筑紫物部、磐井

雄略天皇八年(464年)二月
雄略天皇が位に着かれてから、この年に至るまで、新羅がそむいて貢ぎを奉らないこと八年に及んだ。新羅は高句麗に近づくが、だまされる。

『高句麗の王が我が国を討とうとしている。今や新羅はつるされた軍旗のように高句麗によって思いのまま打ち振られ、国が危ういことは積み重ねた卵の様です。このさき私どもの命の長さ短さは考えることも出来ません。伏して、救援を日本府の将軍にお願いしたい』

475年に高句麗によって北百済(漢城百済)が滅ぼされます
(南百済=熊津百済は660年、唐-新羅連合軍によって滅ぼされるまで残存)。
475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す
百済王権が、475年、崩壊すると、高霊を中心に加羅諸国は 「大加耶連盟(加耶国)」 の結成を試み、479年、加羅王:荷知 は南斉に遣使した。
雄略二十一年(四七七)百済が高麗に攻められて都を熊津に移す。
顕宗三年(四八七)二月 阿閉臣事代が任那に行く

阿閉臣事代銜レ命、出二使于任那一於レ是、月神著レ人謂之曰、我祖高皇産霊、有レ預下鎔二造天地一之功上。宜下以二民地一、奉中我月神上。若依レ請献レ我、当福慶。事代由レ是、還レ京具奏。奉以二歌荒樔田一。歌荒樔田、在山瀬国葛野郡也壹伎県主先祖押見宿禰侍レ祠。

継体三年(五〇九)二月 任那の日本県邑

「在任那日本県邑百済百姓」という語が見える。これも百済から移住してきた百姓のいる「日本県邑」ということであるから、高霊伽耶がふさわしく、いわば「移民地区」の様なものがあったかと思わせる。それと前に示した「任那国司」とはおそらく関係があるのであろう。

継体六年(五一二)十二月 百済が哆唎国守穂積押山に働きかけ4県合併を願う

6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
百済が任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を自分の国に併合する様、哆唎国守穂積臣押山に働きかけて日本の天皇に申し入れてきて大伴金村も同調し、物部大連麁鹿火を以って勅宣を使者に下そう(つまり許可しよう)とした。これに対して物部大連の妻がいさめて、

夫住吉大神、初以二海表金銀之国、高麗・百済・新羅・任那等一、授二記胎中譽田天皇一。故大后息長足姫尊、与二大臣武内宿祢一、毎レ国初置二官家一、為二海表之蕃屏一、其来尚矣。

ゆえにその地を百済に譲ってはならぬと言ったとある。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った

翌年(五一三)百済はさらに、己汶・滞沙の地を要求し、認められる。
継体二十一年(五二七)近江毛野臣が六万の兵を率いて「任那」に
近江毛野臣が六万の兵を率いて「任那」に往き、新羅に破られた「南加羅<ありひしのから>、喙己呑<とくことん>」を復興し任那に合併しようとした。ところが筑紫の国造磐井が叛乱を起して毛野臣は進むことができなかったので天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人等を遣すことになった。この大伴金村・物部麁鹿火は親百済派である。

継体天皇は自らマサカリを取って大連に授けて『長門ながと(山口県)より東は朕が支配する。筑紫より西は汝が支配せよ。賞罰は汝にまかせる。しきりに、そのことを奏上する事に煩わされることはない』と言った。

22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。

23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。

加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。
4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。

『欽明紀』「二年秋七月」に、
継体天皇二十三年(五二九)に日本の政府は「己能末多」を「任那」に送り、あわせて「任那」にある近江毛野臣に詔したとあるから、この任那はおそらく高霊加耶をさしており、ここを拠点として「金官伽耶」など三国の復興を計ろうとしたのである。しかし新羅は上臣伊叱夫礼智干岐を遣して3千の兵をもって毛野臣を威圧せんとしたので、毛野臣は会おうとしなかった。新羅の上臣は、金官・背伐・安多・委陀(一本に,多多羅・須那羅・和多・費智の四村という)を抄掠してことごとく人間をつれ去って新羅に帰った。とく

