紀氏、日前神、国懸神

『日本書紀』巻一第七段一書第一

天照大神は天の岩屋に入り、磐戸を閉じたので、天下が真っ暗になった。そこで思兼神の智恵で、大神の像を映すものを造って招き出すことになった。そこで石凝姥を工として、天香山の金を採って、日矛を造らせた。
また鹿の皮を丸剥ぎにして鞴を造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。

『日本書紀』巻一第八段一書第五

素盞嗚尊の子の五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

『古語拾遺』

思兼神の議に従ひて、石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合はず。(是、紀伊国の日前神なり。)次度に鋳たるは、其の状美麗し。(是、伊勢大神なり。)

西宮一民氏の注では、日前国懸神宮は東西に社地を分けており、東に国懸神宮、西に日前神宮、これは東に出る太陽と西に沈む太陽を象徴しているとし、さらに東の伊勢と西の日前を対応させているつもり、と指摘されている。
 

『先代旧事本紀』

「神代本紀」 天金山の銅を鋳造して日矛を造ったがこの鏡は少々不出来だったので紀伊国に坐す日前神とした。別に鏡を造り伊勢の神とした。
「国造本紀」 神武朝に神皇産霊命の五世孫の天道根命に、木ノ国造を賜う。
 
矛の形の鏡とは。
ここでは「日矛」が日前神と見なしている。日矛とは矛なのか日矛に鏡をぶら下げたものか、意見は分かれている。

『令集解』養老七年 806
太政官符により、名草郡が日前國懸神宮の神都になる。伊太祁曽神社の立場がない。

伊勢神宮の場合は多気郡度会郡、杵築大社は出雲国意宇郡、などが同じように神都とされている。
 

『新抄格勅符抄』大同元年 806
日前宮 五十六戸、国懸宮 六十戸 神封を寄せられた。伊太祁曽神は五十四戸。伊勢は一千百三十戸

この時点では、国懸宮が日前宮よりも手厚く遇されている。
都麻都比賣神 十三戸、大屋津比賣神 七戸 である。
 

『釈日本紀』に引く『大同元年大神宮本紀』大同元年 806年
崇神朝の頃、天照大神の住むべき良き国をもとめて、豊次比売命がおお神を奉じ、廻国し、木の国奈久佐(名草)浜宮に三年留まった。
  浜宮は天照大神、天懸大神、国懸大神を祭る。

崇神紀に御殿から出した天照大神を豊鋤入姫命に託して、大和の笠縫邑に祀ったとある。

『釈日本紀』に引く『大倭本紀』

崇神天皇が代々奉斎して来た宝物に斎鏡三面と子鈴一合があった。一鏡は天照大神の御霊で天懸大神、一鏡は天照大神の前御霊で国懸大神とし、紀伊国名草宮で拝祭する大神である。

天照大神の前御霊とは何か、が色々考えられている。天照大神より先に降臨している日神とされる天照御魂神であるとか、神武天皇より先に大和に入った饒速日尊であるとか、「前」を時間ととらえる考え方が多いようだ。日の前を祀ることは日を祀ることと同意である。
飛鳥には東漢(やまとのあや)氏の住処を檜隈(ひのくま)と言っていた。紀氏と東漢氏との関連については?

『日本書紀』巻第十四 雄略天皇

 小鹿火宿禰は、紀小弓宿禰の喪のためにやってきたが、ひとり角国(周防国都濃)に留まった。倭子連をして、八咫鏡を大伴大連にたてまつって、願い申させて「手前は紀郷と共に帝に仕えることは堪えられません。それでどうか角国に留まらせて頂きたい。」と言った。大連はは天皇申し上げ、彼は角国に留まることになった。角臣となった。
 

八咫鏡

紀小弓宿禰は有能で人望篤い将軍であったようだが、韓国で病死した。これを聞いた子の紀大磐宿禰は新羅に行き、小鹿火宿禰の兵馬、船官と諸の小官を取って、自分勝手にふるまった。小鹿火宿禰は深く紀大磐宿禰を憎んだとの記事が先にあり、紀大磐宿禰とは共に働きたくはないとの事である。

 『古代史の新論点』前田晴人氏
「大伴大連が預かった八咫鏡は天皇に差し出され、紀小弓宿禰の一族に戻されたのではないか、されにそれが太陽神の象徴として日前宮に祀られた。」と推定されている。

