白村江の参戦者たち、白村江前後

660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった

倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした)。

鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。

660年
12月、飛鳥岡本宮発、難波宮で武器の調達

661年
1月6日 難波津(なにわづ)出発

1月8日 吉備大伯海(おおくのうみ-岡山県邑久郡)
(大海人皇子と大田皇女の間に大伯皇女誕生)
1月14日 伊予熟田津(いよにきたづ:愛媛県松山市)着
石湯行宮(いわゆのかりみや:道後温泉)で長期滞在

3月25日 那大津(福岡県博多)到着、磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮福岡市南区三宅)に入る
5月9日 朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町-博多湾からは約40㎞離れて内陸部にある)に入る。朝倉宮に来て2か月後の7月24日、斉明天皇が68歳で急死してしまう。

661年5月、一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。

661年8月
前軍将軍 阿曇比羅夫連 河辺百枝臣 他
後軍将軍 阿倍比羅夫臣 物部熊 他
百済の救援軍を送った。

661年9月、倭国にいた百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送った。

662年(天智元年)1月
百済の鬼室福信に武器や物資を送った

662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。

662年5月
大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送し、王位につけた。
長野県安曇野市の穂高神社には彼の像がある。
境内の石碑に次のように記されている。
「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られている。」
なお、飛鳥時代の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて蝦夷を平定した将軍でもあり、白村江の戦いでは後軍の将軍として百済に派遣されている別人。

662年、豊璋と鬼室福信の対立
百済に帰国した豊璋は百済王となり、鬼室福信と協力して戦いを有利に進めた。しかし、だんだんこの二人の考えが合わず不和になっていく。

663年3月、中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送った。

将軍  上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)
巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)
阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)
援軍は博多湾から壱岐・対馬を越え、朝鮮半島へ向かった。

663年6月、豊璋は、鬼室福信が謀反を起こしたとして部下に命じて殺害した。
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。

663年8月17日
唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲。唐軍は軍船170艘を白村江(錦江-クムガン河口)に配備した。

8月27日
倭国軍が朝鮮半島西岸に到着。
百済王豊璋と倭国軍は、「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。

8月28日
白村江(錦江-クムガン河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。
倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船400隻は燃え上がり、倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)
百済王(豊璋)は逃亡してしまう。

9月7日 百済が陥落し永遠に滅亡した。

滅亡した百済の王族たちは奈良地方に逃れたが、その後の動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船出した。一行は瀬戸内海で時化にあい、九州東海岸の日向市金ヶ浜と高鍋町蚊口浦に漂着した。そして、山間部に入り、父の禎嘉王(ていかおう)は宮崎県東臼杵郡美郷町に王子の福智王(ふくちおう)は宮崎県児湯郡木城町に移り住んだと言われている。(旧南郷村の「百済王伝説」より)

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唐は六六〇年に百済を破ると熊津都督府以下、馬韓、東明、金漣、徳安に五都督府を設置し、百済に占領体制を確立した。

667年11月9日
日本書紀に、「660年に百済を滅亡させ、663年に百済の復国運動に参戦してきた九州倭国を白村江で唐―新羅の連合軍で大打撃を与え、九州倭国王筑紫君薩野馬を捕虜にし、百済の熊津に唐の出先機関である熊津都督府を設置していた、唐の鎮将軍の劉仁願と言う人物が、戦後処理の為に九州筑紫都督府から出向してきていた、冠位が大山下の境部連石積という人物を、熊津都督府の役職が県令上柱国で名前を司馬法聰と言う人物に、筑紫都督府まで送って行かせた」
白村江の敗戦の翌六六四年の五月十七日、百済にあった唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗を倭に派遣し、翌六六五年十一月に司馬法聡を派遣し、境部連石積らを筑紫都督府に送ってきたと『日本書紀』はこう記す。
十一月の丁巳の朔乙丑に、百済の鎮将劉仁願は、熊津都督府熊山県令上柱国司司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。(岩波『日本書紀』より)

境部石積とは、
天武天皇11(682)年、
石積が中心となって「新字一部四十四巻」を制作。
天武天皇13(684)年には「八色の姓」によって、
「宿禰」姓を下賜されている

