竹内宿禰

古事記
孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とある

紀氏とは、紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
もうひとつは、紀の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。

山城國に紀伊郡があり、紀朝臣の拠点ともされる。紀氏は秦氏を配下とし蘇我氏に使えたが、蘇我氏の衰亡とともに衰え、その後は秦氏が栄えた。
藤森神社 紀氏の祖神を祀ると言う。現在は素盞嗚尊、武内宿禰等。京都市伏見区深草鳥居崎町609
武内宿禰が紀伊国造宇豆彦の女宇乃媛を娶り角宿禰を産む。大和国平群県紀里に家す。

香椎宮の近くには武内宿禰屋敷というのが伝わっています。また、宮地嶽神社付近にもその子孫の人の伝承が残っています。

景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。
代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀させました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で、神祇を祭祀しました。そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。  (日本書紀)

屋主忍男武雄心命は紀の国造である莵道彦(宇豆比古)の娘である山下影媛を妃とし武内宿禰を生んでいる。

母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。これは武内宿禰は九州で生まれている事を思わせる。 基山付近を根城にしていた筑紫紀氏の出身であろう。
母親とされる山下影日売を祀っている神社
福岡県宗像郡玄海町葛原神社
福岡県小郡市の竃門神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社
ヤハタの神を祀ったのは豊の国の辛島氏である。伝承では五十猛命の10代後の孫に宇豆彦が出ている。紀氏系図と概ね一致する。 その頃、和歌山にいたのは紀氏でも出雲系の方ではあるまいか。国造の紀臣の方か?

古事記
ヒコフツオシの信の命が木の国造の祖であるウヅヒコの妹、山下影姫を娶って生まれた子供は建内宿禰。

竈門神社は、かつては「玉母宮」と呼ばれていたそうです。
小郡市史誌には「高良玉垂宮の母宮・山下影姫」とあるので、「玉母」とは「玉垂宮の母」という事か?

竈門神社(玉母宮)
かまどじんじゃ
福岡県小郡市力武宮の脇
竹内宿禰の母・山下影姫の墓所
御祭神
玉依姫命(主祭)山下影姫命(副祭神)
創建  承平元年9月勧請(931年)
『寛延記』に、「玉母宮、氏神、山下影姫命の神廟也。御跡の経塚と申し伝え候」とあり、この神社の境内は大きい古墳であった。梵字を刻んだ大きな石がある

武内宿禰の父を祀る武雄神社や母の山下影姫を祀る黒尾神社

武雄神社
御由緒:創建は、武雄社本紀によれば遠く奈良時代の天平7年(735)。祭神は武内宿弥を主神とし仲哀、応神両天皇、神功皇后、武雄心命を併祀して、五社大明神とも称し、往時九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。神社に保存されている古文書218通は国の重要文化財に指定され最古のものは天暦5年(951)社領を記した「四至実検状」で佐賀県でも一番古く朝廷の実検使が送ったものであります。その他伏見天皇のご綸旨や源頼朝の御教書をはじめ平安、鎌倉、南北朝、室町時代における貴重な文献であります。

黒男神社
筑前、粕屋郡久山町の山田に黒男山という比高5、60mほどのお椀を伏せたような小山がある。「くろどんさん」と呼ばれ、麓に「黒男神社」がある。
由緒によると、この黒男神社は山田に住む阿部氏族が「武内宿禰」を祀るという。山田には阿部姓が多く、この阿部氏族は大彦命の子、武渟川別命の直系であるという。

14代仲哀天皇は熊襲征討のため九州へと下る。が、橿日宮(香椎宮)で薨去する。神功皇后は夫の仲哀天皇を弔うため、群臣百僚を率いて香椎の東、山田邑に齊宮(いつきのみや)を造営、そして在所である聖母屋敷を設けたという。
この時、皇后に従っていた武渟川別命の子孫が山田邑に在し、繁栄したと伝わる

基肄郡は武内宿禰氏族、紀氏の発祥の地であるという。のちに紀氏は紀伊で五十猛命を祀る

そして早良の神奈備、飯盛山に五十猛命を祀る古宮、飯盛神社。
この山の麓には「吉武高木遺跡(早良王墓)」。弥生時代前期末、伊都国や奴国の成立に先駆けた日本最古の「クニ」の存在がある。p
早良は和名抄の平群郷。武内宿禰氏族の平群氏の拠点である。ここでも武内宿禰氏族が五十猛命を祀る。

「紀氏家牒」逸文、武内宿祢の子餠$九。葛城国造荒田彦之女、葛比売、襲津彦宿祢を生む。家は倭国葛城県長柄里。故に、葛城長柄襲津彦宿祢の名がある。葛城朝臣・的臣等の祖なり。

葛城襲津彦が登場するのは、「日本書紀」では、五ヶ条に記載されるが、外交記事に限られる。初見は神功5年条で新羅への派遣伝承。次は神功62年条で沙至比跪の新羅出兵。次は応神紀14年条と16年条で弓月君渡来伝承。最後は仁徳41年条で、酒君渡来伝承。「古事記」では系譜記事にあるのみ。
葛城襲津彦は、平群木菟や紀角宿禰と同一記事に現れ、同世代と考えられるが、父の建内宿禰と同一記事に記されることはない。

  
葛城氏 論考 (http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-2.html) より