葛城、剣根命、葛城襲津彦

『神武紀』:高尾張を葛城といい、剣根を葛城国造とした

      高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。

 

      磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。

 

    椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

剣根命の系譜:『古代豪族系図集覧』

高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多美命(葛城直祖)

陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。葛城の鴨氏とも近い縁がある。

葛木御県神社 かつらぎのみあがた
祭神 天津日高日子番能瓊々杵命 天剣根命
鎮座地 奈良県葛城市葛木
新庄と葛木との境に鎮座する。天津日高日子番能瓊々杵命を祀っていたが、明治年間天剣根命を追祀した。葛城地方には剣根命の後と伝える葛城国造がおり、天武天皇十四年(685)六月に忌寸(いみき)姓を賜っている。『姓氏録』神別の条に、葛木忌寸は高御魂命五世の孫、剣根命の後あり、高木氏の祖神とみられる。当社は古来桑海村(大字葛木の旧名)にあったが、延宝八年(1680)領主桑山氏の信仰した、諸鍬・八幡の二社を、北花内の埴口陵に遷座、近村の神社も集めて、すべてその末社としたが後、元冶元年(1864)山陵修理に当って当社が式内大社の故を以て元の社地に帰座、今日に及んだ(当社明細帳)。

陶津耳命
陶津耳命の二世孫に剣根命と太田田根子がいる。

「陶津耳命」には『和泉国大鳥郡、陶荒田神社』の註文があって、この神様には「都留支日子命(ツルギヒコ)」という名前の兄弟があり、その神様が『出雲国島根郡、山口里』を本拠地としていたと注記されています。現在でも大阪堺に陶荒田神社、島根松江に布自伎彌神社が在って前者が高魂命、剣根命を、後者が都留支日子命を祭神としています

「陶津耳命(スエツミミ)」とは神話に登場し薬神、酒神として良く知られる少彦名命の別名

剣根は娘・加奈知比咩命、孫娘・葛城避比売命をそれぞれ尾張氏の当主である天忍男命と天戸目命に嫁がせ、神武に積極的に貢献した高倉下(亦の名、天香語山命)を先祖に持つ尾張との閨閥作りに努め、ヤマトでの影響力の拡大を目指したと考えられます

葛城の「鸇姫(ワシヒメ)」は開化帝の妃となって建豊波豆羅和気王を生み、もう一人が「建諸隅命(タケモロスミ)」の妻になったと系譜は伝えています。建豊波豆羅和気王という王子は系譜上「依羅阿比古(ヨサミアビコ)の祖とされる人物であり、建(武)諸隅命は先代旧事本紀が矢田部造の祖で崇神六十年の秋『武日照命が天より将ち来たれる神宝が出雲大神の宮に納められているらしいが、見てみたい』との帝の希望を叶えるため、出雲への使者となった武人です。

葛比売とソツヒコ
「武内宿禰大臣」の妻となって「葛城襲津比古」を生んだとされる「葛比売(カズヒメ)」

少彦名命を源とした天孫氏族である葛城国造家に、大王妃および葛城襲津彦の妻の「実家」だったとする根強い伝承があった。

蘇我馬子 が葛城は蘇我氏の本拠という。「推古三十二年冬十月、時の推古帝に対し、葛城縣は、元、臣が本居なり。故、その縣によりて姓名をなせり。これを以て、願わくは、常にその縣を得て、臣が封縣とせんと願う。」皇極元年に蘇我蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立て」たいう。

剣根命の後裔:『新撰姓氏録』より
大和国神別 葛木忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
河内国神別 葛木直  高御魂命五世孫剣根命之後也
和泉国神別 荒田直  高御魂命五世孫剣根命之後也
未定雑姓左京右京 大辛 天押立命四世孫劒根命之後也
(未定雑姓摂津国 葛城直 天神立命之後也)

建内宿禰の子に葛城の長江の曽都毘古
『古事記』孝元天皇記に「建内宿禰の子に葛城の長江の曽都毘古」と出て来ます。実在の人物のように記されているのは、多分『百済記』に沙至比跪と云う人物のお話があり、『日本書紀』では同一人物として紹介されているからでしょう。葛城の長江の曽都毘古の長江は長柄のことで、姫宮と呼ばれた長柄神社が鎮座する地です。葛城山麓沿いの名柄街道と水越街道が交差する、古来よりの交通の要所に当たります。葛城の雄、曽都毘古の拠点とするのには相応しい立地と言えるのでしょう。
『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曽津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのさし)を攻め落として捕虜を連れ還った。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。
場所探しですが、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。

