百済王族の亡命

百済大乱と王の亡命

いったいなぜこんな山奥の地に!?
百済は六六三年の白村江の戦いで滅亡するが、神門に百済王が亡命するのは八世紀半ば。その間何があったか?

  
『神門神社縁起』によれば、
「百済の王、禎嘉王(ていかおう)は、その子福智王(ふくちおう)に譲位して三年目にあたる年に国内に大乱がおき、その難を逃れて福智王とともに日本へわたり、 756年(天平勝宝8年)に安芸国(現在の広島県)の厳島あたりに辿り着きました」とある。
日向百済王伝説が単なる架空のものではないことが伺われますが、史実の中に禎嘉王(ていかおう)という百済王の名がないばかりでなく、百済が白村江の戦いで滅亡するのは 663年なのに、神門に百済王が亡命するのは八世紀半ばの 756年のことであり、百年の時間のずれがあります。どういうことなのでしょう。

筑紫を目指して出帆した百済王族の乗る二艘の船は、折からの嵐に遭い、父禎嘉王と華智王(次男)他の取り巻きは日向の金ヶ浜に、福智王とその后、そして禎嘉王の后ら一行は蚊口浦に、別々に漂着することになりました。そして、それぞれ占いにより、山深い地の神門と比木の地に辿り着き、それぞれの地で安息の日を過ごしたとのことです。ところが、ある日禎嘉王の生存を聞きつけた敵方が追討軍を送り、これを迎え撃とうとした禎嘉王と、父王の加勢に駆けつけた福智王を始めとする多くの者達は、壮絶な戦死を遂げたそうです。そして、父王の霊は神門神社に、その子、福智王の霊は比木神社に、それぞれ祀られることになったのだそうです。

安息の日々を偲び、王族の霊を祀る神事がいまも続けられている。

みやざきの神話と伝承1
大年神と比木大明神縁起
高鍋町持田の大年にある「大年神社」の祭神は「稲田姫命」。スサノオノミコトの妹で、同町蚊口の鵜戸神社の由緒では、「大年神」はスサノオノミコトの子神である。五穀豊穣(ほうじょう)、農耕の守護神で、中世には領主伊東氏から田8反と屋敷が与えられていた。
また同神は、木城町比木の比木神(五社大明神)と縁が深く、同社の大祭に先立って「大年下り」が大年神社境内に祭られた「比木大神」を中心に行われる。比木社のご神体「御袋神」の浜下りの神事である。
高鍋町鴫野(しぎの)の浜の真砂を持ち「上り」、比木社の大祭は始まる。流布している「比木大明神本縁」(宝暦5年、加賀美光章編)をさかのぼる59年前の元禄9(1696)年、新田村(新富町)の神官井上良光(よしてる)が書写した「旧記」は次のように述べている。
百済の王は「貞家」(ていか)と言い、王位に21年間あって皇太子に王位を譲った。皇太子は福智王で、王位について3年で国に内乱が起こり、日本に逃れた。
天平勝宝8(756)年9月、安芸国(広島県)の厳島に着き、同10年秋、日向国児湯郡嘉口(かぐち)の港に入った。そのとき、ぬれた衣を乾かしたところを「もひろげ」、馬具を干したところを「くらかけ」という。
福智王は住むところを決めるため珠玉を投げた。18里も飛び、そこを「火棄」(ひき)と名付けた。
同じころ、貞家王は臼杵郡金ケ浜に着く。ここから78里の山奥に住居を構える。百済から追ってきた賊と坪谷伊佐賀坂(東郷町)で戦いとなったが、福智王が火棄から駆け付け、賊を滅ぼした。
この戦いで食料が尽き、王と兵士が困っていたが、神門の武将・益見太郎が鹿(しし)を狩り、助ける。このことから、神門の祭りには捕れた獲物を神に供える神狩(みかり)がある。戦死した二男の皇子を伊佐賀大明神として祭り、流れ矢に当たって死去した貞家王の墓を「塚原」という。神門大明神がこれ。
福智王は火棄に火棄大明神として祭られた。火棄を比木と改めたのは仁寿2(852)年。福智王の母が「大年大明神」で、陵は鴫野にある。
このように比木神社の4つの大祭は、比木神が「大年神」と「神門神」という農耕世界と狩猟世界の2つの守護神を結ぶ神であることを示している。   永井哲雄

