吉三神」「アマサカルムカツヒメ命」「コトシロヌシ神」などが示される。
羽白熊鷲を討ち、山門のタブラツヒメを誅する。
和珥津(対馬)から出航して新羅に往くと、新羅王は図籍を持参して降伏し、三韓を内官家とする。この年の12月にホムタワケが誕生(筑紫の宇美で。古事記では蚊田)。
 ―摂政元年―

豊浦宮の仲哀天皇の遺骸と共に帰るが、途中でカゴサカ王・オシクマ王兄弟の攻撃を受けるも、武内宿禰・武振熊などによって討ち取る。

沙至比跪

葛城襲津彦と同一人物として扱われている。
沙至比跪は百済記では朝貢を怠った戒めで新羅国を攻撃に向うが、港で新羅の美女に出迎えを受けて惑わされて、攻撃先を加羅に変えてしまう。
そのことに関して天皇の怒りが消えないのを知って自害してしまう。
ところが葛城襲津彦としては応神十四年にも登場し、ここでも新羅に妨害されて来朝できない弓月君の一団を迎えに派遣されるが、3年経っても戻ってこない無能な使者の役回りで描かれている。

沙至比跪は職麻那那加比跪が英雄として描かれているのとは異なり、役に立たない裏切り者として登場している。

『日本書紀』では、神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って葛城襲津彦の事績が記されている。

神功皇后5年3月7日条
新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

神功皇后62年条
新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する。

『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせた

また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺した。

応神天皇14年是歳条
百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができない、という。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

応神天皇16年8月条
天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

仁徳天皇41年3月条
天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。
『古事記』では事績に関する記載はない。

この一言主は紀元四~五世紀の頃、葛城の地を本拠地とし、大王(天皇)家に匹敵する勢力を誇った葛城氏と関係がある神と言われている。実在がほぼ確実視されている葛城襲津彦の娘は仁徳天皇の后となり、履中・反正・允恭天皇を生むなどして、天皇家との外戚関係を築き上げ、葛城氏は権勢を誇った。
しかし、襲津彦の死後、襲津彦の孫の玉田宿禰たまだのすくねが允恭天皇に討たれ、玉田宿禰の息子である葛城円かつらぎのつぶらは安康天皇を殺害した眉輪王をかくまった為に雄略天皇に殺され、以後、葛城氏の勢力は衰退する事になる。

氏族
左京皇別 葛城朝臣 – 葛城襲津彦命の後。
右京皇別 玉手朝臣 – 武内宿禰男の葛木曾頭日古命の後。
山城国皇別 的臣 – 石川朝臣同祖。彦太忍信命三世孫の葛城襲津彦命の後。
摂津国皇別 阿支奈臣 – 玉手朝臣同祖。武内宿禰男の葛城曾豆比古命の後。
摂津国皇別 布敷首 – 玉手同祖。葛木襲津彦命の後。
河内国皇別 的臣 – 道守朝臣同祖。武内宿禰男の葛木曾都比古命の後。
河内国皇別 塩屋連 – 同上。
河内国皇別 小家連 – 塩屋連同祖。武内宿禰男の葛木襲津彦命の後。
河内国皇別 原井連 – 同上。
和泉国皇別 的臣 – 坂本朝臣同祖。建内宿禰男の葛城襲津彦命の後。
和泉国皇別 布師臣 – 同上。
摂津国未定雑姓 下神 – 葛木襲津彦命男の腰裙宿禰の後。

神功記を要約すると、神功49年(369年)、荒田別らを将軍とする倭国軍は海を渡り、百済の木羅斤資らの援軍とともに「新羅」を打ち破った。そして荒田別、木羅斤資らは百済王肖古と王子貴須と会い互いに喜びを交しあった、とあります。
しかし360年代の「新羅」は、加羅諸国の存在の安全を脅かすほどの存在ではありません。

三韓征伐
この神功皇后の時代には倭国は朝鮮半島の南方に君臨する大国として大きな影響力を行使したようです。その元祖として、英雄として日本書紀などは神功皇后の伝説を創ったようです。
 366 神功皇后、斯摩宿禰を卓淳国に遣わす。(神功46年)
 367 百済使、来朝。(神功47年)
 369 荒田別・鹿我別を新羅征討の将軍として派遣。(神功49年)
 372 百済、七枝刀一口・七子鏡一面を献上。(神功52年)
 382 沙至比跪(葛城襲津彦)を新羅に遣わす。(神功62年)