河内国志紀郡 志紀長吉神社
古事記・孝元記に
「孝元天皇の孫・タケウチスクネの子并せて九(ココノ・男七・女二)たり。・・・次に葛城長江曽都毘古(カツラギノナガエノソツヒコ)は玉手臣・的臣(イクハのオミ)・生江臣・安芸那臣等(アキナのオミ)の祖なり」
とある。大和国の葛城地方を本拠とする葛城氏が河内国に属する当地に係わることについて、大阪市史(1988)には
「葛木長江曽都毘古の“長江”とは大和川を意味し、ソツヒコは本拠の葛城の地から大和川に沿って大阪平野に進出し、長江襲津彦と呼ばれ、河内政権(応神・仁徳)とともに大和川を支配して、河内王権の大きな支えになったと解される」とあり、葛城氏が旧大和川を通じて河内に進出していたと推測している。

また新撰姓氏禄(815)・河内国皇別氏族にも、
「山口朝臣・林朝臣  武内宿禰之後也」
「的臣・塩屋連・小家連・原井連  武内宿禰男葛木曽都比子命之後也」
と、武内宿禰に連なる氏族の名が記されている。
河内国志紀郡 志紀長吉神社の由緒に「長江襲津彦命は、第8代孝元天皇の孫に当たり、武内宿禰の6番目の子供として生まれた。神功皇后の摂政時から応神・仁徳に仕え、政治軍事に参与し、誠の心で国に貢献された。晩年に幽宮を長吉の里に定められ、二百余歳をもって静かにお隠れになり、この里の守り神また軍神長寿の神として神霊幸い永久に鎮座することになった」

葛城の垂水宿禰と建豊波豆羅和気(開化天皇子)
『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、<つちへんがない「壇」の右に「鳥」>比売(ワシヒメ)を娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」
門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古、丹波の竹野別、稲羽の忍海部の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。

葛城の笛吹連
葛木坐火雷神社(笛吹神社) 葛城市新庄町笛吹
祭神 火雷大神、天香山命
配祀神 大日貴尊、高皇産靈尊、天津彦火瓊瓊杵尊、伊古比都幣命
摂社 春日神、稲荷神、熊野神、梅室神、満開神 等
創建は詳かでない相当な古社である。大和国忍海郡の式内社二座に比定される。
神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。
このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わしてこれを討滅された。
一方、大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。
天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。この夜天皇の夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社に祀ったと伝えられている。
笛吹連は火明命の児天香山命之後也とされる。詳しい所伝はないが、雅楽か遊部に関係のあった氏族とされる。 また、天香山命は別名を高倉下と云うが、今東光著『毒舌日本史』によると、この神の足跡には薬草が多いそうである。葛城山は薬草が多かったと云う。
火雷神社は延喜式の宮内省大膳職坐三坐の一つを始め山城国乙訓郡、大和国宇智郡、上野国那波郡に鎮座する。水神、火神を祀る神社であったと推定される。当社を笛吹神社とも言うのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。

葛城の高額比賣命、神功皇后の母
『古事記』では、清日子(天之日矛の末裔)は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。履中、反正、允恭の3名の天皇の祖父応神天皇が、葛城を冠した女性の生んだ子から生まれていることを意味する。

『古事記』に
(天之日矛が)多遅麻(但馬)の俣尾(マタオ)の娘前津見(マエツミ。サキツミとも)を娶して生める子、多遅摩母呂須玖(タジマモロスク)。此の子、多遅摩斐泥(タジマヒネ)。此の子、多遅摩比那良岐(タジマヒラナキ)。此の子、多遅摩毛理(タジマモリ)。次に多遅摩比多訶(タジマヒタカ)。次に清日子(キヨヒコ)。
この清日子、當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶して、生める子、須鹿之諸男(スガノモロオ)。次に妹菅竃由良度美(スガカマユラドミ)。
上に伝える多遅摩比多訶、その姪、由良度美を娶して、生める子、葛城の高額比売命(タカヌカヒメノミコト)。此は息長帯比売命の御祖なり」

