穂積氏

『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。
「日本書紀」によれば,日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃となった弟橘媛(おとたちばなひめ)の父。「古事記」成務天皇段に記された穂積臣(おみ)らの祖,建忍山垂根(たけおしやまたりね)と同一人とする伝承もある。

饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大 水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根 …

若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、穂積臣らの祖建忍山垂根の女、名は弟財郎女を娶して、生みませる御子、和訶奴気王。【一柱】故、建内宿斑を大臣と為たまひ、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺及大県・小県の県主を定め賜ひき。この天皇、御年玖拾伍歳。御陵は沙紀の多他那美に在り。

〔志賀高穴穗宮〕しがのたかあなほのみや。紀によれば、景行天皇の五十八年、志賀の高穴穂の宮に遷りたまい、三年の後、景行天皇が、この宮で崩ぜられている。爾来、成務天皇も仲哀天皇も、ここを皇居とされた。近江国滋賀郡坂本村穴太の地。いま、大津市に入る。宮号の「高」は尊称であろう。〔穗積臣〕ほづみのおみ。上に出ている。

成務天皇の所でもちょっと触れましたが、仲哀天皇はあのヤマトタケルの息子です。
成務には男子が誕生しなかったために傍流であったタケルの息子におはちが回ってきた
この仲哀は倭で政権を取る事はできませんでした。彼はすぐに今の福井県の敦賀というところに宮を立てています。
屯倉も倭から離れた淡路に置いています。そして福岡県の香椎に移りそこで生涯をおえることとなります。
何故彼は倭で政治を行なえなかったのでしょうか・・・?
また彼が命を落としたのは香椎ですが御陵は南大阪にあると書かれています。
(神功は奈良県)しかし福岡の香椎宮にも彼は祭られています・・・。

日本書紀
継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

古墳時代の官使・穂積押山は、継体朝に百済への使者に任命され、任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。

穂積臣押山 (ほづみのおみおしやま)

継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とある。

継体六年四月六日、百済に遣わされ、筑紫馬四十頭を賜った。
継体六年十二月、百済は任那の上タリ、下タリ、娑陀、牟婁の四県を請うたが、タリの国守の押山は、その与えることの可なることを奏し、大伴金村もその意見に同意して上奏した。よって、上表のままに四県を百済に賜った。
この後、流言があって、大伴金村と押山は百済の賄賂を受けたといわれたという。
継体七年六月、百済は姐弥文貴将軍らに押山を副えて、五経博士段楊爾を献じ、伴跛に奪われたというコモンの地がもどるよう計らってくれるように願った。
継体二十三年三月、百済王は下タリの国守押山に、加羅の多沙津を朝貢の海路として賜りたいことを乞うた。押山は奏問し、加羅王の反対を排して津を百済に与えることになった。このため、加羅は日本を恨み、新羅と結ぶようになったという。(紀)

穂積磐弓臣。
欽明十六年七月四日、蘇我稲目とともに吉備の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した。(紀)

穂積磐弓と黒斗売(笠味夫の娘)の間に生まれた穂積祖足は、推古8年(600年)2月、新羅に滅ぼされた任那日本府を救援するため、征新羅副将軍として新羅に出兵(新羅征討計画)し、五つの城を攻略して新羅を降伏させた。

飛鳥時代の官使・穂積咋は、大化元年(645年)に東国の国司に任命されたほか、大化5年(649年)には謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、すでに自害していた石川麻呂の首をきりおとさせた。穂積咋の子には、天武元年(672年)の壬申の乱で近江方の武将であった穂積百足、穂積五百枝の兄弟がおり、はじめ大友皇子(弘文天皇)のために兵力の動員を行う使者になったが、兄の百足が殺され軍の指揮権を奪われると大海人皇子(天武天皇)に従った。

天武13年(684年)、八色の姓制定の際、一族の穂積虫麻呂、穂積稲足、穂積濃美麻呂が朝臣姓を賜った。穂積濃美麻呂の子・忍麻呂が初めて速玉社の禰宜となり、この職は子孫が世襲した。