唐朝に捕われの身となっていた坂合部連石布等が帰国したのは 666 年(天智紀 6 年条、この年紀は「日本記」の年紀)である。彼らは「筑紫都督府」へ送り還されている。天智紀の「境部連石積」、「坂合部連石積」と坂合部連石布は同一人物

667年11月09日—–  百済鎮将劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣し、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送ってきた。  (天智6年)
667年11月13日—— 司馬法聰等が帰国。小山下伊吉連博徳・大乙下笠諸石をもって、使者を送った。
668年01月03日—— 天智天皇が即位する。    (天智7年)
669年10月16日—— 藤原内大臣(鎌足)薨去。  (天智8年)

六六八年
高句麗もやはり唐と新羅の前に屈するのである。

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天武治世
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。
10年1月7日 親王・諸王を内安殿へお召しになった。諸臣はみな小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。
大山上草香部吉士大形に、小錦下の位を授けられた。姓を賜って難波連といった。
10年1月11日 堺部連石積に勅して、六十戸の食封を与えられ、絁三十匹、綿百五十斤、布百五十端、钁(くわ) 一百口を賜った。
10年1月19日 畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた。

10年3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。
10年4月12日 錦織造小分ら合わせて十四人に姓を賜って連といった。
10年4月17日 高麗の客卯文らに筑紫で饗応され、それぞれに物を賜った。
10年6月05日 新羅の客、若弼に筑紫で饗応され、それぞれに禄物を賜った。
10年12月10日 小錦下河部臣子首を筑紫に遣わして、新羅の客、忠平に饗を賜った。(10月18日来朝、調を奉る)
10年12月29日 田中臣鍛師ら合わせて十人に・小錦下の位を授けられた。
11年01月09日 大山上舎人連糠虫に小錦下の位を賜った。
11年01月11日 金忠平に筑紫で饗応された。
11年05月12日 倭漢直らに姓を賜って連といった。
11年05月25日 多禰の人・掖玖の人・阿麻弥の人に、それぞれ禄を賜った。
11年05月25日 隼人らに明日香寺の西で饗を賜った。さまざまの舞楽を奏し、それぞれに禄を賜った。
11年08月03日 高麗の客を筑紫でもてなされた。
11年08月28日 日高皇女の病のため、死罪以下の男女、合わせて百九十八人を赦した。
11年10月08日 盛大な酒宴を催された。
12年01月02日 「・・・・小建以上の者にそれぞれ禄物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」と云われた。
12年09月23日 倭直、栗隈首、水取造、矢田部造 他 全部で38氏に姓(かばね)を賜って連(むらじ)とした。
12年10月05日 三宅吉士 他 全部で14氏に姓を賜って連といった。
13年01月17日 三野県主・内蔵衣縫造の2氏に姓を賜って連といった。
13年02月24日 金主山に筑紫で饗を賜った。
13年04月05日 徒罪以下( 徒・杖・笞の刑)のものはみな赦免された。
13年04月16日 宮中で斎会(さいえ)を設け、罪を犯した舎人を赦免した。
13年10月16日 多くの王卿に禄物を賜った。
13年11月01日 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
13年12月02日 大伴連 他 50氏に姓を賜って宿禰といった。
13年12月13日 死刑以外の罪人は全部赦免された。
14年01月21日 爵位の名を改め階級を増加した。
14年02月04日 大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて147人に爵位を賜った。
14年07月27日 「東山道は美濃以来、東海道は伊勢以東の諸国の有位の人たちには、課役を免除する」といわれた。
14年09月09日 皇太子以下忍壁皇子に至るまで、それぞれに布を賜った。
14年09月18日 宮処王・難波王・竹田王・三国真人友足・県犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋の合わせて10人に、ご自身の衣と袴を賜った。
14年09月19日 皇太子以下諸王卿合わせて48人に、ヒグマの皮・山羊(かもしか)の皮を賜った。
14年09月24日 天皇発病
14年09月27日 帰化してきた高麗人たちに禄物を賜った。
14年12月04日 筑紫に遣わした防人らが、難破漂流、皆衣服をなくした。防人の衣服にあてるため、布458端を筑紫に発送した。
14年12月16日  絁・綿・布を大官大寺の僧たちにお贈りになった。
14年12月19日  皇后の命で、王卿ら55人に、朝服各一揃いを賜った。

