熊襲と隼人、薩摩、多氏

第22代清寧天皇の3年条

『海表の諸蕃、並に使を遣(まだ)して調(みつき)進る』などと載せ、続けて

翌「4年」条に、『天皇、親みみづか)ら囚徒(とらへひと)を録(と)ひたまふ。是の日に、蝦夷・隼人、並(ならび)に内附(まうしたが)ふ』(紀上 508頁)

と『蝦夷・隼人並内附』の「初見」の記録が見えるのである。
この「清寧天皇」の「元年」条には、先帝『雄略天皇』の死を悲しむ『隼人』について


『時に、隼人、昼夜陵の側に哀號(おら)ぶ。食を與へども喫はず。七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造りて、禮を以て葬す』(紀上 505頁)

と、「清寧天皇」の祖父の世代に記録される『近習隼人・曾婆加里(刺領巾)』に次いで『二人目の隼人』が「国史」に記録され、

翌「2年11月」条には、『大嘗祭』に供献すべき「料(しろ)」のことで、「播磨国」に派遣された『伊予来米部小楯』によって後の『仁賢・顕宗天皇』の兄弟を見出された話など、 『古代隼人史』にあっては見逃せない『大嘗祭』とかかわる「貴重な史料」が得られる。

肥前國者、本與肥後國合為一國。昔者磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世、………….。因火曰火國、後分両國而為前後。又纏向日代宮御宇大足彦天皇誅球磨贈於而巡狩筑紫国之時、………..。于時天皇詔群臣曰、今此燎火、非是人火。所以号火國。知其爾由。

『肥前国風土記』に〔熊曽(熊襲)〕に言及した記事があります。「誅球磨贈於而」クマソという発音を〔球磨贈於〕と書き表している。
しかし、〔クマソ〕という1つの地域が、2つの地方に、すなわち〔クマ〕と〔ソ〕にわかれているように見える。〔クマ〕はすなわち薩摩半島です。〔ソ〕はすなわち大隅半島です。

肥前国がもと肥後国と合せて1国をなしていたとき、その国名は「火の国」であったという。
西海道、筑紫嶋にあった古い国々を、古事記によって、塗り分けて、もともとの「肥の国」の領域を見ておきたいと思います。

① 次生筑紫嶋。此嶋亦身一而、有面四。毎面有名。
故、
筑紫國謂 白日別。
豐國謂 豐日別。
肥國謂 建日向、白・豐 久士比泥別。【自久至泥以音】
熊曾國謂 建日別【曾字以音】
次生伊岐嶋。亦名謂 天比登都柱【自比至都以音訓天如云】
次生津嶋。亦名謂 天之狹手依比賣。

② 此地者、
向韓國 眞來通 笠紗之御前 而。
朝日之直刺國。   ⇒豐日別
夕日之日照國也。  ⇒白日別
故此地甚吉地詔而。

豊日の別=豊國 (朝日之直刺國)⇒豊前・豊後 ⇒ ほぼ大分県
白日の別=筑紫国(夕日之日照國)⇒筑前・筑後 ⇒ ほぼ福岡県
建日の別 = 熊曾國⇒ 薩摩・大隅 ⇒ ほぼ鹿児島県
あと1つの面が、肥國なる「久士比泥別」です。
建日向白豐久士比泥別 建日の〔白・豊〕に向う久士比泥の別
久士比泥(クシヒデ)の意味は不明としておいても、〔白日〕と〔建日〕との間にあって、また〔豊日〕と〔建日〕との間にあって、その隙間を埋める1つの地域であることはたしかです
建日の豊日に向う久士比泥の別=肥國(日向國)⇒日向 ⇒ ほぼ宮崎県
建日の白日に向う久士比泥の別=肥國(火の國) ⇒ 肥後 ⇒ ほぼ熊本県

隼人とは、大隅半島には大住隼人が、薩摩半島には阿多(吾田)隼人が住んでいた。薩摩半島は明治時代まで阿多半島と言っていた。

古事記には、『ワタツミの神の国から帰ったホオリの命は、その釣針を兄のホデリの命に与えられたが、それから以後は、だんだん貧しくなり、そのうえ、荒々しい声を起こして、攻めて来られた。、、このようにして、さんざん悩ませ、苦しめたときに、とうとうホデリの命は、頭を地につけて、”もうこれ以後は、あなたの守り人となって、昼も夜も、あなたを守って差し上げましょう”と申し上げた。だからホデリの命の子孫の隼人たちは、今でもホデリの命が溺れたときのさまざまなしわざをして、昼も夜も天皇にお仕え申し上げるのである。』と記されてある。

また『カムヤマトイワレビコの命は、日向にいらっしゃった時、阿多のアヒラ姫という女を妻として、お産みになった子が、タギシミミの命であり、次にキスミミの命であり、この二人の男がいらっしゃった。この子も大和へ同行した。』、と日本書紀には『年15にして立ち太子となりたまふ。日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津姫(あひらつ)姫を娶き妃としたまふ。タギシミミの命を産みたまふ』と記されている。

阿多(吾田)隼人は、薩摩半島の南西に住んでいた隼人で、イモガイやゴホウラガイを南方から輸入し、それらを加工して貿易していた。おそらく大きな船をたくさん持ち、南方から本州や四国にも船を出していたに違いない。カムヤマトイワレビコの命は、航海術にたけた阿多(吾田)隼人の娘と結婚することによって、遠く海上に活路を求めようとしたのだろう。当時もっともすぐれた航海術を持ち、また武勇にも優れた種族だあった阿多(吾田)隼人の援助を得て東征の軍を起こし、大和を征服しようと考えたのではないだろうか。そして一族郎党と何千人もの大住隼人と阿多隼人が武装船団を組んで大和へ向かったのであろう。

肥直と多氏

肥直(ひのあたい)
「多神社注進状」には多神社神職は多朝臣と肥直とある。 「別宮(外宮) 目原神社  天神高御産巣日尊(アマツカミ タカミムスヒ)  神像円鏡に坐す。 皇妃栲幡千々媛命(コウヒ タクハタチヂヒメ)  神像□□に坐す 已上神社川辺郷に在り 肥直を禰宜と為す」

多氏と熊本の肥直は同族だったと考えてほぼ間違いあるまい。(肥直は阿蘇国造ではない。肥は火であって熊本西部の有明海~ハ代海=不知火海方面を指す。)