紀小弓宿禰は淡輪邑に葬られたが、鏡は埋納されている可能性もあろう。しかしわざわざ八咫鏡のことが記録されているのは紀臣が祀った日前宮の御神体の謂われをさりげなく書き残したのかも知れない。紀朝臣清人によって。

『日本書紀』巻一第八段一書第四

五十猛神は天降の時に、多くの樹種を持って下った。けれども韓地には植えず、持ち帰って、筑紫から始めて大八洲の国の中へ播き増やして、全部青山とされた。このため五十猛命を有功(イサオシ)の神と称した。紀伊國に坐す大神とはこの神である。
 

『日本書紀』天武朝 持統朝

天武朝朱鳥元年(686) 紀伊国国懸神、飛鳥の四社、住吉大社に奉幣。天武の病気回復。

持統朝六年(692)三月 持統天皇、伊勢行幸を強行。お通りになる神郡(度会・多気)等の国造に冠位を賜る。

持統朝六年(692)五月 伊勢、大倭、住吉、紀伊の四ヵ所の神に幣帛をささげ、新宮のことを報告した。新益宮(藤原宮)のこと。

持統朝六年(692)閏五月 新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足に奉った。

『続日本紀』

文武天皇二年 (698) 多気大神宮を度合郡に遷した。
伊勢神宮の誕生

天武天皇が天皇家の祖神を天照大神とし、伊勢の神を天照大神とした。文武天皇が伊勢神宮を創建した。
 

『続日本紀』
大宝二年(702) 伊太祁曽、大屋津比売、都麻津比売の三神の社を分ち遷す。
何故、三神分遷が行われたのか。前年の大宝元年に文武天皇・持統上皇が紀伊の牟婁湯(白浜温泉)に行幸している。
 

『文徳実録』

嘉祥三年(850)遣左馬助從五位下紀朝臣貞守。向紀伊國日前國懸大神社。 日前国懸神宮は伊勢神宮と共に神階は授けられていない。

 

『輶軒雑記』に引く「紀氏国造氏古文書」

天孫ホノニニギが天降った時、天係(あめかかす)大神と国係大神の御霊を奉じ、日向で祭っていた。これは二つの宝鏡であった。天係大神とは天照大神の御魂であり、伊勢の磯宮にまつられ、国係大神は、その前霊(さきみたま)で、紀伊の名草の宮で祭られている。

御舟山は二つの山からなり二艘の舟と見なされ、一艘は西向の出船の形、一艘は北向。日神である日前大神が舟に乗って西方より来臨し、舟が山に変じた。

『住吉大社神代紀』には、「膽駒山に日神を運んだ木舟と石舟を置いている。」とある。日前国懸神宮の東の御舟山にも同様な伝承がある。

天孫は複数の鏡を祀っていたと思われていた。伊勢神宮、日前国懸神宮など複数の神社が天照大神を祭神としていることからも頷ける。

御舟山は日前国懸神宮の神体山である。紀氏の古墳が多く造られている。山に二艘の舟があると思われていたのは日神は船に乗って来臨したとの伝承があったからだろう。太陽神を船に乗せて運ぶのは『住吉大社神代記』では、船木氏の役割としている。

『紀伊国造職補任考』に引く『紀国造系譜』

 神武東征時、紀伊国造の祖の天道根命は二種の神宝を託され、名草郡毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に安置し、奉斎した。
岩上祭祀は古い日神祭祀

 天道根命が紀国の国造であるとは『先代旧事本紀』の「国造本紀」にも記載されている。また物部の遠祖の饒速日尊の降臨の際、防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る神々の中にも出ている。
 

『日前国懸両神宮本紀大略』

『紀国造系譜』より詳しく書かれている。天道根命は淡路国御原の山に葦毛の馬に乗り天降り、それから名草郡加太浦に到り、更に木本、更に毛見郷に到ったと言う。
 
加太は神田、最後は大田におさまる

加太浦・木本に到ったというのが興味深い。

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倭宿禰命は珍彦(うずひこ)とも呼ばれているが 『古事記』によれば、第八代孝元天皇の孫である武内宿禰は、 武内宿禰の母は珍彦(うずひこ)の娘の 山下影日売(やましたかげひめ)とある。 つまり武内宿禰の母方の祖父が珍彦ということに …

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