真清田神社、天香山、高倉下

神社神明細帳によれば

当社の創建は崇神天皇の御代のこととされるが、当社の社記によれば、神武天皇33年3月3日、天香山命(天火明命の子)がこれを斎き祀った。天香山命の別名は高倉下で、熊野にいて神武天皇東征の折に神剣を献上して大功があったので、天皇の侍臣となり大和の高尾張邑にいたが、尾張国に遷し国を開拓した。父の天火明命を尊び海中島、嶼(こじま)の地を斎き祀られたのが今の中島郡である。往古から毎年3月3日を大祭日と定めた。

大神神社と真清田神社は共に尾張国一宮

熱田区に鎮座する高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)は熱田神宮の境外摂社で祭神は高倉下

大神神社は三明神と称せられていた点です。真清田神社の別宮・三明神社との関係が想定されます。

大神神社は当時の大名神(=名神大社)八座の一座とあります。この八座は、熱田神宮とその摂社の計四社、大縣神社、真清田神社、一宮市大和町於保に鎮座する大神社、そして大神神社の八社。

近くの一宮市の大神神社(おおみわじんじゃ)

旧鎮座地の地名は大和町宮地花池(現在の古宮公園の位置)であり、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉である。当社が尾張国一宮であるとする説があり、近くには同じく尾張国一宮とされる真清田神社がある。

大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える。大神神社の神紋は三本杉で、当然のことながら大和の大神神社と同じ。

大神神社

崇神天皇の御代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。大和の国の一の宮大神神社の祭神で、三輪の神とよばれ、大國主神(大國様)の別名がある。大和の大神神社と同じく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。鎮座地の花池は水が美しく、蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。奈良時代に國司が赴任して、國中の神社を代表として國府宮の「尾張大國霊神社」を尾張の総社に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」ということで「尾張の一宮」に指定した。「文徳実録」「尾張國帳」には従一位大名神とあり三宮明神、三明神(神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があった)と称せられ、延長五年延喜式神明帳には式内社とあり勅祭神社であったことが判る。尾張の國中には、大名神八座、小一二三座あって、当時の大名神八座の一座である。

三明神
「真清探桃集」によれば三明神宮は本宮の荒魂であり、印珠宮とも称され、三種の印珠を秘蔵する故に三明神宮と号すとされます。また、真清と三明は一体としてニ宮、二宮で一徳とされるとのことです。つまり、真清田神社と三明神社は密接不可分なものとされており、この重要性に鑑みて別宮の第一とされているのです。
神記によれば本宮の西二十尺に社があり、これが三明神宮であり、三十歩先に小丘があってそこから鏡など様々な品が出土し、これは神社地鎮の具であろうとしています。三明神宮の位置は尾張名所図会と同じであり、神社の境内の西に三明神。