朱鳥元年01月02日 宴を諸王たちに賜った。なぞなぞに正解をだした高市皇子に、はたすりの御衣を三揃と錦の袴二揃いと絁24匹・糸50斤・綿100斤・布100端を賜った。
伊勢王も当たり、黒色の御衣を三揃・紫の袴二揃い・絁7匹・糸20斤・綿40斤・布40端を賜った。
朱鳥元年01月09日 三綱(僧綱)の律師および大官大寺の僧を招いて、俗人の食物で供養し、絁・糸・綿を贈られた。
朱鳥元年01月10日 王卿たちにそれぞれ絹袴一揃い賜った。
朱鳥元年01月13日 種々の才芸のある人、博士、陰陽師、医師、合わせて20余人を召して、食事と禄物を賜った。
朱鳥元年01月16日 大安殿にお出ましになって、王卿を召して宴を催され、絁・糸・綿を賜った。天皇は群臣にクイズをだされ、正解者に、絁・糸・綿を賜った。
朱鳥元年01月17日 後宮で宴を催された。
朱鳥元年01月18日 朝廷で盛大な酒宴を催された。この日、御窟殿の前におでましになり、倡優(わざひと)たちにそれぞれ禄物を賜った。歌人たちにも絹袴を賜った。
朱鳥元年02月05日 大安殿にお出ましになって、侍臣6人に勤位を授けられた。
朱鳥元年02月05日 諸国の国司の中から、功績のある9人を選んで勤位を授けられた。
朱鳥元年02月14日 大官大寺に食封700戸を賜り、税()おおちから30万束を寺に納められた。
朱鳥元年02月24日 天皇病が重くなられたので、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させた。
朱鳥元年06月01日 槻本村主勝麻呂に姓を賜わり連といった。勤大壱の位加え、20戸の食封を賜った。
朱鳥元年06月02日 工匠・陰陽師・侍医・大唐の学生および一、二人の官人合わせて34人に爵位を授けられた。
朱鳥元年06月07日 諸司の人たちの功績のあるもの28人を選んで、爵位を加増された。
朱鳥元年06月16日 三綱の律師や四寺の和上・知事、それに現に師位を有する僧たちに、御衣御被各一揃いを賜った。
朱鳥元年06月28日 僧法忍・僧義照に老後のために、食封各30戸をそれぞれに賜った。
朱鳥元年07月03日 諸国に詔して、大祓を行った。
朱鳥元年06月04日 全国の調を半減し、徭役(労役)を全免した。
朱鳥元年06月05日 幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた。
朱鳥元年06月15日 大赦をした。
朱鳥元年06月19日 諸国の百姓で、貧しいために、稲と資材を貸し与えられたものは、14年12月30日以前の分は、公私を問わずすべて返済を免除せよ。
朱鳥元年08月13日 幣帛を土左大神にたてまつった。
朱鳥元年08月13日 皇太子・大津皇子・高市皇子に、それぞれ食封400戸を川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ食封100戸を加えられた。
朱鳥元年08月15日 芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられた。
朱鳥元年08月21日 桧隅寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ100戸を30年間に限り賜った。
朱鳥元年08月23日 巨勢寺に200戸賜った。
朱鳥元年09月09日 天皇崩御。 (686年10月1日)
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日本書紀
「大唐の軍曹船戦百七十艘を率いて、 白村江連なれり、大和の船戦のまずいたるものとだいとうの船戦とあい戦う、大和負けて退く、大唐す なわち左右より船を挟み囲みて戦う、時の間に見戦我が大和軍敗れぬ、水におもむきて溺れ死ぬ者多し、 じゅくろですねこれを開戦する事得ず」船を戻すことがほとんど出来なかったという。
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韓 国側の資料「三国史記」
「これ新羅の文武をりゅうさくさんねんじょうに和国の船兵来たりて …百済を助く、和船せんつつを留まりてはくしゃにあり」