穂積朝臣虫麻呂 (ほづみのあそんむしまろ)

朱鳥元年正月、新羅使金智祥を饗するため筑紫に遣わされた。ときに直広肆。
朱鳥元年九月二十九日、天武天皇の殯庭に諸国司の事を誄した。(紀)

穂積朝臣山守 (ほづみのあそんやまもり)

持統三年二月二十六日、判事に任じられる。ときに務大肆。(紀)
慶雲元年正月七日、正六位上から従五位下に叙せられる。
和銅五年正月十九日、従五位上から正五位下に叙せられる。(続紀)

持統5年(691年)に、先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、後に日本書紀の元となった。

奈良時代の官人・穂積老は、穂積咋の曾孫で、大宝3年(703年)に山陽道巡察使を命じられ、和銅3年(710年)1月1日には左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵、隼人・蝦夷らを率いて行進した。養老2年(718年)、藤原武智麻呂が式部卿に就任した際、式部大輔となる。養老6年(722年)に不敬の罪で佐渡島に配流されるが、天平12年(740年)に恩赦で入京を許された。その後、天平16年(744年)の難波京へ遷都の際、恭仁京の留守官を任され、天平勝宝1年(749年)8月に死去。この時大蔵大輔正五位上。

『旧事』相模国造穂積忍山宿禰。日本武尊の妻、弟橘媛の父。 
★饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-【穂積】真津-阿米-十能寸-鎌子-押山。

饒速日尊-宇麻志麻治命-彦湯支命-大禰命-出石心大臣命-大綜杵命-伊香色雄命-大水口宿禰命-建忍山宿禰→弟橘媛

★弟橘姫の兄の名前は穂積忍山彦根と言う。
香川県善通寺市大麻町の大麻神社は、その一族が代々祭主をしている。

穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。磯長の国は小田原市国府津町から中郡大磯町にかけての海岸地域。

神奈川県中郡二宮町山西、川勾 (カワワ) 神社。
千葉県茂原市本納、橘樹 (タチバナ) 神社。
香川県善通寺市大麻町上ノ村山、大麻 (オオサ) 神社。

日本書紀「継体紀」6年(513)4月条に「穂積臣押山」を使者として百済に派遣したとあります。この「穂積臣押山」こそ「穂積氏忍山宿禰」その人ではないかという
穂積臣押山は『三国史記』百済本紀513年の条に、日本人穂積臣押山おしやまの名が「意斯移麻岐彌(おしやまきみ)」と記されていることからほぼ実在の人物と考えられています

穂積 祖足(ほづみ の おやたり、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。穂積氏の直流で、姓は臣。穂積磐弓の子

推古天皇8 年(600年)、任那日本府救援のために征新羅副将軍に任ぜられ、新羅を攻めて五つの城を攻略、新羅を降伏させた

川勾神社。 
神奈川県中郡二宮町山西。 
祭神:大名貴命、 大物忌命、 級長津彦命、 級長津姫命、衣通姫命。
   
当社は相模国の二宮で古くから二宮大明神又は二宮明神社と称し、延喜式所載の相模十三社であります。遠起書によれば、その創祀は十一代垂仁天皇の朝、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。
磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時奉幣祈願あり。人皇十九代充恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせられる。

式内社 讃岐國寒川郡 大蓑彦神社

御祭神 天太玉命
配祀 天津彦彦火瓊瓊杵尊
天香語山命 天櫛玉命 天糠戸命 天御陰命 天神立命 天三降命 天伊佐布魂命
天事湯彦命 天神玉命 天村雲命 天世手命 天湯津彦命 天神魂命 天乳速日命
天活玉命 天下春命 天鈿女命 天道根命 天明玉命 天造日女命
天玉櫛彦命 天日神命 天伊岐志迩保命 天表春命 天兒屋根命 天椹野命
天背男命 天斗麻彌命 天八坂彦命 天少彦根命 天月神命
創祀年代は不詳。