御幸

比木と神門の間は道成にして90キロも離れていて、昭和初期までは9泊10日を要する大変な行事であったそうです

田野町の伝承

「百済が唐、新羅連合軍に敗れた後、百済王主従が油津に漂着。かなたに五色の雲がたなびく峰を認め、あの地こそ住むところと目指し、鰐塚山のふもとに落ち着いた」

田野町役場のすぐ近く、田野天建神社に伝わる巻物「大宮大明神縁起」はこう記す。一六九〇(元禄三年)年に書き写され、作者・鵜戸先別当実仙、伝者・清武先大将川崎宮内祐栄、筆写・円智房勢賢。傷みが激しく、現在は公開を控えている。
百済王主従伝説の裏付けとして、町内には、王が八人の田野の衆と出会った岩屋。月毛の愛馬もろとも墜落死したという井戸の跡がある。以来、この地では井戸を掘らず月毛の馬を養わないという。道中の北郷町にも「小姓の坂」「宿野」などゆかりの地名が残っていた。

禎嘉王と、その子の福智王

昔、百済の国において大乱が起こり、禎嘉王(ていかおう)と、その子の福智王(ふくちおう)とが、乱を避けて、女官・従者と共に日本へ渡った。彼らは日向の国の小丸川の河口、現在の高鍋町の蚊口浦に上陸する。禎嘉王は小丸川の上流、現在の南郷村の神門(みかど)に居を定め、王子の福智王は下流の、現在の木城町の比木(ひき)に住む。
しかし、まもなく、追っ手がかかり、禎嘉王は現在の東郷町の伊佐賀で防ぐが、矢を受けて戦死する。
いま、南郷村の神門神社には禎嘉王を祀り、木城町の比木神社には福智王を祀る。なお、小丸川河口の高鍋町の鴫野にある大年神社は、禎嘉王の妻にして福智王の母なる之伎野(しぎの)を祀ると云う。

福智王子が亡くなると、里人は大変悲しみました。そして、父や母への愛を大切にして、年に一度の対面を楽しみにしていた福智王子を思いだしては涙を流しました。死後福智王子を比木神社(木城町)に祀りましたが、父禎嘉王と第三王子伯智王は神門神社(南郷村)に、第二王子華智王は伊佐賀神社(東郷町)に、母之伎野は大年神社(高鍋町)に祀られていました。離ればなれの地に葬られている親子が不憫でなりません。

【連綿と続く祭礼】
地元では、これらの百済王たちのための2つの祭りが絶えることもなく続いている。一つは、比木神社に祀られた福智王が父王を訪ねる祭で、「師走まつり」と呼ばれるものであり、もう一つは、同じく福智王が母を訪れる祭で、「大年下り」と云われるものである。

(師走まつり)
旧暦の12月23日、比木神社の宮司ら約20人が、ご神体を奉じて、南郷村の神門神社に向かう。道程は、海岸沿いに北上して日向市の美々津に至り、ここの海岸(金が浜)で禊ぎをして身を清め、そこから耳川を遡って東郷町へ入る。伊佐賀では、出迎えに来ている神門神社のご神体と合流し、伝承された戦いの故事に基づいて野焼きをする。山を越えて南郷村に入ると、小丸川の河原で石を拾って石塚に奉納し、神門神社に到着する。神門の人たちは、円錐形の櫓28基に火をつけて「迎え火」を焚いて出迎える。
翌24日は、神社の裏山を「オーオー」と叫びながら歩いて、死者のために御哭(みね)を捧げる。夜には夜神楽が奉納され、最終日の25日には、別れの宴が開かれ、その最後には、別れの悲しみを隠すために、顔に鍋底の墨を互いに塗りあう「へぐろ塗り」をした後、比木神社へと帰って行く。
なお、この祭は、現在は2泊3日で行われているが、昔は9泊10日で行われたと云う。

