秦氏

『新撰姓氏録』(815年)には、合計1182の氏族名があり、その構成は皇別335氏・神別404氏・諸蕃326氏になっています。天皇・皇族を始祖とするのが皇別、神々を始祖とするのが神別、中国人・朝鮮人ら渡来系氏族を始祖とするのが諸蕃です。
 さらに、諸蕃を「漢」「百済」「高麗」「新羅」「任那」に区分しています。「漢」とは、中国大陸の王朝の皇帝たちを始祖と主張する氏族です。「百済」「高麗」「新羅」とは、朝鮮半島諸国の王族を始祖と主張する氏族です。
 秦河勝の属した秦氏は、「漢」

 『新撰姓氏録』(左京諸蕃の条)には、
 「秦始皇帝の三世孫孝武王より出ずるなり。男功満王、帯仲彦天皇 謚仲哀 八年に来朝す。 男融通王 一に云く、弓月君 誉田天皇 謚応神 十四年、廿七県の百姓来り率て帰化し、金 ・銀・玉・畠等の物を献ず」(功満王は、秦始皇帝の孫・孝武王の子であり、仲哀天皇の8年に日本にやってきた。功満王の子・融通王、別名・弓月君は応神天皇の14年に27県の人民を率いて帰化し、金・銀・玉・畠等を献上した)。ここでは、秦氏の「秦」は、秦始皇帝の「秦」によるとしています。 

『新撰姓氏録』
「太秦公宿祢(うずまさのきみ」(以下、原文)
  
「京・畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年(弘仁6)奏進。30巻・目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏 録。」(「広辞苑」第五版。岩波書店 1998年。)

 「男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うづまさ)」

渡来人秦氏は応神144年(382年)137県の百姓を率い来日し、技術集団で全国(西日本)に住居を構えたと言われてます。先祖は秦の始手皇帝の子孫と称す弓月氏が帰化し、宗教はネストリウス派(景教:キリスト教の一派)と言われ、日本文化に影響を与えた。
「秦氏本系図」
賀茂氏は矢から産まれた子を、祖の賀茂別雷命だとしています。 秦氏はその矢を松尾 大明神として祀り、宗像の神と同神だとしています。
「秦氏の娘が産んだ子は、戸の上の矢が父であるとして指差した。そして「雷公」となって屋根を突き破り天に昇っていった。鴨上社を別雷神と云い、鴨下社を御祖神と云う。戸の上の矢は松尾大明神である。」

『海部氏系図』は、18世の孫の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)が丹波・但馬・若狭の海人を率い、神功皇后の新羅征伐に奉仕したと記していますが、『古事記』は難波根子建振熊命、『日本書紀』は武振熊を同時代の人物として挙げ、和邇氏の祖であると書いています。

    《 秦氏の系統の名前 》
秦、波多野、三林、川辺、島津、宗、伊集院、石坂、河上、原、町田、山田、大野、佐多、桂、中沼、和泉、末広、山村、朝田、桜田、高尾、長田、秦~、等多数に分家してます。秦河勝(聖徳太子の側近)

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 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(九世紀)
「秦忌寸」(以下、原文)

 「功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波陀。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏餬。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使鬲括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛・詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐(うづまさ)。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也」
 (佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)

 このように、「弓月王」が、応神(おうじん)天皇(在位270-310年)の第14年(西暦283年)に「来朝」し、さらに「百廿七県(あがた)」(127あがた)の民を率いて「帰化」したとある。

「日本書紀」巻第10「応神紀」の記述によれば、その数は「百二十県(あがた)」とあり「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の記録と少し異なっている。こう書かれている。

 「(応神)十四年春二月,百済王(くだらおう)が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉(まつ)った。真毛津(まけつ)という。これがいまの来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。この年、弓月君が百済からやってきた。奏上(そうじょう)して、「私は私の国の、百二十県(あがた)の人民を率いてやってきました。しかし新羅人(しらぎじん)が邪魔をしているので、みな加羅国(からのくに)に留っています」といった。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰ってこなかった。」
(宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳」講談社、1988年。217ページ。)

西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。

 備前国邑久郡八浜郷戸主□□
 麻呂戸口大辟部乎猪御調塩三斗 
この木簡の「大辟部」が秦氏と考えられる
678年、山背国に命じて賀茂神宮を造らせる
701年、秦忌寸都理、 筑紫胸形大神(宗像)を日埼岑より松尾に移す

『本朝月令』松尾祭事所引の『秦氏本系帳』に次のような記事がある。「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部の大神。戌辰年三月三日、松埼日尾(又日埼岑と云ふ)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女秦忌寸都賀布、戌午年より祝(はふり)となる。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十年。」とある。
このように松尾大社の祭神は、大山昨神の他にもう一座、中津島姫命が戌辰年三月三日に「松埼日尾」に降臨したとしている。その後、大宝元年(701年)に秦忌寸都理が「松埼日尾」から松尾に勧請し、社殿を営んで、知麻留女に奉斎させ、その子・秦忌寸都賀布以降、子孫が代々祝となったという。
松尾大社の祭神を、筑紫胸形に坐す中部の大神と記されているが、この神は今の福岡の宗像三神の市杵嶋姫命を指す。大山昨神と一緒に祀られていたのが日吉大社の鴨玉依姫ではなく、宗像三神の市杵嶋姫命であることは大変興味深いことだ。
天武天皇が胸形徳善の娘の尼子娘を娶って高市皇子が生まれて以後、宗像の神は全盛期となったことと関係がありそうだ(宗像神社は全国に6000社余も分祀され発展する)。

 胸形君とは後の宗像氏のことで、この当時すでに中央にかなりの影響力を持っていた(神功皇后は朝鮮征伐の際、宗像神の神威をかりたと伝えられている。宗像神は玄海灘一帯の海人族の崇敬をうけており、宗像の地は大化改新以降「神郡」となる)。
また天武十三年には「朝臣」の姓を賜っている。宗像(胸形)氏も秦氏と同様に、新羅・加耶から渡来した産鉄氏族であったのであろうか