日本は近江の毛野臣を半島に派遣したのであるが、それは南韓の南加羅・★(左:口/右:碌のつくり)己呑・卓淳を再建するためであった。ということはおそらくこの三国は再度の新羅の蹂躙にあって、ほとんど壊滅的打撃を受けていたからであろう。(実際に金官国が消滅したのは新羅法興王一九年(五三二)のことである)

24年〔530〕9月、任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」

530 継体24 毛野、失政。帰国命令に従わず、安羅王を連れて籠城。王、百済・新羅に引出を依頼。安羅王は百済に安羅への侵攻の口実を与えてしい、結局、安羅は新羅・百済により蹂躙された。

531 継体25 近江毛野 帰国途上対馬で病死。
継体二十五年二月 継体天皇が亡くなる。3年の謎かけ

501年から554年の間、百済と高句麗は13回交戦した(慢性的な戦争状態)。

物部麁鹿火について
『日本書紀』の武烈即位前紀に大連として初めて名が現れる。
父は物部麻佐良、母は須羽直(すわのあたい)女・妹古。子に石弓若子・毛等若子(もとわくご)・影姫がいる。
武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられる。

継体天皇6年(512年)12月、
百済へ任那四県の割譲。麁鹿火は百済の使者に割譲の容認を伝える宣勅使となるが、妻からの諫めにより考えを改め、病と称してその役を辞退する。
同21年(527年)6月
九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任された。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定した。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務める
宣化天皇元年(536年)7月に没する。
『新撰姓氏録』によると後裔に高岳首ら氏族がいる。

筑紫の君、磐井について

磐井(いわい、生年不詳 – 継体天皇22年(528年?)または筑紫 磐井は、6世紀前半(古墳時代後期)の豪族。カバネは君。

『日本書紀』では「筑紫国造磐井」、『古事記』では「竺紫君石井」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と表記される。このうち『日本書紀』の記す「筑紫国造」は、後世の潤色と見られる。Wikipediaより

とある。
『日本書紀』によれば
継体21年(527年?)6月3日条
近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑を再興して任那を合併しようとした。これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
継体天皇22年(528年?)11月11日条
磐井は筑紫御井郡(現在の福岡県三井郡の大部分と久留米市中央部)において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。そして同年12月、磐井の子の筑紫君葛子は死罪を免れるため糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区)を朝廷に献じたという。

『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)
上妻県(かみつやめのあがた:現在の福岡県八女郡東北部)の役所の南2里(約1キロメートル)に筑紫君磐井の墓があるとする。その墓について詳述した後で古老の伝えとして、雄大迹天皇(継体天皇)の御世に磐井は強い勢力を有して生前に墓を作ったが、俄に官軍が進発し攻めようとしたため、勝ち目のないことを悟って豊前国上膳県(上毛郡:現在の福岡県築上郡南部)へ逃げて身を隠した。そしてこれに怒った官軍は石人・石馬を壊したという。

磐井の墓
現在では福岡県八女市吉田の岩戸山古墳(位置)に比定される。この岩戸山古墳は墳丘長135メートルの前方後円墳で、北部九州では最大である。
磐井の墓は、『筑後国風土記』逸文に詳述されている。これによれば、墓は高さ7丈(約20メートル)、周囲60丈(約180メートル)で、墓域は南辺・北辺各60丈、東辺・西辺各40丈(約120メートル)。また石人・石盾各60枚があり、交互に陣をなして墓の周囲に巡らされた。さらに東北の角には「衙頭(がとう)」と称する別区を設け、衙頭の中には「解部(ときべ)」という悠然と立つ人物1人と、裸体で大地に伏す「偸人(ぬすびと)」があった。