物部胆咋、九州の物部氏

筑紫君 磐井より以前の九州の物部氏を探る。

太田亮博士などのいうように、物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の御井郡を中心とする地域(邪馬台国や高天原の主領域と重なる地域)であった。当地域における物部の分布は、例えば『日本の神々1』の奥野正男氏の記述(二〇八~二一一頁)に見えるように、物部関係神社の分布が稠密であり、配下の諸物部に縁由の地名も多くある。この地から、北九州筑前の遠賀川の中下流域へまず移遷し、そこから近畿の河内、さらには大和へと氏族(部族)が移遷した。筑前から河内への移遷が直接かある経由地を経てのものであったかは、決めがたいという。

物部、蘇我、大伴氏は、越前の王(26継体天皇)を日本の支配者に選んだ。 
外物部である物部麁鹿火、巨勢男人らの活躍により、狗奴国後裔「磐井君」を滅ぼした。 この時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を得た。ここに一度は九州勢に屈服した日子坐王を祖とする王権が復活した。

物部胆咋連 (もののべのいくいのむらじ)

物部連胆咋、物部胆咋宿禰。

仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。
この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(『紀』)

『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の八世孫。十市根大連の子。
成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。
市師宿禰の祖穴太足尼の娘・比咩古命を妻として三児を生み、また阿努建部君の祖太王の娘・鴨姫を妻として一児を生み、三川の穂国造美己止直の妹・伊佐姫を妻として一児を生み、さらに宇太笠間連の祖大幹命の娘・止己呂姫を妻として一児を生んだとある。
天皇本紀にも成務元年正月に大臣に任じられたことがみえる。

妻妾の氏については、宇太笠間(大和国宇多郡笠間郷)→市師(伊勢国壱志郡)→阿努建部(伊勢国安濃郡建部郷)→三川穂(参河国宝飯郡)と大和から東海地方へ展開しており、この地域と物部氏との繋がりを物語るだろう。

景行四十六年八月に物部胆咋宿禰の娘・五十琴姫命が天皇妃となり、五十功彦命を生したとする

 「肥前国風土記」
昔景行天皇(12代)が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮官)を建て、国見をされたという。そのとき基肆(きい)の山が霧におおわれていたので、天皇は「この国ば霧の国と呼ぷがよい」といわれた。
後世、改めて基肆国と名づけた。
同じく天皇が、高羅の行宮から還幸の途中、酒殿の泉で食事中に天皇の鎧が光った。お供の占師、ト部殖坂が判じて、「土地の神が鎧を欲しがっています」と申し上げた。天皇は、「鎧を奉納するから、永き世の財宝にせよ」といわれた。それで永世社と名づけ、後の人は改めて長岡社(いまの鳥栖市永世神社、酒殿の泉は同市飯田町重田池だという)とした。また御井郡の川(筑後川)の渡り場の瀬が非常に広かったため、人々が難渋していたので、天皇は筑後国生葉山を船山(造船用の木材)、高羅山を梶山(舵用の木材)としたので、人々は救われた。この地を後の人は日理(わたり;亘理)の郷といった、という。この三つの説話は、景行天皇の行跡伝承で、その後この地方を支配した水沼県主、水沼君(水間君)らが、景行天皇の神霊を「山の神」、「川・泉の神」、合せて筑後国の開拓神、鎮守の神と仰ぎ、高羅山を神霊の依りどころにして、その行宮址、また水沼君の本貫地(筑後国三瀦郡)にそれぞれ祭祀したものである、とする説である。
高良の神名については、前述のとおり「記紀」「続紀」には記事がない。元寇の役以前までは、不詳の神ということができるが、さて景行天皇の名を大足彦(おおたらしひこ)といい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)という。「足」も「垂」も、神功皇后の大帯姫(おおたらしひめ)の「帯」と同義語であることから、「日足らし育てる」の意に通じ、景行天皇と、高良山の神は相共通するという説がある。
景行天皇を筑後国の開拓神として、高良山に祭祀したという県主の水沼君は、また自らを景行天皇の孫裔だと称している。(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年p58-62より)

   
長崎市茂木町にある。
応神天皇、仲哀天皇、神巧皇后、武内宿弥大臣(たけのうちのすくねのおおかみ)、大伴武持大連(おおともたけもちのおおむらじ)、物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)、大三輪大友主君(おおみわおおともぬしのきみ)の八神を祀る。

