綿津見神は阿曇氏、三女神は宗像氏

下記の記述は、正しいでしょうか?

阿曇氏が大王家に登用されたのは宗像氏を押さえるためで、応神(在位:270年~310年)三年に海人族(海部=あまべ)を統括することになりました。そして東方の内陸に進んだ阿曇一族は八世紀後半まで栄えて、近江や山城、尾張や信濃にまで勢力を拡げて、渥美・安積・安曇川・安曇野などの地名を残しています。
 しかし五世紀初め頃に、中央での海人族の統率権は大海(凡海)氏に移されました。大海氏は安曇氏から分かれた同族で、いずれも尾張氏の流れを汲む一族でした。
 尾張氏は継体大王以前から、大王家と密接な関係を持っていた豪族だと考えられています。本貫(出身地)はその名が示す通り尾張(愛知県)ですが、古くから葛城地方に進出しており、高尾張の地名を残しています。
 その祖については、別伝もありますが、天火明命(あめのほあかりのみこと)の子の天香語山命(あめのかごやまのみこと)です。ホアカリはアマテラスの孫(天孫)の弟で安曇氏の祖になり、さらにその六世孫が大海氏の祖になっています。
 『海部氏本紀』によれば、建諸隅(たけもろすみ)命の妹に「大海姫命」の名があり、『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)(以下『旧事本紀』とする)によれば、その別名を「葛木高名命」としています。
 『旧事本紀』は平安初期に物部系の人物によって記されたものと考えられており、中世まで『記・紀』と共に尊重されましたが、中臣神道に反する記述や他氏族の系譜に多くの誤りがあるために信用されなくなりました。しかし古い資料という点では、無視できない史料です。
 そして物部氏の系統になる第10代崇神大王(在位:前97年~前29年)の妃に、「尾張大海媛」の名があり、『記』はその婚姻を「尾張連の祖、意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶(め)して」としています。だからいずれにしても、大海人皇子を養育した大海氏は大王家系の海人族だったわけです。

淡路島は、北が阿曇系で南が宗像と付き合いがあったようです。

宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。

綿津見

本拠地は、志賀海か
志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿祢社などがあり、粕屋郡にあたる。
「粕屋郡:かすやぐん」
 粕屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。古代~現在の郡名。

「古代」『和名類聚抄』の郷は香椎、志珂、厨戸、大村、池田、阿曇:あづみ、柞原、勢門:せと、敷梨の九郷。
式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、古来祭神は神功皇后とされ、新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣使が派遣された。

「志賀海神社」
祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。
海の中道から志賀島へ渡った入口にある集落の奥まった山手に位置する。付近には縄文時代の遺跡も存在し、当地は古来北九州の海上一帯を中心に海人を支配し、全国的に活動の跡がみられる阿曇氏の本拠地でもある。

志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す

仁位浦の西岸に、式内社の和多都美神社に比定される和多都美神社

祭神の綿津見三神は、「ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神 (万葉集1230)」の歌で有名なように、尊称して「志賀の皇神(すめがみ)」と呼ばれた。学者は皇祖神のことではなく、阿曇氏が勝手に尊称したのだとするが、天孫族と濃密な血縁関係を見れば、皇祖神としても充分頷ける名称であろう。
また、この「金の岬」は福岡県宗像郡玄海町金崎の東北端、「鐘の岬」のことで、「志賀の皇神」の神威が宗像郡にまで及んでいたことになり、宗像氏との友好で濃密な関係が窺える。

「鹿見:ししみ(上県町)」
鹿見湾は韓神崎の内側に北向に閉口した良港で、西海岸屈指の泊地として知られる。

鹿見湾は韓神崎の内側に北向に閉口した良港で、西海岸屈指の泊地として知られる。

志賀海神社:龍之都(志賀島の神々)、海神の総本社
古来、綿津見三神を奉斎してきた神裔「阿曇族」は、志賀島を一大拠点とし、国内・大陸との交易を広く行い、藻、塩と海産物を生産し交易している。  
往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で奉斎されており、
三韓遠征の折、舟師を率い御舟を導き守り給うた阿曇磯良丸をして、表津宮を当地の勝山の麓に遷座したと伝えられている。
摂社
沖津宮 (表津綿津神・天御中主神)、仲津宮(仲津綿津神)
今宮神社(宇都日金析命・阿曇磯良丸はじめ神孫阿曇諸神)
大嶽神社(志那都比古神・志那都比売神・大濱宿禰・保食神)