往古、忌部氏が当国に麻を伝え、
天太玉命を祀り、大麻神と崇めたという。
ということは、徳島の阿波一宮・大麻比古神社と同神のはず。

天太玉命は、天孫・瓊瓊杵尊と共に降臨した32神の一で、
五伴緒神の一柱でもある。
よって、当社には、瓊瓊杵尊と、その他の31柱の神々が配祀されている。
境内には、「弟橘媛命を祀る」と書かれた境内社・白玖祖霊社がある。
白玖氏は、代々当社の神主を勤める家系で、その祖、穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。

大麻神社(式内社)
由緒
祭神 天太玉命
相殿 天津彦々火瓊々杵尊及供奉三十一神
例祭 十月第一土、日曜日
一.由緒
延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。天太玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
 御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云ふ。
一.12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)
一.神階
五十六代 清和天皇 「貞観七年冬十月九日丁巳讃岐国従五位下大麻神授 従五位上」(三代実録)
六十代  醍醐天皇 「延喜十年八月二十三日授 讃岐国大麻天神従四位下」(日本紀略)
後円融天皇 永徳元年迄に正一位の神階
一.重要文化財
天津彦々火瓊々杵尊座像壱躯。天太玉命座像壱躯。上記四十代天武天皇白鳳十一壬午年(皇紀1,342)。穂積忍山彦根の裔、二十三代二十世孫神主穂積宿祢白玖鵜麿の作なり。重要文化財に指定せらる。同年、天孫瓊々杵尊及供奉三十二柱の神像作り、相殿に奉斎す。同、門守神二躯狗形二體神門に奉斎す。六十一代 朱雀天皇 天慶四辛丑年(皇紀1,601)三十四代二十九世孫神主穂積白玖志岐、門守神二躯狗形二體神門に奉斎す。
一.旧社格
1.明治5年、郷社に列せらる。2.昭和8年6月19日、県社に列せらる。生駒記、式社考、二十四社考、大日記二十四社名目、西讃府志、讃岐古社神名帳、皆同じ。当社は、大麻山に鎮座。古今異説なし。

大和神社の参道の神社
水口神社(天理市・渋谷町)
祭神:大水口宿禰(おおみなくち・すくね)
水口神社(みなくち)は上ノ山古墳の下部の杜に隠れるように鎮座している式内社です。

大水口宿禰は夢で重要な御神託を受けて、大神神社や大和神社の創祀に関係しました。
大物主大神が現れて大田田根子を祭主とするようお告げ⇒大神神社の創祀
長尾市(ながおち)を倭大国魂神の祭主とするようお告げ⇒大和神社の創祀

水口神社が鎮まる上ノ山古墳は景行天皇陵の陪塚(ばいちょう)で柳本古墳群を構成しています。

この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろと推定されています。

大和神社の参道
水口神社(天理市・渋谷町)に関する記事です。
水口神社(みなくち)は上ノ山古墳の下部の杜に隠れるように鎮座している式内社です。

大水口宿禰は物部氏系列の人物で、饒速日尊(にぎはやひ)・伊香賀色雄(いかがしこお)の子孫で、穂積臣の先祖です。

 大和宿禰。神知津彦命より出る也。神日本磐余彦天皇日向国より大和国に向い、速吸門に到るとき時・・・・・即ちひきて皇船に入れて海導と為し給う。仍って神知津彦(一名椎根津彦)と号く。能く軍機の策を宣しければ、天皇之を嘉し給い、大倭国造に任じ給う。是れ大倭(宿禰)の始祖也。

和泉国大鳥郡 多治速比売命神社
式内・坂上神社、式内・鴨田神社
大阪府南区宮山台2丁
祭神--多治速比売命・素盞鳴尊・菅原道真

※由緒
 当社案内紀によれば、
 「当社は和泉国大鳥郡の延喜式内社24社のひとつで、西暦530年の頃(社頭の案内には宣化天皇-535~39-の頃とある)創建と伝えられている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際神社のみとなった」
とある。当社の創建に関する資料は少なく、大阪府誌(1903)・大阪府全志(1922)には
 「創建の年月詳ならず」
とあり、式内社調査報告(1986)には、
 「創祀不詳なるも、・・・付近には陶器の窯跡多く、社有林内の“高蔵寺73号”は最古の登り窯とされているから、当社は古来より広範な陶邑に居住し、陶器生産を専業とした渡来人系集落の守護神として、5世紀中頃に創祀された・・・」
とある。
 渡来人創建説の信憑性は高いが、この場合、社名・祭神のタジハヤヒメとの繋がりはみえない。