神功記52年条(372年)によれば、百済より倭国に、七枝刀一口等の重宝が献上されています。それが天理市の石上神宮所蔵の七枝刀と思われます。369年5月の百済と加羅系倭国の軍事同盟の締結を記念して造られたのでしょう。

『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせた

六十四年(甲申、384年)に、百済国の貴須王薨りぬ。王子枕流王(とむるおう)、立ちて王となる。

六十五年(乙酉、385年)に、百済の枕流王薨りぬ。王子阿花年少し。叔父辰斯、奪ひて立ちて王となる。

この条の記述は次の百済記を用いた応神三年是歳条につながっていく。

(応神三年)是歳(壬辰、392年)、
百済の辰斯王立ちて、貴国の天皇のみために失礼し。
故、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰(つくのすくね)を遣して、
其礼无き状を嘖譲(ころ)はしむ。
是によりて、百済国辰斯王を殺して謝(うべな)ひにき。
紀角宿禰等、便(すで)に阿花王を立てて王として帰れり。

貴須王の死後384年から392年の8年間に、枕流王、辰斯王とつなぎ阿花王まで、短期間に国王が目まぐるしく交替したことは三国史記などの記述とも一致している。

「好太王碑文」の謎は百済王=倭王ではじめて解ける。また様々な解釈がある「好太王碑文」についても、百済王=倭王としてはじめて解ける。「好太王碑文」永楽5年と6年の間には以下のようにある。「百残・新羅は旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに倭は辛卯の年を以て来り、海を渡りて百残を破り、随いで新羅を破り、以て臣民と為す」

永楽5年は、395年である。

大阪・平野 志紀長吉神社

志紀長吉神社のご由緒

ご鎮座になったのは今から一二〇〇年前の平安初期頃(七九四年)であり、第六十九代後朱雀・第七十代後冷泉天皇の祭りの場となった場所である。天皇即位の祭・大祭の時に当社の東の飛び境内地(宝田)(現在の長原東二丁目六番)より全ての者に罪・穢れがつかないよう祓うものとして日蔭の蔓を供え、平安朝第五十一代平城天皇(八〇九年)より日蔭大明神の位を授けられ、神紋と定められた。

長江襲津彦(ながえそつひこの)命(みこと) 
長江襲津彦命は、葛城襲津彦命とも称し第八代孝元天皇の孫にあたり武内宿禰の六子として生誕され、第十五代応神天皇・第十六代仁徳天皇にお仕えし三韓征伐の際に海上・道中の安全を守護されました。長江襲津彦命は、もと大和地方を支配した葛城氏の祖先で、この長吉の地に居住し又住吉の墨江の名より長江へと変わり鎮座されました。地名の通り長吉は、長江から変わりました

延喜式大社
祭神は不詳とされるが、長江襲津彦と事代主を祭ると云う。また天宇受売神、野槌神を祭ると云う。長江襲津彦は武内宿禰の子で、河内国皇別の的臣、鹽屋連、小家連等皆その後裔にして、この地方に居住、これらの氏族の奉祀と推定される。
 大嘗祭には本社の東六町の岡山(長原東二丁目の宝田の地)に生ずる日蔭の蔓を献納する例が往古にあり、日蔭大明神と神号と歌を賜ったと云う。神紋となる。祓いの神であると云う。
 神山の 日蔭の蔓 かざすてふ とよ明りの わけてくまなき
長江襲津彦命は葛城の襲津彦のことで、葛城氏の祖であり、配祀の事代主命は鴨氏の祖、葛城山系の東側に拠点の氏族であるが、彼らの河内での足がかりの地であったのかも知れない。

真田幸村
慶長20年(1615)5月6日、大坂夏の陣で豊臣方は、道明寺の戦い・八尾の戦い・若江の戦いで苦戦を強いられました。道明寺まで進ん だ真田幸村は、現在の平野区長吉あたりまで退却、ひと休みし志紀長吉神社に戦勝を祈願しました。 この時、休憩した場所がここであったと伝えられています。

《神功62年に『百済記』を引用して、加羅が滅亡し、いったん百済に亡命した加羅王族が来日するが、その時、加羅王妹の既殿至(こでんち)が、沙至比跪(さちひく)を、新羅の美女を納れて裏切ったので加羅が亡びたと激しく非難して天皇に訴えたという記事がある。

562年にも任那(加羅)が亡びています。
池田氏はこれを
「やはり、これは、欽明23年壬午の加羅滅亡事件が、干支五運繰り上げられて、神功62年壬午の加羅滅亡事件に架上されたとみる方が、合理的な見方といえるのではなかろうか」p23