倭の軍隊は海を越え て行った訳ですから、向こうの記事では、千艘あまりがあの白村江のあたりに集結をしたような記事が あります。一方「くとじょ」と読みます、唐王朝の歴史の一つなんですけど、唐軍、新羅はその唐にで すね援軍をたのんで、唐と新羅が連合軍を組んで、日本から出発をして百済を助けたいという我が国の 軍隊を挟み撃ちにしたわけです。劉仁軌が唐側の総大将の名前です、劉仁軌の水軍が白村、日本書紀では白村江なってますけど、白い江の口というふうに中国側の記録ではなってたんですけど、 倭兵と遭遇し、その船 400 艘を焼く。

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続日本後紀に記された、敗戦後30年ほどのちに帰国して報償された参戦者によれば、出身地域は

筑前、筑紫、筑後、伊予、肥後、讃岐、陸奥、備後、大雑把に言いますと、一例を除けばほとんど西日 本、畿内よりも西側の中国、四国、九州の出身者です

捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。

707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らも帰還した。

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朴市秦田来津 えちのはたの-たくつ

?-663 飛鳥(あすか)時代の武人。
古人大兄(ふるひとのおおえの)皇子の謀反にくわわるがゆるされる。斉明天皇7年百済の王子豊璋(ほうしょう)にしたがい,百済再興のため兵5000をひきいて渡海。将軍鬼室福信との対立もあって新羅に攻めこまれる。天智天皇2年8月28日白村江の戦いで戦死した。

越智直

『日本霊異記』にみえる概略
伊予国越智郡の大領先祖越智直は白村江の戦いに参加したが唐軍に捕われた。同じ島に住む同族八人は観音菩薩像を信仰し、舟を造り、帰国できるように祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府は事情を調べたが、天皇は憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は郡をつくり、そこを治めたいと申し出、天皇はこれを許可したというのである。この越智直について『予章記』越智系図第二〇代越智守興に擬する説もあるが、同書そのものの信頼性が低いため、疑問としておくのが妥当であろう。

越智氏は小市国造の系譜をもつ伝統的勢力であることからみて、白村江の戦いにおいても一兵士として参加したのではなく、その一族や農民を率いた指揮官の立場にあったと思われる。そして、推古期に越智氏が海上に根強い勢力を有していた紀氏と結びついていることなどから(続日本紀)、越智氏もまた水軍兵力をもって外征に参加したと考えられる。

このことは、建郡(評)についても同様である。越智氏は旧来よりこの地域の最高首長である国造であった。越智直の側からみれば、地方官吏として朝廷の権威を背景に支配できるという利点もあったわけである。このように、白村江の戦いを契機として越智郡に律令的な地方行政組織の前身である評が成立し、郡制創始の前提条件が形成されたのである。

物部薬

伊予国風早郡の人、物部薬は白村江の戦いの時に出兵し、その結果、三〇余年の長期間にわたって唐に抑留された。帰国した後、朝廷は彼の忠節を賞して持統一〇年(六九六)に追大弐を授け、絁四匹・絲一〇絢・布二〇端・鍬二〇口・稲千束・水田四町を与えたと記されている(日本書紀)。この時、与えられた追大弐の位階は大宝令以後の官位では八位にしか相当しない。それゆえ、彼は地方豪族として指導的立場にあった人物ではなく、おそらく一般の公民であったと思われる。

百済救援軍に参加した兵士の本貫地をみると、陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予であり、陸奥国を除けばすべて西日本地域に集中している。
また、備中国邇磨郷で兵士が徴発された例があり(風土記)、物部薬の場合もこのような兵士徴発の際に参加したものと思われる。したがって、この例からもわかるように、百済救援軍は地方豪族層はもとより、彼らの支配下にあった多くの一般公民層をも含んでいた。このような広範な兵士の動員は兵士自らの負担であるだけでなく、兵士を徴発された地域にも過重な負担を強いる結果となった。そのことが従来の氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていった。

白村江

  
国造軍の遺制

律令制の成立以前、地方の軍事組織は主として国造支配下の軍隊、いわゆる国造軍であった。この国造軍が外征に動員されたことは雄略・欽明・推古朝などの記事からも明らかである(日本書紀)。

白村江の戦いに参加した備後国三谷郡の大領の先祖などの例(日本霊異記)

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