※祭神
 今の祭神は上記三座だが、本来の祭神は多治速比売命(タジハヤヒメ)一座。

 社伝によれば、タジハヤヒメとはヤマトタケルの妃・橘姫命が転化したものというが、ヤマトタケルにタチバナヒメなる妃名は見えない。和泉国式神私考(発刊時期不明)に
 「多治速名媛命 穂積押山宿禰之女 日本武尊之妃神也」
とあり、景行紀に穂積氏忍山宿禰の娘とある弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を指すという。しかし、「(タジハヤヒメは)橘姫に非ず」ともいう(特選神名帳・1925)。

 このタチバナヒメ説以外に、“丹比乃波夜姫”とする説(神社覈録・1870)、“丹治比君の祖”とする説(神名帳考証・1813)などがあり、タジハヤヒメの出自についての定説はない。
 なお丹治比(タジヒ)君とは、宣化天皇と皇后・橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ・仁賢天皇の皇女)との間に生まれた“上殖葉皇子”(カミツウエハ)の後裔で(宣化紀)、天武天皇のとき真人の姓を与えられている。
上殖葉皇子の母を“橘仲皇女”ということから、社伝にいうタチバナヒメとは、この皇女を指すのかもしれない。
 (丹治比・丹比とは上殖葉皇子の子が臣籍降下して与えられた氏名で、9世紀中頃に多治氏と改名している。丹治比氏の本拠地は河内国丹比郡-羽曳野市辺り-というから、当地に関係していた可能性はある)

  能褒野神社御由緒
鎮座地 亀山市田村町女ケ坂一〇四九番地
祭神  日本武尊
配祀  弟橘姫命 (元小天宮祭神)
    建貝児王「建見児王」(元武内県主神社祭神)
祭日  春祭 四月八日  例祭 十月八日
由緒  
 日本武尊東伐の帰途ここ能褒野に薨じ、天皇深くこれを嘆かれ天皇の礼を以て葬られた。
延喜諸陵式(九〇四)に能褒野墓 東西二町・南北二町・守戸三烟とあるが、しかし中世以降戦乱が相 次ぎ、尊の御陵墓も荒廃し定かでなくなり、白鳥塚(加佐登)武備塚(長沢)等諸説が出たが明治十二 年十月内務省は、女ケ坂の王塚を尊の御墓と確定し、守部二人を常置された。
 明治十六年神宮祭主久邇宮朝彦親王により、社号を能褒野神社と選定、翌年創立が許可された。
同二十八年十月八日神職伊藤左門と惣代が、京都の賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴し鎮座されることと なった。
 明治四十一年延喜式内県主神社・同那久志里神社・同志婆加支神社・小天宮社・田守神社・八嶋神社 外四十余社を合祀した。
 大正十三年能褒野保勝会組織、同十四年県社に昇格、十月七宮家より「御鏡餅料」を戴き、知事以下 二百余名参列のもと祭儀が行われた。同十五年保勝会が亀山駅前に大鳥居を建設、久邇宮邦彦王御染筆 の「能褒野神社」 の扇額を掲げた。
 昭和二十一年国家神道廃止となり、同二十七年十二月宗教法人となった。

日本武尊略歴
 武尊は第十二代景行天皇の第二皇子に生まれ、幼名は小確命身長高く容姿端正、力また強く、十六才 にして天皇の命を受け西征、熊襲の川上のタケルを討つ。
 この時より日本武尊と称す。暫くして、また命により東夷を討つため吉備武彦・大伴武日連等を従え 東国に向かう。途次伊勢神宮を拝し叔母倭姫命より剣と袋を授けられる。それより亀山に至り忍山宿禰 の娘、弟橘媛を伴いて駿河に至る。
 処の賊鹿狩りと欺き火を放つが、尊は剣で草を狩り向火を放ち、賊を滅ぼす。これより剣を草薙剣、 処を焼津と言う。更に相模より上総に進むため馳水の海を渡る。
 海路中波たかく船進まず、時に弟橘媛は尊の身代わりとして海中に身を沈められた。荒波自ら静まり 船を進めることを得た。