馬見古墳群と葛城襲津彦、讃岐神社
馬見古墳群の域内にある宮山古墳の被葬者は、第12代景行天皇(在位:71〜130年)から第16代仁徳天皇(在位:313〜399年)まで5朝に仕え、偉功があった「武内宿禰」そして川合大塚山古墳は新羅遠征で活躍した武内宿禰の子「葛城襲津彦」と推定されている。
宮山古墳は、全長約240mで墳丘が三段築造の巨大な前方後円墳であり、全国第17位にランキングされている5世紀中期(造り出し付)の古墳。埋葬構造は竪穴式石室で凝灰岩(竜山石)組合式長持ち石棺を墓壙にすえた後、石棺の側壁の中程まで土を埋め、その上に緑泥片岩の割石を小口積みにして石室を構築している。
讃岐神社が将に葛城氏の奥津城である馬見古墳群の中心にあり、讃岐神社は馬見古墳群最大の巣山古墳の傍らに位置する。讃岐神社の祭神であり、巣山古墳の被葬者が“讃”と呼ばれた葛城氏の王であるという仮説を裏付ける。
馬見古墳群は、奈良県北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群、中群、南群の三群からなる県下でも有数の古墳群。4世紀末から6世紀にかけて造営されたと見られる。
古代豪族・葛城氏の墓域とみる説がある。この葛城地域には、古墳時代前期の中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から中期には、墳丘長200mを超える規模の古墳が造営されている。

      ●播磨の国風土記の記載によると、崩御され仲哀天皇のために神功皇后とともに石棺材を求めた石作連大来は讃岐国の羽若石(鷲ノ石)を求めたが結局、美保山(伊保山)の竜山にたどりついた。

 

      ●畿内では古墳時代前期、長大なコウヤマキ丸太を刳り抜いた割竹形木棺が普遍的だが讃岐では前期後葉に火山石や鷲ノ山石という安山岩を刳り抜いた石棺が開発され、河内の大王墓にも採用された。

 

      ●中期に開発された長持形石棺では鷲ノ山石ではなく、高砂市周辺で産する竜山石が使われ後期の横穴式石室の家形石棺では、播磨、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がった。

 

    ●鷲ノ山近くの綾川町の羽床は風土記の説話の羽若に通じること、竜山石の開発にヤマト王権の濃な関与があったことなどから、讃岐の石工集団が高砂の地に移ったのではなかろうか。

葛城荒田彦と葛城襲津彦
葛城荒田彦 …… 古墳時代の伝説上の人。国造。娘の葛比売は神別葛城氏の葛城襲津彦の母。
葛城磐村 …… 古墳時代の人。娘の広子は用明天皇の嬪となった
ソツヒコの娘に仁徳天皇の皇后・イワノヒメがある。
イワノヒメは、自分の留守中に、仁徳が他の女性を宮中に入れたことに怒って葛城の実家に帰ってしまい、詫びにきた仁徳にも逢わず、葛城で亡くなったとの伝承がある。仁徳の頃の葛城氏は、皇后を出し、その皇后が天皇の不貞に怒って帰ってしまっても咎められなかったほどの勢力があったことを示す伝承だが、そんな葛城氏も仁徳から5代後の雄略天皇期には没落している。

葛城の一言主神
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

奈良県御所市森脇にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
「いちごんさん」や「いちこんじさん」と通称される。葛城山東麓に東面して鎮座する。

調田坐一事尼古神社
祭神 一事尼古大神 事代主大神
御由緒
創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳に記され古く奈良朝以前から祀られた由緒のある式内大社で近郷村民の崇敬神社として厚い信仰を集めています。
一事尼古大神の尼古とは高貴な男神を示し、古来一つの願いごとなら必ずかなえてもらえる一願成就の神様として崇敬されています。事代主大神は農耕の発展をはじめ、商工業の守護神、厄除開運、学業成就に御神徳厚い神様です。

『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文
土佐の高賀茂大社(現・土佐神社)祭神は一言主尊であるが一説には味耜高彦根尊であると記される。文献上では一言主神と高鴨神(味耜高彦根命:高鴨神社祭神)との間で所伝に混乱が見られる。そのほかに音の類似や託宣神という性格から、一言主神を事代主命と同一視する説もある。