新羅が朝貢しなかったために新羅を撃てと「葛城襲津彦」が派遣されます。
そして、「日本書紀」では、ここから「百済記」を引用しています。
「沙至比跪は新羅の美女二人を受け入れて、新羅ではなく加羅を亡ぼした。
加羅王族は百済に亡命した。百済は厚遇した。」

「沙至比跪」が「葛城襲津彦」ならば日本人になるのでしょう。

「推古朝こそ原帝紀成立期」p13先ほどの引用の続き
《「至」は「遅」や「智」と同じ朝鮮語の敬称と考えられ、「奚」も人に付ける場合は「解」と同じく敬称とされるのであって、この敬称語尾を除いた「既(古)殿」という名は完全に“合同”である。

神功皇后
《神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)二月》六十二年。新羅不朝。即年遣襲津彦撃新羅。〈 百済記云。壬午年。新羅不奉貴国。貴国遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅国。

神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)の(庚午二五〇)は(壬午二六二)の間違いと思われます。
その前の行が
《神功皇后摂政五六年(丙子二五六)》五十六年。百済王子貴須立為王。》です?

誉田天皇 十六年八月、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した

大鷦鷯天皇 四十一年三月 紀角宿禰(きのつのすくね)に無礼をはたらいた百済の王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。

百済文周王の時代(475年)に倭国に来た木羅斤資将軍(モクラコンシ)
木羅斤資は父は百済高官、母は新羅人だった。高句麗に攻められて危機に瀕したため新羅に援軍を求め文周王ともに、木羅斤資将軍は新羅に行った。その後、新羅から南に行ったきり、しばらく戻らなかった。

三国史記では、「南に行けり」といった短い記載のされかたしかない。その木羅斤資が木満致(き・まち)である。木満致(き・まち)の娘が仁徳天皇の妃となり、「葛城」の姓を賜った。蘇我氏は百済の木氏で、日本で葛城氏となり、後に蘇我氏に分かれたのである。7代の馬子の時に最大の実権を握る

始祖・襲津彦の伝承
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた

http://ja.wikipedia.org/wiki/葛城氏

木羅斤資
『日本書紀』によれば、応神天皇25年(294年→414年)に即位。王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある。この木満致を蘇我氏の祖先蘇我満智とする説があるが、類推の域を出ない。また、木羅斤資を百済の将とするが、倭国が派遣した将軍(倭人)とも任那系とも考えられ不明な点が多い。

木満致
日本書紀 巻第十 応神天皇

二十五年百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かった。天皇はこれを聞いておよびになった。

百済記によると、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女を娶とって生んだところである。その父の功を以て、任那を専らにした。我が国(百済)にきて日本と往き来した。職制を賜わり、わが国の政をとった。権勢盛んであったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。

好太王(こうたいおう、374年 – 412年)は高句麗の第19代の王(在位: 391年 – 412年 )。姓は高、諱は談徳(タムドク)。先代の故国譲王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。
在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。また、中国史書(『北史』など)では句麗王安として現れる。

王の即位年について、好太王碑文では前述の通り辛卯年(391年)とするが、『三国史記』高句麗本紀や同書・年表、また『三国遺事』王暦においては壬辰年(392年)の即位としており、1年の差異が見られる。これにより、治績年や死去年についても1年の差異があるが、ここでは、干支表記年は好太王碑文によるものとし、干支を伴わない表記年は『三国史記』によるものとする。

諡が示すとおりに高句麗の領土を拡張させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから積極的な攻勢を取った。
壬辰年(392年)には石硯城(黄海北道回海豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。甲午年(394年)には水谷城(黄海北道新渓郡)を築き、乙未年(395年)には現在の礼成江まで侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。丙申年(396年)には漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。

しかし丁酉年(397年)、百済の阿?王が王子腆支を人質として倭に送って通好し、(399年)には百済が誓いを違えて倭に通じ、新羅は倭の侵攻を受けていた。このため庚子年(400年)に歩騎五万を派遣し新羅を救援した。このとき新羅の王都は倭軍に占領されていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで追撃した。ところが(402年)、新羅は奈勿尼師今の王子斯欣を人質として倭に送って通交する。甲辰年(404年)になると帯方界に倭軍の侵入を受けるが撃退した。丁未年(407年)には百済に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。

雄略天皇の15年に、 「秦氏の率いてきた民を臣連に分散し、それぞれの願いのままに使われた。秦氏の管理者の伴造に任せられなかった。このため秦造酒は大変気にやんで天皇に仕えた。しかし天皇は寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜った。公はそれで各種多数の村主を率いるようになり、租税としてつくられた絹・かとり(上質の絹)を献って、朝廷に沢山積み上げた。よって姓を賜って「うつまさ」といった。」 とあります。