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて間ひし君はも

木更津より陸奥・甲斐・信濃を経て尾張の宮簀媛を尋ね、剣を置いて伊吹の賊討とうとしたが、心神喪 失し里に下る。(醒井)力衰え杖を頼りに進まれたが、内部村付近で「わが足三重のまがりなす」と嘆 かれた。

 能煩野に至り、望郷の念より
  倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるはし

と歌われ、三十才にしてお亡くなりになった。天皇深く悲しみ能褒野に陵墓をお作らせになった。后・ 皇子等はこの地に来て
  な附きの 田の稲がらに 違ひもとろふ ところづら
と歌われた。時に尊は八ひろの白鳥と化して、飛び立たれた。
  浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
この歌は、御涙として今も天皇の大葬の時に歌われている。
 白鳥はそれより大和の琴弾原と河内の羽曳野に留まり、ここを白鳥三陵という。

能褒能御墓 (王塚)
 総面積一九、三三七平方㍍ 全長八九㍍ 前方部四〇㍍ 高さ六、一㍍
 後円部 径五四㍍ 高さ九、五㍍
 鰭付朝顔形円筒埴輪を有する、古制の前方後円墳である。その他 能褒野古墳群として十六の塚が
分布している。
 (神社パンフレット「能褒野神社 御由緒」より)

穂積臣押山
日本書紀「継体紀」6年(513)4月条に「穂積臣押山」を使者として百済に派遣したとあります。この「穂積臣押山」こそ「穂積氏忍山宿禰」その人ではないかという説があるのです。(「ヤマトタケル伝説と日本古代国家」石渡信一郎著より)

穂積臣押山は『三国史記』百済本紀513年の条に、日本人穂積臣押山おしやまの名が「意斯移麻岐彌(おしやまきみ)」と記されている。

入海神社
御祭神:弟橘比売命、応神天皇
所在地:愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷一区46
由緒:日本武尊が東征のときに、この地にいた穂積忍山の娘、弟橘姫を連れて行ったそうです。途中、荒天にあい全軍の安泰を祈り、彼女は海に身を投げたそうです。そして彼女の櫛がこの地の紅葉川の辺りに流れ着き、その櫛を祀ったことがこの神社の始まりだそうです。

 日本武尊(倭建命:ヤマトタケルノミコト)は、第12代景行天皇の時代に 勅命によって東征に出陣する際、入海神社由緒によれば当時緒川に居住した 穂積氏忍山宿弥命(ホヅミノウジノオシヤマノスクネノミコト) を訪ねた。そして、その娘の弟橘比売命 を妃として、同伴し東征(蝦夷征伐)に向ったと云われる。

そして、一行は相模国三浦から上総国木更津へ「走水の海」(ハシリミズノウミ) を渡海する際、海の中ほどまで行ったところで暴風に遭遇する。 弟橘比売命は海神を静めるために、自ら海にその身を入りて日本武尊を救う。

日本武尊を祭る亀山市の能ぼ野神社には、 日本武尊と弟橘比売命が合祀されている。

三重県亀山市
 亀山市の新羅神社と考えられている神社は忍山神社である。亀山市は先に述べたように、竜川や鈴鹿川が作った河岸段丘の上にある。亀山市の古代遺跡の一つである野村忍山遺跡は野村古墳群の一部を形成している。南野町の西端丘陵上に経塚、赤子塚、長塚があり、その南にお姫塚がある。忍山神社の西南に、お姫塚がある。お姫塚の東方の田地の中にもう一つのお姫塚がある。この地からは前期、後期の須恵器が多く出土している。縄文時代に亀山市南野の高い舌状台地に居住した部族の人々の一部が弥生時代に入り台地の西方の崖下の今の忍山神社東方の低地に移り住むようになりこの地にある鈴鹿川の沖積地に水田を営み米作に従事するようになった。旧台地と低地の双方から縄文の魚網の錘や弥生式土器の破片が無数に出土しているのでこの両集落は交流があり、従来の漁労に携わりながら稲作にも従事していたことがわかる。