祭りのクライマックスは、(3日目)「下りまし」の別れの行事でしょう。神棚に供えられた鯛を焼いて、それを肴に酒を酌み交わした後は、比木の一行も、それを見送る神門の一行も、別れの悲しみを見取られないようにと、顔に炭を塗る「へぐろ」という儀式があります。その後、帰途に就く比木の一行とそれを並んで見送る神門の一行、特に後者には炊事道具の類をもって見送る氏子達(福智王が出発するという知らせに、取る者もとりあえず駆け付けた民衆を象徴し祭りのクライマックスは、(3日目)「下りまし」の別れの行事でしょう。神棚に供えられた鯛を焼いて、それを肴に酒を酌み交わした後は、比木の一行も、それを見送る神門の一行も、別れの悲しみを見取られないようにと、顔に炭を塗る「へぐろ」という儀式があります。その後、帰途に就く比木の一行とそれを並んで見送る神門の一行、特に後者には炊事道具の類をもって見送る氏子達(福智王が出発するという知らせに、取る者もとりあえず駆け付けた民衆を象徴しているそうです)が加わり、皆口々に「おさらば」、「おさらば」と声を掛け合います。「おさらば」とは「さようなら」という意味ですが、1年ぶりに再会し、2日間の楽しい時間を過ごした父子にとって、またの再会を期したとしてもやはり別れはつらいものでななかったかと思います。

禎嘉王

神門神社(みかどじんじゃ)
養老2年(718年)の創建と伝えられる。
宮崎県東臼杵郡美郷町にある神社。祭神は大山祇神、百済の禎嘉王、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)ほか。本殿は国の重要文化財に指定されている。『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は神門の地に落ち着き、福智王は現在の木城町に住んだとされる。「益見太郎」または「益シ見ル者」の援助があり、父子はこの地で崇敬され、死後は神として祀られたという

神門神社から二キロほど手前、国道沿いに見落としてしまいそうな、ちっちゃな古墳がある。「塚の原」と呼ばれ、土地の人は百済の禎嘉(ていか)王の墓だと伝えてきた

比木神社
比木神社南側の墓地内に、福智王子の墓と言われる五輪塔がある。また、比木神社は、福智王子および妃が祀られ、比木神社境内には福智王子の子を祀る若獅子神社、宰臣を祀る一宮、社殿横前には、福智王の乳母だった紅梅殿を祀る紅梅殿跡がある。一方、紅梅殿については、「禎嘉王が連れてきた内侍十二人・乳母紅梅殿の墓は神門村にあり、神門大明神の末社の小社は、大歳大明神、内侍、紅梅殿等を祀る」ともある。また、福智王子の姉(または妃)は高鍋町の宮田神社に祀られているとも言い伝えられている。

お里廻り
この地に漂着した福智王子が大変難渋をした時、この地の人々は丁寧に迎え、切にもてなした。福智王子が比木に居住するようになってから数年後、お世話になりもてなしを受けた家に対しての訪問され御礼の言葉を申し上げたと言われ、これが今日までお里廻りの神事として続いていると云われている。立ち寄りでは神札を配り神楽を舞い接待を受ける。廻る家は、長い年月の間に一部変動はあったものの二十箇所程度の廻る家は決っている。過去二泊三日だったが、現在、一泊二日の行程で行われている(10月28日~29日に近い土曜、日曜)。福智王子の姉を祀る宮田神社や高鍋城も訪れ、高鍋城では秋月家からの神饌が奉られた。永友家では、暫し休むが、主人不在だった際隣家の谷口家がお茶を差し入れたら福智王子が大変満足感謝し、以後永友家に立ち寄る際お茶は谷口家より差し入れるとの逸話も残されている。明治中期まではシャンシャン馬という装飾された馬もでていたという。

新羅の流民

日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九月四日(759年)条に、以下のように記されている。
「近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や労役の苦しみを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。それらの人々に再三質問して、帰国したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように。」

諸説ありすぎ

以下の四書において、伝承が異なる。
①『神門神社縁起』(宝暦五年六月,源光章)
②『比木大明神縁起』(宝暦五年七月七日,源光章)
③『日向旧跡見聞録』(宝永九年閏七月,笠原道順)
④『筑紫日記』寛政四年閏二月十九日条[6]