その交易の足跡が対馬、兵庫、長野県安曇野市穂高、石川県志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など「しか」「あつみ」と称した地名に多く見られる。

千国街道を南下し、安曇野に
”安曇野は本来小谷から始って佐野坂峠、仁科三湖を経て、大町、池田松川までを北安曇郡といい、 有明、穂高、豊科(現安曇野市)を南安曇郡として行政区分されているが佐野坂峠を越えて白馬、 小谷(おたり)までを安曇野という訳である。このルートを日本海の糸魚川まで千国街道が縦断して いて塩尻に至る。この街道は塩の道として有名・・・・持ち込んだ殖産は生糸と水銀や製鉄の技術・・・”

奴国 2011/1/23(日) http://blogs.yahoo.co.jp/silverhair1950/61978424.html

ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牡鹿の須蕒神

名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道(細川 幽斎)

和多都見神社
長崎県下県郡豊玉町仁井字和宮
(祭神)彦火火出見尊、豊玉姫命

「延喜式」神名帳 對馬嶋 下縣郡 和多都見神社:名神大「ワタツミノ」
上古海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り玉ひ、御子に一男二女ありて、一男を穂高見命と申し、二女を豊玉姫命・玉依姫命と申す。

豊玉姫の山陵及び豊玉彦の墳墓あり。

上代の海宮とは対馬をいい、当社はその海宮の神跡である。延喜式神名帳所載の和多都美名神大は当社のことである。

海神神社(峰町木坂<わだずみ神社>)祭神 彦瀲武鸕鷀草葺不合尊

海の中道製塩遺跡は製塩・漁業を中心とする志賀海人の集落跡。

神武天皇ー彦火火出見、手研耳命、岐須美々命、神八井耳命、 研耳命 、彦八井耳命、綏靖天皇(神渟名川耳)

安曇族は、ミ・ミミ族である。

淡路島
『古事記』では、「その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」とあり、突然に琵琶湖の多賀大社付近に幽れたように出るのだが、どうも幽宮は淡路島のことのようだ。岩屋に岩楠神社が鎮座、当社の摂社で、伊弉諾神の幽宮の伝承を持つ。

垂水の海神社
 神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。

 又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)は彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)に嫁がれて、皇室の親である鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)をお産みになりました

 また、当社西方約550mの所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、成立は二世紀末から五世紀初めとされ、瀬戸内海の海上航路の重要地である明石海峡大橋を望む高台に造られています。

阿曇連の失脚
紀の履中天皇条

書紀の履中記には、阿曇連浜子が淡路の野嶋の海人といっしょに 住吉仲皇子の反乱に加担したという話が出てくる。
”阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)を召していわれた。
お前は仲皇子と共に反逆を謀って、国家を傾けようとした。死罪に当 たる。しかし大恩 を垂れて、「死を免し墨(ひたひきざむつみ)に科すとのたまいて、即日に黥(めさきき ざ)む」とある。
 死を免じて顔に入墨の刑とする、として、その日に目の縁に入墨をした。 時の人はそ れを阿曇目(あずみめ)といった。”

宗像

『新撰姓氏録』によると、
・宗形朝臣は大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也とあります
・宗形君は大国主命六世孫吾田片隅命之後也とあります
・賀茂朝臣大神朝臣同祖、大国主神之後也、大田田祢古命孫大賀茂都美命[一名大賀茂足尼。]奉斎賀茂神社也

宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。全国の弁天様の総本宮ともいえる。裏伊勢と称される。
3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像三神)と総称する。

沖津宮(おきつぐう) : 田心姫神
中津宮(なかつぐう) : 湍津姫神
辺津宮(へつぐう) : 市杵島姫神

伝えられる伝承では日本神話に起源を持つという。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神ということになっていて、彼女達は天照の勅命を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったのが起源とされている。

宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、元は水潟であったとする説もある。古くから海の神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれる

大化の改新(645年)によって国郡の制が敷かれると、宗像一郡が神領として与えられ、豪族宗像氏が神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司ることになった。在地豪族の胸肩君(’むなかたのきみ’宗方氏)の由緒を記した石碑によれば、宗像氏の当主が二代にわたって中国宗の商人の娘を正妻に迎えている。また胸肩君徳善(とくぜん)は娘の尼子姫を天武天皇の後宮に入れ、白雉5年(654年)に二人の間に生まれた高市御子は壬申の乱(672年)で父を助けて大勝利し、後に太政大臣に任ぜられる。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、兵庫県洲本市に鎮座する神社。
祭神の市杵島姫命が弁才天と習合していたため、現在でも「淡路島弁財天」として親しまれている

これは奥津宮に坐す多紀理比売命は大国主命と結婚して、 阿遅鋤高日子根神と妹神高比売命の二神を生んだと書かれている

出雲系の事代主を祀る神社や市杵島姫神を祀る神社は全国多い。
宗像三女神の一人と結婚した経緯がある。かならずしも宗像系とは言えない。

市杵島神社 – 全国各地
関川神社 – 愛知県豊川市赤坂町関川神社鎮座
八百富神社 – 愛知県蒲郡市竹島町鎮座
都久夫須麻神社 – 滋賀県長浜市竹生島鎮座
岩戸神社 – 大阪府八尾市大字教興寺鎮座
氷室神社 (神戸市) – 兵庫県神戸市兵庫区氷室鎮座
四宮神社 (神戸市) – 兵庫県神戸市中央区中山手通鎮座 生田裔神八社の1社
丹生官省符神社 – 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院鎮座

傀儡 クグツ

木の神、木霊を記紀は久久能智・句句廼馳と記し、どちらもククノチと訓んだ。 ククノチがクグツに転じ、人形使いを傀儡師という。

スサノオは植林し樹の利用を教えた。また大屋毘古神の渡った地は木(紀伊)国 という。木の匠は何故か猪那部と呼ばれ、家屋よりまず造船の匠として現れる。 古墳に納めた舟形木棺なども彼等の所業であろう。舟とは実用の舟ばかりでな く、まず神や霊、魂の入れ物であった。

安曇磯良丸は磯良舞として宇佐八幡に伝えられて八幡神社のネットワークにの って岩清水八幡に伝わった。宇佐では八幡の摂社とされ、大分県中津市の古要 神社には磯良舞に使う人形を蔵しているという。

古要または古表の舞は細男舞クワシオマイと云われ、元は海人安曇族の神舞であった。

記紀神話は例の海幸彦を隼人阿多君の祖とし、阿多隼人は隼人族の一部であり、薩摩・大隅・日向隼 人などは『日本書紀』が撰上された後も盛んに叛乱したことが『続日本紀』の 記事をたどると解る。

『常陸国風土記』にも、遠くはなれた肥前国 の杵島の歌舞いで誘い出して征伐した話がある。肥前国は志賀島の目と鼻の先 にある安曇族に他ならず、彼等の足跡が常陸国鹿島に及んでいたと言える。

服属した隼人族は宮中で、服属儀礼としての隼人舞を舞う。阿多隼人の祖の海 幸彦は弟の山幸彦に負けて「著犢鼻(たふさぎ=ふんどし) して、赭(そほに)を以て掌に塗り、 面に塗りて、その弟に告して曰く。吾、身を汚すこと此の如し。永に汝の俳優 者(わざおぎ)たらむ。すなわち足を挙げて踏み行て、其の溺れ苦しびし状を真似 る」と『日本書紀』にある。この部分は隼人舞の仕草と注釈されているが、そ れは上に触れた経過に照らしてみれば安曇の磯良舞でもあったろう。赭とは単 に俳優として化粧する赤土ではなく、海人族特有の黥面文身つまり刺青であっ たはずだ。そして褌締めて足踏みするのは相撲の力士の仕草で、事実、細男舞 のなかに相撲神事もまたある。これら一連の仕草を五来重は芸能以前の神人同 体の神態とみなした。(『芸能の起源』角川書店刊)