式内社「忍山神社」白鬚大明神
神紋   花菱
鎮座地  亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
     素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
 一、皇大神宮遷幸地跡
 一、弟橘媛命生誕地
 忍山神社の由緒については諸説ある。「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。神官も物部氏の一族ということになる。因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう。忍山神宮には神宮を守る神宮寺が建てられており、室町時代の記録によると、戦乱で焼けたこの寺院の復興を伊勢神宮が援助している。当時の忍山神宮はかなり壮大な神殿であったらしい。しかし、度重なる戦乱などにより忍山神社に関する記録類がほとんど失われ、江戸時代にはその場所すらも定かではなくなっていた。

亀山市の亀山は神社のある神山が訛ったもので、この神山は現在の野村町にある愛宕山、かつての押田山のこととされている。この押田山が忍山神宮の推定地とされている(亀山市「広報かめやま・平成六年七月一日号」ほか)。従って、忍山神社は当初は現在地より東北の愛宕山のあたりにあったようである。この山は元禄年中に宝光院の山伏が京都の愛宕社をここに勧請して以来この名称となったもので、それ以前は神福寺山または押田山と呼ばれ、「河曲鈴鹿小山宮」(『儀式帳』)が忍山宮跡であろうといわれる。押田山は忍山であり、神福寺は忍山神社の神宮寺・慈恩寺の一名から呼んだ名である。

兵火が収まって後、忍山の傍らに仮宮を営むも信長の兵火で再び焼かれ、元の地に奉斎せんと望むも資力がなかったので、布気林にある布気神社の社に仮宮を営んでこれに奉祀した。そこで布気神社と忍山神社の二座が一つの所に坐すこととなった。その後神職は布気神社を本社とし忍山神社を合祀神社とすべきところを、社名に忍山神社を残したので、布気神社の名が消えてしまったので布気神社は忍山神社に庇を貸して遂に母屋をとられた形となり、布気神社はいつの間にか隠れてしまった。つまり、忍山神社の今の地は上古、布気林といい、猿田彦命を祀った、布気神社が鎮座していた場所である。現在は忍山神社の社域に布気神社即ち白鬚神社と別宮天照大神を奉祀する忍山宮の二社が同居し、更にいつしか、本社の布気神社は野尻村の皇館社の森に遷宮した(山田木水「亀山の史蹟と名勝」、「亀山地方郷土誌」など)。―何ともややこしい話であるが、文明の兵乱と信長の焼き討ちで資料が焼失してしまい記録が残っていない為に、白木山に御神体が逃れた後の話で忍山の地に還奉されたのか、布気の地に仮宮を造られたのかが明確に判明していないということである。いずれにしても平安時代には二社とも式内社として存在していた。

倭姫命世記

奈具波志忍山(忍山神社)

三重県亀山市野村4-4-65
忍山神社に半年滞在の後、布気神社に一週間滞在されたという伝がある。
 
布気神社
三重県亀山市布気町野尻1663
 次の片樋宮へ向かうには逆行になる。
忍山神社から片樋宮へ向かう途中、倭姫命が馬を留めたという松がある。
 御厩の松 三重県鈴鹿郡関町古厩

【倭姫命世記】
十八年己酉夏四月十六日。遷坐于阿佐賀藤方片樋宮。積年歴四箇年奉斎。是時爾阿佐加乃彌子爾坐而伊豆速布留神。百往人者五十人取死。四十往人廿人取死。如此伊豆速布留時爾。倭比売命於朝廷大若子乎進上而。彼神事乎申之者。種々大御手津物彼神進。屋波志々豆目平奉止。詔遣下給支。于時其神乎。阿佐加乃山嶺社作定而。其神乎夜波志々都米上奉天労祀支。爾時宇礼志止詔天。其処名天。宇礼志止号。