古田氏の説 貴国は木国

「貴国」という表記のもとになった「キ国」とはどこか。まず、考えられるのは、「木の国」(紀国)だ。
 この国の名は『古事記』『日本書紀』にも書かれているから、相当古い地名である。少なくとも『古事記』『日本書紀』成立時(7、8世紀)以前の名だ。しかし、〝和歌山をもって、天皇の首都とした″という徴候は、天皇家の歴史の中に存在しない。『古事記』『日本書紀』という天皇家の公的な歴史書の中にも、全くその痕跡を見ないのである。だから、この「キ国」をここに当てることは無理だ。

新説 : 貴国は、基肄郡?
「基肄郡」は「朝倉郡」の真西10数㎞の位置にある。そこは古田氏が言うように「筑前と筑後をおさえる〝ネック″(頸部)である」。

五十猛神は筑紫の国魂、「白日別神」として筑紫野の筑紫神社に祀られている。この社の西に「基山」が聳え、南麓の荒穂神社にも五十猛神が祀られ、元は山上に在ったとされる。基山(きやま)の名は、五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。

九州北部においては、五十猛神伝承域と甕棺墓域がみごとに一致して、神話や伝承と考古の実体が重なる。

 この地でも、五十猛神は南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承」を残していた。高良の神が投げた石は荒穂神社の境内に残り、五十猛神が投げた石は、高良大社の床下に残るといわれ、これは戦さの記憶とされた。

この地にも戦闘集団の墓域があった。基山の東、「隈、西小田遺跡」の弥生中期の甕棺墓群から、被葬者の体内に遺存した破片と思われる夥しい数の鏃や石剣などの欠片、首を切断された人骨などが検出され、この域での激しい戦闘を彷彿とさせた。
 高良山に進駐し、韓半島由来の筑紫神に対峙し、せめぎあったのは「狗人」の神々であった。基山の「礫打伝承」とは、五十猛神を奉祭する韓半島に拘わる勢力と、高良に在った狗人との戦さの記憶。

 また、基山と高良に挟まれた小郡のあたり。「隈」の地名が無数に集中する神祇。平野部の神奈備は山隈山、隈の山とされる。古層の「隈(くま)」地名は、忌避された族の住地に与えられた名。そして、それを施したのは韓半島の支配氏族。このあたりでは韓半島由来の勢力が狗人を駆逐している。
 高木神の「鷹」と狗人の「日(火)」の神祇地に、韓半島由来の為政者によって「隈」とされた神々の姿が重なって、殊に、九州北半域の三層構造が在った。

【基肄城】

現在の佐賀県三養基(みやき)郡基山(きやま)町と福岡県筑紫野市にまたがってあった古代の朝鮮式山城。白村江(はくそんこう)の戦いに敗れたのを機に、大宰府防衛のために築かれた。全長4.3キロに及ぶ土塁や、谷をふさぐ大規模な水門などが残る。

福岡県筑紫野市の筑紫神社や佐賀県基山の荒穂神社などは、は、イソタケルノミコトを祭神の一柱としている。

肥後国玉名郡船山古墳出土の直刀の銘文「作刀者伊太□書者張安也」とあり、伊太□は作刀者。伊太□は刀鍛冶の名。
素盞嗚尊が埴土で船を造ったが、埴土は製鉄の原料であり、鉄器を作り、造船したと云う意味。
出雲の砂鉄の産地の船通山の麓に、伊我多気神社・鬼神神社が鎮座、ここは韓鍛冶の神としての五十猛を祀っている。

新羅神
九州の旧伊都国(糸島郡)に鎮座の白木神社の祭神は五十猛神。
『筑前国風土記逸文』高麗に降臨した日桙の末裔、怡土県主の祖、五十迹手は恪(いそ)しと称えられた。五十猛神も有功(いさおし)の神と称えられ、五十迹手との関係は無視できない

安曇族の祖の磯良もしくは磯武良対馬国下県郡 多久頭魂神社摂社松崎神社「安曇磯武良」
五十猛の訓みに「いそたけ」がある。その名にちなむ磯竹との地名もある。一方、磯武良も「いそたけら」。渡しの神としての共通点もある。

名草郡に鎮座する五十猛
略称は「なぐさのたけ」とすると、神武天皇の父の彦波限建鵜葺草葺不合命の「彦波限建」に比定できる。

藤井寺市の辛国神社