三嶋溝咋、玉依媛

伊比良咩神神社

故、坐日向時、娶、阿多之小椅君妹、名、阿比良比賣
神武天皇、阿波の樫原で即位されたあと、「日向」で、「阿多」の「小椅君」の妹「阿比良比賣」を娶りました。
阿波の古社(『日本三代実録』 貞観14年(872)、阿波国正六位上伊比良咩神)で、阿比良比賣は祀られています。

古事記
此間有媛女。是謂神御子。
其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣。其容姿麗美。
故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎。
乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、即娶其美人、生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命。
亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。故、是以謂神御子也。

大久米命が神武天皇に語るには「大后とするにふさわしい女性がおります。三嶋湟咋の孫、伊須氣余理比賣、この者は神の御子です」と。
美和之大物主神が丹塗矢に姿を変え、溝を上流から流れ来て、三嶋湟咋の娘、勢夜陀多良比賣と結ばれた。そして生まれた子が伊須氣余理比賣だと言うのです。
神(大物主神)と勢夜陀多良比賣の間に生まれた神の子、伊須氣余理比賣は、神武天皇の大后である。

『日本書紀』の一書には、

事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姫、或云、玉櫛姫。 而生兒、姫蹈鞴五十鈴姫命、
是爲、神日本磐余彦火火出見天皇之后也。

とあり、
古事記の大物主神が事代主神に、丹塗矢が八尋鰐に、勢夜陀多良比賣が玉櫛姫に、比賣多多良伊須氣余理比賣が媛蹈鞴五十鈴媛に変わっていますが、同じ結婚話が記されています。

また『先代旧事本紀』地祇本紀では、

都味齒八重事代主神、化八尋熊鰐、通三島溝杭女、活玉依姬、生一男一女。
・・・妹踏韛五十鈴姬命、此命、橿原原朝立為皇后、誕生二兒、
即、神渟名耳天皇、綏靖、次產八井耳命是也。

と、同様の記述がありますが、三島溝杭の娘の名が活玉依姬になっています。

「三嶋湟咋」の娘「勢夜陀多良比賣」=「玉櫛姫」=「活玉依姬」は、「大物主神」=「事代主神」の妻で、その娘「伊須氣余理比賣」=「五十鈴姬」は、神武天皇の大后。

謎の「玉依姫」です。
玉櫛媛(たまくしひめ)

日本書紀では事代主神・古事記では 大物主の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母。
別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売ともいう。

旧事本紀の記載によると 一男一女を儲けた。
第1子 天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)別名:櫛甕玉(くしみかたま)、
櫛御方命(くしみかたまのみこと)といい、食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)
に任じられている。
第2子 韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)は、神武天皇の皇后になり、
即神渟名河耳天皇(かむぬなかわみみ:綏靖天皇)と彦八井耳命(ひこやいのみこと)のふたりの皇子を産んだ。
綏靖天皇は、韛五十鈴姫命の異母姉妹、五十鈴依姫命と結婚し皇子をひとり産んだ。
この皇子が磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみ:安寧天皇)である。

■古事記 
         大物主神        神武天皇
           |            |
三嶋湟咋 ー 勢夜陀多良比賣 ー 比賣多多良伊須氣余理比賣

■日本書紀

           事代主神       神武天皇
             |           |
三嶋湟咋  ー  玉櫛姫   ー   姫蹈鞴五十鈴姫

■先代旧事本紀

        都味齒八重事代主神    神武天皇
              |            |
三嶋湟咋   ー  活玉依姬   ー   姫蹈鞴五十鈴姫

■山城国風土記

            乙訓神(火雷神)       
               |       
賀茂建角身命  ー  玉依姬   ー  可茂別雷命

■秦氏本系帳

           松尾神(大山咋神)       
              |       
秦氏    ー    阿礼乎止女   ー  都駕布

古事記・日本書紀・先代旧事本紀の3件は、どう見ても同じ話。
つまり、玉依姬・玉櫛姫・勢夜陀多良比賣は、間違いなく同一人物です。

「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐す、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とある、
そのもう一方の神社、日吉大社の主祭神は、大己貴神(大国主神)と大山咋神であり、摂社のひとつ樹下宮には、大山咋神の妃神として「鴨玉依姫命」が、祀られているのです。
これは、伝承が間違ったのでなければ、火雷神と大山咋神が同神であることを示唆するものです。
大山咋神の父は、古事記の系譜では大年神ですが、一緒に祀られる御祭神が大国主命ということは、大国主命=大年神という説を裏付けるように見えます。

賀茂御祖神社御祭神(つまり、可茂別雷命の親神、という意味で)について、
『山城名勝志』 (1711)は、大山咋神
『延喜式神名帳頭註』(1503)は、一社大己貴子大山咋神、一社玉依日女也
『神道大意』「定二十二社次第事」(1486)は、御祖社・別雷神御父 大山咋神也、松尾日吉同体也

伴信友の『瀬見小河』二之巻には、

丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり。
との解説が見えます。
大仙咋神とは別名「鳴鏑神」であり(“鳴鏑”とは音を発する弓矢)、山城国風土記の「丹塗矢」という神はこの神なのだ、というものです。

そして、『三輪叢書』所載の三輪高宮家系系譜には、
阿遅鉏高日子根命の「又名」を大山咋神、と記しています。
つまり、大己貴神の子=阿遅志貴高日子根神=大山咋神。

火雷神=大山咋神であり、その父が、大年神=大国主命とすると、三嶋湟咋=賀茂建角身命=大国主命ですから、上の丹塗り矢伝説全てにつながりが生まれます。