①②は甲斐州山梨郡山王社神主である源光章によって作成されたものである。
それぞれ前半部分は佐土原町上田島にある仏日山大光寺拙堂禅師が持ち込んだ『比木祠旧記』の写しで、後半は源光章による考証である。
『比木祠旧記』文中では、天平勝宝八歳を「天平勝宝八年」と誤記している。 また、文中には1580年代に開始された唐津焼が登場する。
①では、源光章による考証部分で「孝謙天皇時、百済王子金泰廉等朝貢事」と百済と新羅を混同している(②では「新羅」と修正されている。
『比木祠旧記』の内容も、①②間で異なる。

①は送り仮名を漢字表記。②ではカタカナ表記(例:「与利」=「ヨリ」)
①では「貞嘉帝」、②では「禎嘉王」
①では「和国は神国である」という貞嘉帝の言葉がある
②では、日向国に着くまでの道筋が簡単になっている。筑紫へ行ったこと、風に流されたことを書いていない
①では「益見太郎」が固有名詞、②では「益シ見ル者」と固有名詞になっていない(ただし『宮崎県史 別編 神話伝承資料』収録の天保三年写本では「益見ナル者」に改竄されている)
①では貞嘉帝の皇后の名前は無く、単に鴫野村に葬ったとある
②には、若御子宮の話がある。また、舎人七人の話がある
②には、王次子(華智王)の名前が書かれていない
③は笠原道順が現地古老に取材して実見するところをまとめたものである。
本書では百済関連の伝承は語られない。比木神社に祭られているのは福智王とせず、「異国の大将軍」であると地元民は述べる。
著者はそれを誤りとし、祭神である大己貴命が、国譲りの後にこの地で蟄居したためであろうと論じる。
神輿の巡行については、大己貴命が独り日本国に留まって経営を続けたことに由来するという。
高山彦九郎の巡遊日記である。神門神社の祭神について、「百済王とも源頼朝の子供ともいう」と述べる。

王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っている。神社の近くの国道446号線沿いに「百済王貞嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられている。標柱の南約50メートルほどのところの畑の中に、封土の大部分が削平された塚ノ原古墳がある。本殿の屋根裏には、千点以上の鉄鉾や鉄鏃などの武器類が保管されており、地域の武器庫とのかかわりが考えられる。さらに、須恵器の大甕や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。

天智天皇と天武天皇
天智天皇は、百済の危機に際して朝鮮半島に出兵したことからもうかがえるように、百済と親密な関係にあり、百済滅亡後、多くの百済人が日本に亡命してきていた。

福智王を刷った比木神社の縁起では、禎嘉王と福智王はいったん安芸国厳島に滞在し、その後、日向の浜にたどり着いたという。安芸を経由して落ちのびてきたのなら、壬申の乱で都から逃げてきたという可能性もあるが、
唐からの追求に隠れるためとも考えられる。
南郷村の伝説の禎嘉王と福智王も、史料には出てこない

大和王権と百済系渡来集団の双方に強い影響力を保持した葛城氏。敗れた禎嘉一族を神門にかくまった、あるいは大和王権から禎嘉を託されたのかもしれない。なんとしても血の断絶を避けるため禎嘉自身は神門へ、子は比木へ、別々に落ち延びたのではという説もある。

金達寿氏

いろいろ解説していますが、氏は学者でないだけでなく偏った歴史観を持ち憶測が過ぎる。一例ですが

呉善花・崔吉城『これでは困る韓国』(1997年,三交社)
「とんでないまちがいが本気で信じられているいい例の一つに、日本でお祭りなんかで使われる「ワッショイ」という言葉が、韓国語の「ワッソ」(来た)からきたものだというのがあります。いったい、なにを根拠にそういうことになっているのかわかりませんが、これはまったくまちがっているんです。だれが最初にそう言ったか調べてみたら、この前亡くなられた在日の文学者の金達寿さ んでした。それ以後、韓国の学者や在日の学者が堂々と本に書いたりしているんですね。以下 省略」