筑紫の君、磐井

武寧王は王墓の墓誌石によると在位二十三年に六十二才で死去したという。生誕は461年と言うことで、書紀の記事とあっている。書紀によれば501年39歳の時王として即位するために百済に倭国から戻った。

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争

『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がない。

527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。

同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

葛子の弟は、鞍橋の君という弓の名手で、日本書紀によると百済支援のヤマト軍に参加して、聖明王の子を救出するという手柄をたてており、その根拠地は鞍手町の新北熱田神社であったようだ。
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朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、
磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、
むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見
など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。
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その内乱は何が原因だったのか。
欽明天皇2年(541)秋7月条に

百濟聞安羅日本府與新羅通計。
同天皇5年(544)2月条に
別謂河内直、(中略)自昔迄今、唯聞汝惡。汝先祖等(中略)倶懷姧僞誘説。爲哥可君(中略)專信其言、不憂國難。乖背吾心、縱肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等來住任那、恆行不善。任那日損、職汝之由。(中略)由汝行惡、當敗任那。

さらに同年11月条に百済聖明王の言葉として

又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在任那國者、天皇雖詔建成任那、不可得也。請、移此四人、各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。

とある。これらは、日本府の吉備臣・河内直等はその先祖の代から新羅と通じていた、それが原因で任那は滅びたのだ、といっているのである。このことは継体天皇の時代、つまり九州の磐井のときに、任那諸国には新羅と通じているものがいたことを示している。そしてそれを指示していた人物が磐井だったことになる。このとき九州は倭国の時代であり、磐井が筑紫を本拠地として火・豊国を領有していたのであるから、磐井はまぎれもなく倭国の王だった。その王が新羅と通じていたということは、それは反逆ではなく倭国の政策だったのであり、反逆者はむしろ毛野臣の方だったのである。
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(継体天皇)
 3年〔509〕2月、百済に遣使した。
 6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
  7年〔513〕6月、百済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。
  8年〔514〕3月、伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。新羅を攻め村邑を略奪した。
  9年〔515〕2月、百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。4月、物部連は帯沙江に泊まること6日、伴跛が軍をおこして攻めてきた。物部連らは恐れおののき、命からがら逃げ汶慕羅に泊まった。
  10年〔516〕5月、百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済が高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
  21年〔527〕6月、近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗・百済・新羅・任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
  22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
  23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
  24年〔530〕9月、任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」
  『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞乇城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。

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 倭国筑紫王朝は「倭の武王」の頃に、その絶頂期を向かえている。武王の子か孫が日本書紀にいう「筑紫君磐井」である。磐井には、葛子(くずこ)とそれ以外にも数人の子がいたようであるが、葛子はおそらく嫡出ではなかった。

 日本書紀の欽明十七年(556年)に百済本記を引用して「筑紫火君(つくしのひのきみ)は筑紫君の子、火中君(ひのなかのきみ)の弟」という。この「筑紫火君」が、磐井の乱から30年後の葛子のことである。

 また同じ百済本紀に、辛亥の歳(531年)に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事がある。これに従って日本書紀は「継体天皇の崩御の年を、531年にしたが、ある本では甲寅の歳(534年)と書いてあって、よく判らない。後の世の人が明らかにするだろう」と記している。

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 筑後の『風土記』中に、「磐井の滅亡」時の記録がある。
 (一)古老の伝へて云ふ。(A)雄大迹(おほど)の天皇の世に当りて、筑紫君磐井、豪強暴虐、皇風に偃(したが)はず。(B)生平けりし時、預(あらかじ)此の墓を造る。俄(には)かにして官軍動発し襲はんと欲する間、勢、勝たざるを知り、独り自ら遁れて豊前國上膳縣に遁(のが)れ、南山の峻嶺の曲に終る。是に於て官軍、追ひ尋ねて蹤(あと)を失ふ。士の怒り未だ泄(や)まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)す、と
 (二)古老伝へて云ふ。「上妻県、多く篤疾有りき」と。蓋し茲(これ)に由る歟(か)。

 右の文の直前には、磐井の墓墳の実態がつぎのように記されている。
筑後国風土記曰、上妻県、県の南二里、筑紫国磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈、墓田南北各六十丈、東西各四十丈。石人石盾各六十枚。交陣、行を成し、四面を周匝(しうさふ)せり。東北角に当り、一別区有り。号して衙(が)頭と曰ふ。衙頭は政所なり。其の中に一石人有り。縦容として地に立つ。号して解部(ときべ)と曰ふ。前に一人有り。裸形にして地に伏す。号して偸(とう)人と曰ふ。生きて猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。仍(よ)りて罪を決するに擬す。側(かたはら)に石猪四頭有り。臟物(ぞうもつ)と号す。臟物は盗物なり。彼の処も亦石馬三匹、石殿三間、石蔵二間有り。