社伝によると明治維新前は八武者大権現といった。一八六八年(明治元)四月裳着神社と改称。
昔、神巧皇后三韓征伐の帰途、この裳着の浦に上陸され、御衣の裳を着けられたことで裳着の地名が起こったという。いつのころからか「茂木」と書くようになった。
キリシタン宗徒に焼かれてほとんど廃絶に帰した。肥前国高来群の領主・松倉豊後守(ぶんごのかみ)重政は神仏の再興を計り、一六二六年(寛永三)当社を再建し茂木の鎮守とした。特殊神事に湯立(ゆだて)神事がある。

一書に、宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神であると記されている。一方、『旧事本紀』の「天孫本紀」に、物部阿遅古連は水間君等の祖なり、とある。水間君と水沼君は同じである。

 「天孫本紀」にはまた物部阿遅古連の姉妹として、物部連公布都姫夫人、字は御井夫人、また石上夫人と註記されている人物の名が記されている。布都とか石上とかの名が物部氏に関連することは明らかである。字を御井夫人というからには、筑後の御井とゆかりのある名前であろう。そこからとうぜん高良山との関係が推定される。

物部阿遅古と同一の人物ではないかと想像されている珂是古という名前が、『肥前国風土記』の基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見える。
それによると姫社の郷の中に山道(やまじ)川が流れて、筑後川と合体しているが、昔はこの川の西に荒ぶる神がいて、通行する旅人を殺害していた。そこで神託をあおぐと筑前の宗像郡の人の珂是古に自分の神社を祀らせよと託宣が出た。珂是吉は幡をささげて神に析り、この幡が風に吹かれてとんでいき、落ちたところが自分を求める神の所在地であるときめた。するとその幡は御原(みはら)郡の姫社の森に落ちた。そこで珂是吉はそこに神が住んでいることを知った。その夜の夢に、糸くり道具が出てきて舞い、珂是古をおどろかしたので、その神が女神であることが分かった。やがて社殿をたて女神を祀った。それ以来、通行人も殺されなくなった。珂是古が社殿をたてて女神をまつったのは鳥栖市(佐賀県)の姫方(ひめかた)にある姫古曾神社であるとされているが、幡が風にふかれて落ちたところはそこから東方2キロのところにある福岡県の小郡市大崎という。この大崎にはいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がある。祭神は媛社神と織女神である。
ところでこの神社の嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている。

「雄略紀」には、身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉(くれ)からもってきた鵞鳥が水間君の犬にくわれたことを伝えているが、一説には筑紫の嶺県主泥麻呂(みねあがたぬしなまろ)の犬にくわれたとなっている。ここから、筑後川をはさんでむきあう水間県と嶺県とはもともと同一の県であって、後世二つに分かれたのであろうと太田亮は推定している。

嶺県はのちの肥前国三根郡である。物部氏が筑後の三井郡や肥前の三根郡だけでなく、その南につらなる山門郡や三瀦郡にも勢力を扶植していたことは、天慶七年(944)すなわち、平将門の乱の直後につくられた『筑後国神名帳』によってもうかがわれる。

『日本書紀』 に継体帝の二十二年、物部鹿鹿火が磐井と筑紫の御井郡(三井郡) にたたかうとあるところから、大功をたてた物部氏がそこにとどまったのかも知れないとの見方がある。

現在に伝わる香取氏の系図(『続群書類従』等に所収)では、「経津主尊-苗益命-若経津主命-武経津主命-忌経津主命-伊豆豊益命-斎事主命-神武勝命……」と続けます。

 『姓氏録』では唯一、未定雑姓河内に掲げる矢作連が祖を「布都奴志乃命」とする。
「布都奴志乃命」は一般に経津主神に比定され、河内国若江郡の矢作氏でも経津主命十四世孫伊波別命の後と伝えます(『姓氏家系大辞典』ヤハギ条)。この河内の矢作氏の具体的な系譜は知られないのですが、矢作部の分布が東国の両総・伊豆・甲斐・相模などに多く見えます。この辺の事情を考えると、「布都奴志乃命」は安房・阿波等の忌部の祖の由布津主命(天日鷲翔矢命の孫で、神武朝の人)に比定するほうが妥当ではないかと思われます。同族の阿波忌部が阿波国阿波郡に式内社の建布都神社を奉斎したことにも通じます。

高良玉垂宮神秘書・同紙背(高良大社刊)によれば、
祭神玉垂宮は「太政大臣物部ノ保連(やすつら)」と号し、神宮皇后が三韓征討に向ったおり、「藤大臣」と名乗って助けたという。
5人の子どもも物部であったが、物部を秘するために別の姓を定めた、と記する