英彦山、天忍穂耳

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命

天忍骨尊は天忍穂耳尊とも書き、三重県伊勢神宮に祀られる天照大神の御子であり、英彦山神宮の御祭神である

 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。 早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、 その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、 田川と呼ぶようになったという。

 ところがその後、天忍骨尊(吾勝命)が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、 八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。
 後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。 勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。
 神様が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山にも天降っている。宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、 宇佐(大分県)に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田町との境にある日王山(日尾山)に、宇佐から宗像に向う途中天降り母神天照大神を祭ったという話がある。
 今の赤村と津野一帯を昔は吾勝野と呼んでいたという。その由来は、吾勝尊(天忍骨尊)が岩石山に天降ったことから、岩石山は吾勝野と呼ばれていたし、 その東側の今川流域は吾勝野の名であったという。それが、景行天皇が熊襲を討つときこの山頂に登り、神々を祭って東側を見下し、「この山麓は豊かな土地であるが、 南北に連なって細長いので二つの村にしたがよい」との言葉からアカツノが分かれてアカ村とツノ村になったという。
<添田町HPより>